第18話 ピクニック(2)

「今は瀬川さんじゃないのか、ごめんなさい。アナタの旧姓知らなかったもんだから」


 みずきもポカンとした顔で、この女の顔を眺めていた。


「あらー、みずきちゃん、大きくなったわね。目元なんかヨッくんに似てきたのかな?」


 この女は前の夫のことを「ヨッくん」と呼ぶ。私の愛想笑いは引き攣っていただろう。ボーダーのTシャツを着た頭の悪そうな顔の小さな男の子が、その女にすり寄る。


「ママ、だーれー?このオバさん」


「前にね、近所に住んでた人よ」


 彼女は図々しく、私たちのシートに座り込み、親し気に話しかけてくる。利喜人くんも状況が読めたらしく、気を遣って紙コップにお茶を入れ、彼女とその息子に手渡した。男の子は、お茶は嫌、とそっぽを向き、あの姑と仲良くするような女だから、ろくな躾なんてしてないだろうと勘ぐった。利喜人くんに気を遣わせているのも嫌だった、そして恥ずかしかった。興味のない瀬川家の現在の話やら、私が離婚した理由が近所で噂になっているだことの、子供の前で言われたくない話を、嬉々として語ってくるバカ女。これじゃあ私たちの楽しい時間が台無しだ。バカ女はわざとらしく利喜人くんを見た。


「こちらは?」


 唇の端で笑っている。上品に掌を添えて、利喜人くんを指した。

 姑が離婚理由に真実味を帯びさせるために、近所に私の浮気が原因と嘘の噂を触れ回ったのは、このバカ女だと確信した。女の勘だが、この女は前の夫に好意を寄せていた。多分、幼馴染みで自分のことを前の夫との許嫁いいなずけだと思い込んでいた節がある。プロポーズされ、前の夫の実家に初めて行った時にこの女と出会った。前の夫が私を紹介すると、上から下まで汚い物を見るような目付きで観察された。そして女は前の夫に耳打ちをしたが、それは態と聞こえるようにハッキリと、と言った。どこの馬の骨かもわからない私に、大好きな幼馴染みのヨッくんを取られて、相当悔しかったのだろう。私は横取りした覚えなどない、いい迷惑だ。

 私たちの結婚式の日取りが決まると、当て付けのように私たちより2ヶ月前にこのバカ女は結婚式を挙げ、先に子供を作って、腹が大きい状態で私たち結婚生活に横槍を入れてきた。あの家の苦悩は、姑だけでなく、血の繋がらないこの小姑の存在も大きかった。この女は死ぬまで会いたくない人間の1人だった。


「結構、若い方ですよね」


 バカ女はいやらしい目で利喜人くんを見た。利喜人くんも、どう答えていいのかわからず困惑した目を私に向ける。どうしてこの女は私の邪魔をしたがるのだろう。


「七海さん綺麗だから、こんな若い子捕まえるのなんか他愛もないかぁ」


 バカ女の視線が肌を指す。実際、本当に痛い。もうこの場から逃げ出したい。なんで私がこんな思いをしなければならないのか。娘の前でやめて欲しい。子供を持った同じ立場の母親が、どうしてこんなこと平気でできるのだろう。

 私はいたたまれなくなり、水筒をバックに仕舞いながら、引き攣った愛想笑いを浮かべていた。


「じゃあ、みずき。そろそろ帰りましょうか」


 利喜人くんはこちらを見つめているが、私は目を合わせられない。恥ずかしく、何も言い返せなくて情けない。


「やーだー。まだ遊ぶー」


 みずきは、またフリスビーを持って立ち上がった。そして利喜人くんの手を引っ張り、


「ねえ、行こう。


 え?なに?ちょっとこの子は突然何を言い出すの。バカ女も興奮して目を丸くしている。


「いや、その。すみません。今日1日、パパだと思っていいよ、って僕言っちゃったんですよね。ビックリしました?」


 そう言って頭を掻く利喜人が照れ笑いをすると、バカ女も笑い出した。


「そ、そうよねえ。また七海さん、結婚なんかしたらねえ。あなた若いからまだ色々知らないかもしれないけど、相手はちゃんと選んだ方がいいわよ。先は長いんだから」


 バカ女は馴れ馴れしく利喜人くんの肩を叩いた。


「そうですよね。みずきちゃんも結婚したら急にパパって呼ばせるよりも、慣れてもらおうと思って、パパって呼んでいいよって言ったんですよ」


 そう言ってみずきに手を引かれ、走っていってしまった。利喜人くんは何を言い出してるんだ、と驚いたが、この状況を察知してくれて、話を合わせてくれたのだ。なんて機転の利く子なんだろう。振り返ると、バカ女が面白くないと顔を痙攣らせている。


「なぁんだ、お幸せそうじゃない」


 そう捨て台詞を吐いて、つまらなそうな顔で去っていった。


        ◆◇◆◇◆◇


「本当に、ゴメン」


 私は動物園の帰り道、利喜人くんが運転する車の助手席で、体を小さくして謝った。あの後、何回謝ったか分からないが、どんなに謝っても謝り足りない。まだお互いによく知らないし、べつに付き合っているわけではないのに、変な気を遣わせてしまった。本当に申し訳ない。


「いいんですよ、もう。そんなに謝んないでください。みずきちゃん起きちゃいますよ」


 みずきは後部座席で寝ている。余程楽しかったのか、疲れて鼾をかいていた。利喜人くんは自分の上着を掛布代わりにしてくれた。多分、ヨダレとか付いてしまっていると思う。あとでクリーニングに出して返さなきゃ。


「それにしても、なんなんですか、あの人。凄い感じ悪い人ですよね」


「ごめんね。利喜人くんにあんな嘘まで言わせちゃって」


「いや、あれ嘘じゃないですよ」


「また、そうやって大人をからかって」


「からかってないですよ」


「だって、まだ付き合ってもないし、全くお互いのことも知らないじゃない。それに私、娘もいるオバさんよ。他にもっといい子いっぱいいるでしょ」


「いないですよ、七海さんみたいな人。それにさっき遊んでる時、みずきちゃんに聞いたんです。俺がパパでもいいかな、って」


 なんだこの人は。今までこんな積極的な男に出会ったことがない。ただ悪い気はしなかった。むしろ嬉しかった。それと同時に不安もあった。絶対からかわれている、だって利喜人くんのルックスは爽やかで絶対モテる子だ、そんな子が態々離婚歴のある私みたいな女を選ぶ理由がない。自分で言うのも気恥ずかしいぎ、私の見た目はそこそこ良い方の部類だと思っている、むかしから言い寄ってくる男も少なくない、聞けば8歳下だった、そんな若い男が私に求めるものは体だけだ、今までもそう、私には中身がない。利喜人くんも、1回ヤレればくらいの気持ちで私に近づいたのだと思う、そんなの当たり前だ、ただあまり期待させないで欲しい。


「子供になに言ってるの。そんな適当なこと、言っちゃダメよ」


 期待している自分に苛つき、少し口調が荒くなった。


「適当じゃないですよ」


 ムキになって答える利喜人くんの声と被り、カーナビが「目的地付近です」と冷静な声色で口を挟む。


 私のアパートが見えた。ボロい階段の木造アパート。現実に戻ってしまった気がして、気持ちが落ちる。

 彼はアパートの前に車を停め、サイドブレーキを引いた。運転席から真っ直ぐ見つめてくる。


「俺じゃあダメですか?」


 むかし見たドラマのような台詞だ。他人から聞いた話だったら凄く陳腐で鼻で笑ってしまう言葉でも、今この状況に置かれている私にとっては心動かされる魔法の言葉に聞こえた。ダメなわけない。

 私は無言で車から降り、後部座席のドアを開けた。みずきを抱き抱えようとすると、利喜人くんが私とみずきの間に割って入り、


「起きちゃうんで。俺、部屋まで運びますよ」


 彼のガッチリとした肩からたくましい腕が伸び、みずきの体を持ち上げた。みずきは少し抵抗したが、薄く目を開け利喜人の姿を確認すると、安心した顔で体を預けて、また寝息を立てた。その体を利喜人くんの腕が優しく包んでくれた。私はそのみずきに嫉妬した。ダメだ、彼をこのまま家にあげてはいけない。私には離婚後、男性とそういう関係になったことくらい少なからずある。でも家ではしないと決めていた。みずきと生活するスペースを汚したくない、私の嫌いなあの母親と同じになってしまうからだ。

 玄関のドアに鍵を差し込みそっと開ける、でもどうしたって古臭い鉄のドアは蝶番が錆びていて、キリキリと大きな音が出てしまう。みずきが起きてしまえば、は避けられるのに、私はみずきが起きないことを願っている。私は先に部屋に上がり、電気も点けず暗い中、急いで娘の布団を敷き、彼はそっとみずきを寝かせる。

 外は暗く、静かだった。月の明かりが部屋の中を照らした。近づいてくる彼の顔が見える。あとは、ただ彼に身を任せた。





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