関 七海
第13話 名前の由来
「ひかりたん、エライでちゅねー。ニンジンも食べれるようになったねー」
ベランダから差し込む日差しが夫の背中を照らしている。11月にもなれば静岡でも外は寒くなり始めるが、今日は快晴で、強めの日差しが部屋を暖め、心地良い室温に感じた。
父親に褒められて、娘は嬉しそうな顔を上げたが日差しが眩しくて、目をつぶって辿々しい仕草で両手で顔を覆った。夫は大根と人参をペースト状にした離乳食をかき混ぜ、もう1度食べさせようとしたところ、娘の眩しそうな顔に気づいた。
「ゴメンゴメン、眩しいでちゅねー」
夫はその娘の仕草も愛おしいようで、鼻歌を歌いながら日の当たらない席に移動させた。ベビーチェアーを滑らせ、ブーン、と言って日陰に移る。夫は私より8歳下で若い。まだ26歳だ。若いせいか加減を知らず、勢い良くベビーチェアーを動かしたので、驚いた娘が少し
でも、まあこうして夫が娘の面倒を見てくれるから、私がゆっくり家事ができるのだが。
洗濯機のアラームが鳴った。私は洗い終わった衣類を洗濯カゴに移し、ベランダに出る。
「ひかりの面倒ばかりじゃなくて、たまには洗濯物干してよ」
ベランダから冗談で軽く嫌味を言うと、
「だって俺が干すと、七海さん、干し方が違うとか、どうのこうのって言うじゃん」
私はTシャツのシワが嫌いだ。洗濯物は、まず洗濯機から出したら軽く畳んで、それを重ねていく。まだ濡れているうちにそうするとプレスされ、それを叩いて干すと、シワが入らず綺麗に干せる。そうすると、あとでアイロンかける必要がない。多分、夫はそのことを言っている。
私はこんな夫とのやり取りも好きだ。若いのによくやってくれてると思う。夫と同じような年頃の男の人は、結婚している人も少ないだろうし、実家暮らしの人はまだ親のスネを齧ってる人が殆どだろう。若くして結婚してても、家事や育児なんかしないんじゃないだろうか。こんなに娘を可愛がってくれる人、それは私自身のことも大切にしてくれていると感じる。娘が寝ていれば、洗濯物だって取り込んでくれるし、畳んでくれる。実家では家の手伝いなんかしてなかっただろうが、最初は服の畳み方も下手だったが、私のレクチャーで今じゃ私より綺麗に畳める。
外の空気が気持ちいい。ベランダは陽の光でポカポカと暖かいが、冬の空気は冷たい。思い切り息を吸い込むと、肺に冷たい空気が入っていく。その冷たい空気が身体中に行き渡る。毛細血管まで開いていく感じがして、目が覚める。気持ちいい朝だ。太陽の光が夫の白いTシャツに反射して眩しい。キラキラしている。この先このままずっとこの幸せが続くようだ。太陽の光は希望に満ちている。「ひかり」という名前を、そんな希望を込めて娘に付けた。
私の名前は「
でも、どんな意味を込められても、女の子は結婚して苗字が変わってしまえば、名前に込められた運気も変わってしまう。夫と結婚し、「関」の苗字に変わり、吉凶混合という、どっち付かずのわけのわからない運勢になってしまった。それでも厳しい父に育てられた時に比べれば今の方が幸せだから、そんな運勢など信じていない。
運勢などは関係なく、私は「七海」という自分の名前をあまり気に入っていない。旧姓の「
じゃあ「渡合」に戻せばいいかと思うと、こちらもなんだかバランスが悪い気がしてくる。カクカク強張った漢字が連なり、イメージだが戦時中の戦艦に付けそうな
「ななみ」という響きは嫌いではない。平仮名だったら良かったのに、と思う。丸く優しい感じになる。どんな苗字でも平仮名だったら、そんなに拒むことはないだろう、そう思って娘の名前も平仮名にした。
洗濯物を全て干すと、部屋の中から、ひかりの唸り声が聞こえた。ご飯を食べ終え、夫が娘を抱いて頬擦りをしていた。娘は夫の腕の中で、もがいているのだ。朝なので寝癖を付けたままなのはいいが、無精髭が痛いらしい。しつこく頬擦りをしようとする夫の顔を、娘は顔を真っ赤にして両腕を突っ張っている。
「もう、髭が痛いのよ」
夫は自分の頬を摩り、ひかりたんゴメーン、とベビーベットに娘を寝かし慌てて洗面所へ走っていった。私がベットを覗くと、娘は目を丸くして笑った。つられて私も笑ってしまう。
「あれー?七海さん、髭剃り、どこー?」
まったく世話が焼ける、大人の体をした子供だ。
夫と籍を入れて2年、なにもかもが幸せに感じていた。可愛い娘に良い夫、なんの問題もない生活。
ただ一つ、気がかりなことを除いては。
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