第11話 借金男のゴミ屋敷
携帯を首と肩に挟み、鍵を開け、自分の家の扉を開けようとすると、なにかが突っかかって半分しか開かなかった。扉を無理矢理揺すると、携帯を落とした。携帯を拾い耳を向けても常田は電話に出ない。
体重を乗せて扉を押すと、ガビガビガビッと、プラスチックが潰れる音がした。今朝出がけに積み重ねてあったはずのゴミ袋が崩れ、玄関を占領している。
その大量のペットボトルが入ったゴミ袋を蹴飛ばし、取り敢えず革靴をスリッパに履き替えたが、雪山を探索するようにゴミ袋の山を掻き分け、リビングに到達する頃にはスリッパの片方が脱げて、どこかへいってしまった。
ダイニングソファは透明のゴミ袋の山に埋まって姿が見えない。ダイニングテーブルの上にもゴミ袋や脱いだ衣類がうず高く積まれ、そこが小高いゴミの山の様を呈している。椅子も荷物で埋もれているが、1つだけ何も乗せていない椅子がこちらを向いている。3日前、突然現れた女房が座るのに使っていたからだ。
その日家に帰ると、ゴミの山から声がした。
「まったく、片付けてあげる気も起きないわ」
女房はゴミの山をバックに、ゴミの守護神のような恐ろしい形相で、ため息をゴミ溜めに吐き捨てるように言った。
「なんだよ、別れた男の家に」
「なんだよ、じゃないわよ。まだ、ここ私ん
女房は実家に帰り、別居状態。娘は実家のお義母さんがみているのだろう、女房は1人で来ていた。
「じゃあ何しに来たんだよ」
「わかるでしょ。その書類上の繋がりを止める紙を持ってきたのよ」
お決まりのパターンだ。離婚届にサインしてしまえば他人となり、養育費や慰謝料なんか要求される。その手には乗らない。もう3回目なのだ、だいたい分かる。離婚していないうちは、ただの金を入れない夫、借金を作る父親なだけだ。
「まあ、考え直せって」
「誰が考え直すの?それは、アナタでしょ。どうするつもりなの?前の奥さんたちの方にも養育費払えてないんでしょ」
「いやいや、借りる当てが見つかったんだって」
女房は腰に手を当て、態とらしく溜息を吐いた。
「借りる、って。根本的に解決にならないでしょ。嫌よ、私はともかく、亜里沙にまで被害が及ばないようにしなさいよ」
亜里沙とは、オレとこの女房との子供、4歳になる娘のことだ。オレだって亜里沙に迷惑かけるつもりはない。でもこのままでは、それも避けられない。娘の名前を出されると、なんとかしなければならないと思うのだが、打開策がみつからない。
どうせだったら俺に多額の保険金を掛けて殺してくれと言いたいのだが、じゃあ自殺とわからないように死んでくれと言われるのがオチだ。オレには自殺するような度胸も責任感もない。柔道のトレーニングで鍛えられたのは筋肉だけで、メンタルは貧弱なままだ。
「亜里沙、元気か?」
テーブルの上のゴミを顔を
今度は
1996年アトランタ五輪で、野村忠宏がロシアのオジェギンに有効を奪われ続け、誰もが諦めたあの3回戦。残り15秒で一本勝ちに導いたあの背負い投げくらい、女房の溜息は見事だった。
「そうやって同情誘うの止めてくれる」
「べつにそんなんじゃないよ。お前ら出てってから会ってないだろ」
「こんな汚い家に連れて来れるわけないでしょ」
ゴミは捨てようと思っている。帰りが遅かったり、ゴミ回収の曜日に限って浮気している女の家に泊まってたりして、溜まってしまった。それでも風呂場と娘の部屋だけはゴミを置いていない。娘がいつ帰ってきてもいいように、娘の部屋だけ掃除機をかけていた。そのついでにリビングや他の部屋も掃除しようと思うのだが、そのゴミの山を見てうんざりしてしまう。オレはその娘の部屋のカーペットの上で寝ている。浮気してきた体で、娘のベッドに寝るのは申し訳なく感じた。
「なんでこんなに汚くできるわけ!わたしたちが出てって、まだ1ヶ月も経ってないわよ」
家事をする人間がいないのだ。汚くなるのに1ヶ月もあれば十分だ。
「亜里沙の部屋は綺麗にしてある」
女房はチラッと娘の部屋の方向を見ただけで、また深く溜息を吐き、部屋の空気が一層重くなった。女房は足を組み直して言った。
「亜里沙の荷物は、いずれ取りに来るわよ。どうでもいいけど、これ、書いて」
安物のショルダーバックから離婚届を出して、オレに突き出した。
「べつにアナタからお金取ろうなんて思ってないわよ。だってお金無いんでしょ」
女房は立ち上がり、そのペラペラな紙をオレの胸に押しつけてきた。
「それよりも借金が迷惑なの。こっちにまで借金降りかかってきたら困るから」
外からバイクの音が近づいてきた。エンジン音が次第に大きくなり、マンションの壁に反響した。やがてエンジン音はマンションの階下で止まった。このマンションに住む若い男だ。学生なのかフリーターなのか知らないが、いつもきっかり23時に帰宅する。もう帰れという嫌味で、もう11時か、と言ってみたが、女房はグイッと紙を押しつけきた。これを書くまで帰るつもりはないらしい。
渋々紙を受け取り、ペンを探した。ゴミだらけでも、何処に何を仕舞ってあるかくらいは分かる。筆記用具来はテレビ台の
「判子ないなら、血判でもいいわよ」
女房は静かに恐ろしい冗談を言った。判子は筆記用具と一緒に抽斗の中にある。
ゴミがない平らな場所を探した。キッチンの隅で、離婚届を書き始めた。
虚しい気持ちになった。離婚の原因は、浮気なのか、借金なのか、どちらでもあるだろうし、それだけではないのだろう。女房の中で色んな不満が幾つも
「それにしても、なんなのよ。1ヶ月そこそこで、こんなゴミ屋敷になっちゃうなんて」
オレは離婚届を書いている途中でペンを置いた。
「ゴミ屋敷じゃねえよ!」
「何言ってるの、こんなゴミだらけの家、ゴミ屋敷じゃないの」
「だから、亜里沙の部屋は綺麗にしてあるんだって」
「そういう問題じゃないでしょ!どう見たってゴミ屋敷よ、ここは!」
「お前は、むかしから人の努力とか全然気に留めないよな」
「なんなの!アナタはいつも自分の言い分ばっかりよね!」
それでまた喧嘩になった。ああだこうだ、とお互いに罵り合った。もう収拾がつかない。あることないこと不満をぶつけ合うばかりだ。それが3日前の話。
ピンポーン、と部屋のインターフォンが鳴った。
誰だろう、時計を見ると夜の9時を過ぎた時間。モニターを覗くと見知らぬ2人の男の姿が見えた。
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