第6話 余計なことをするオジサンは余分なことに首を突っ込む

「オジサン?」


 女の子はゆっくり近づいてきた。


「イジメられたの?」


 ワンピースから出ている手足がやたらと細い。左肘を右手で押さえるように抱えている。ピンクのサンダルが小さくて、両方の踵がみ出し、地面に着いていた。


「ご飯、食べてないの?」


 そう言われれば腹が減っている。昼はコンビニで済ませたが、何を買って何を食ったか覚えていない。

 女の子のお腹がぐうぅぅっと鳴る。


「君もお腹減ってるの?」


 いきなり名前を聞くのもなんだし、お嬢ちゃんと呼ぶのも気持ち悪い。無難に「君」と呼んでみたが、それも同じように気持ち悪い気がした。


 女の子は首を振るが、またお腹が鳴った。それを隠そうと両手で腹を押さえるが、押さえたところで音は隠せない。同じタイミングで俺のお腹も鳴った。彼女は俺に気を遣ったのか、気がつかない振りをしようとそっぽを向いたが、我慢しきれず顔を歪めて笑った。頰が腫れているのか、笑うといびつな顔になった。

 俺はこういう時どういうリアクションが自然なのかわからない。娘とも全く会っていないし、離婚する前もあまり娘と接していた覚えがない。一緒に風呂に入ったこともあるし、遊園地に連れて行ったこともある。しかし、その時に何を話したのか記憶がない。手を繋いだり、抱っこしてやったりしていたのだろうか、記憶が曖昧だ。

 むかしから子供が苦手だった。どう接したらいいかわからない。一言で言うと「面倒臭い」と思っていた。「自分の子供ができれば変わるよ」誰かにそう言われた。そして自分に子供ができて、変わった実感もなく、離れ離れになった。


 辺りを日が陰ってきて、もう夕食の頃合いだ。育ち盛りの子供がお腹の鳴るような時間帯なのだ。


「もう帰らなくていいの?」


 俺の子供の頃は、子供は午後5時に帰るのが基準だった。もう5時はうに過ぎている。最近は共働きの家庭が多く5時になっても家に誰もいないから、5時に帰るという習慣はないのかもしれない。それにしても、最近の方が危ない奴も多いし、それこそ誘拐犯とかいるかもしれないし、親が心配するだろう。


「お母さん、心配するよ」


 俺の小さい子に話しかけるような聞き方をしてしまった。10歳にくらいに対しての口調は、小さい子と一緒なのか、それとも同等な口調の方がいいのか、はたしてこの子は10歳くらいなのか。その話しかけ方が気に食わないのか、女の子は首を振り、下を向いた。この10歳くらいの子供に、どんな話しかけ方が妥当なのか知らない。


「もう、帰りなさい」


 今度は先生みたいな偉そうな口調になってしまった。それでも彼女は首を振る。

 お母さんが心配する、というワードが悪かったのか、もしかしたらお母さんがいない子なのかもしれない。そんなことに気を回せない自分は、上司に詰めが甘いと言われても仕方がない。「お母さん、いないの?」持ち直そうとして無神経な事を聞いてしまった。なんて余計な事を聞いてしまったのだろうと悔やんでいると、彼女は首を振ったので安心したが、俺は確実に余計なことに首を突っ込んでいる。

 どうやってここから離れようか、なんと言って離れたら自然か次の台詞が見つからないでいると、


「オジサンも、ひとりぼっちなの?」


 と捨て猫みたいな目で俺を見上げる。汚れた服にサイズの合っていないサンダル、膝や肘に怪我をして、まさに捨て猫だ。まさかと思い、もうしておけと客観的に俺を見ている俺が言うが、「お母さん、優しい?」と、更に余分な事を口走ってしまったが、もう遅い。


 女の子は少し首を傾げてから俯いてしまった。


「誰にやられたの?」


 ああ、もうダメだ。後戻りできない。それを聞いて、俺はどうするんだ。この子の手を引っ張って、この子の家まで行き、この子の親に、「虐待してるんですか!」なんて怒鳴り込むのか。もし違ったらどうするんだ。そう言う親は絶対に虐待なんかしてないと言うに決まっている。虐待している自覚さえないのかもしれない。それに虐待を認めたとして、その後どうする?この子を児童相談所まで連れて行くのか。本質的に親になれていない俺が、正義感を振りかざして余計なことに首を突っ込んだだけじゃないか。それで俺は、いい事したと満足するだけか。


「リキトくんに、やられた」


 なんだ、クラスの子か、とホッとしたのも束の間、ママの新しい旦那さんだよ、と彼女は言う。


 よくある話だ、親の再婚相手の虐待か。

 誘拐事件のニュースを見た時、井口ほどではないが、子供に対する犯罪には、胸がザワザワとする感覚がした。それはテレビの中の出来事だからなのか、残酷なドラマや映画を見て感情移入してしまうのと似ている。が、今はあまり何も感じない。


 歩いていて何か小さなガラスの破片でも踏んだような、ほんの少しの不安。スニーカーの裏を見ると、ソールのゴムに少し刺さっている。ガラスはソールのゴムに少し傷を作り、少し心配になるが、すぐに忘れてしまう。そのガラスの破片が何の破片か、どこから来たのかなんて考えないだろう。


 踏んでしまったガラスの破片は、取り除けばいい。もしこの状況を他人から聞いたら、俺はなんと言うのだろうか。それは可哀想だ、警察や児童相談所に連れてってやればいいじゃないか、なんてもっともなことを口走るのだろうか。ちゃんとした大人を装い憤怒するのだろうか。


 たが現実にそういう目に遭っている子供が目の前に現れても、どう感じたらいいのかわからない。目の前にいる子は他人で、感情移入しようとも自分は娘と長い間会っていない。それに俺は変な趣味はないが、お世辞にも決して可愛い子ではない。どこにでもいそうな普通の子なのだ。そして、服や体が汚い。もしかしたら風呂にも入っていないのではないだろうか。少し何かえたような臭いもする。


 この子を助け出したいという正義感があるわけではない。関わり合ってしまったことを後悔もしている。しかし、知ってしまい何もせずにというほど無神経でもなければ、こういう場合どうすれば清廉せいれんなのか対応力もない。

 俺はこういう時、色々考えて、いつも何もできない。上司には詰めが甘いと言われ、部下にはつまらないと言われ、元女房にはあなたといると1人でいるみたいだと言われる。何もできないで自分に腹が立ち、消えてしまいたくなる。色々考えてるようで、何も考えていないのだ。黙ったまま逃げ出したくなった。


 結局また何もできないで立ち尽くしていると、彼女は俯いたまま、またお腹をさすった。腹が減っているのだ。俺は捨て猫を見る目で、彼女を見ていた。


 そうだ、捨て猫だ。拾って飼うわけにもいかないが、放っておくわけにもいかない。何か食べさせてやって、適当に帰せばいいじゃないか。見捨てた罪悪感もなく、少し善行をした気分になれて、不審者に思われたら虐待を引き合いに出し放っておけなかったと言えば、それこそ清廉な行いではないか。自分の浅はかさを笑う。

 どうでもいいことだ、周りの目なんか気にせず、上手くやれる人間になりたい。ただ、それが1番難しい。誰もいないところに住みたい。かといって無人島生活なんかできない。食うところにも寝るところにも困らない生活に慣れてしまい、他人と関わりを持たない生活なんて無理だ。ひとりぼっちを感じてはいても、いつも誰かと関わりを持たないと生きていけない。誰もいないところになんか住めるはずがないのだ。また、堂々巡りだ、このまま何もしないのだろう。


 今できる唯一のことは、この子に何か食べさせてあげることくらいか。多分この子だって、逃げ出したい気持ちはあっても、行く場所などない。どんなに虐待を受けようと、親の元からは離れられないことくらいわかっているのだろう。

 ただ、この子は俺と同じに思えた。ひとりぼっち。


「なんか食べようか」


 夕飯を1人で済ませるより誰かと一緒の方がいいか、と安易に出た言葉だった。女の子は顔を上げ、戸惑いの表情を見せたが、小さく頷いた。食べ物で釣って連れ出すなんて、本当に誘拐犯と同じだ。

 駅の方に向かえば、食べ物屋なんていくらでもあるだろう。とりあえず歩き出した。

 途中信号待ちの交差点、振り返るとそこには「いつもと違う車で いつもと違う場所へ行こう」と書かれたポスターが目に入った。車を背に父と母、父の手は息子の肩に置かれ、その息子と手を繋ぐ妹、4人とも嘘みたいな笑顔、絵に描いたような幸せそうな家族、レンタカーのポスターだった。


 俺たちは信号が変わったのに気づいていなかった。俺たちは、そのポスターに見惚れていた。女の子は何を感じているのか想像できない無表情な眼差しでそれを見つめていた。


「どこか、遠くの方に行きたい」


 彼女はポスターから目を離さずに小さな声で、しかしはっきりとした口調で呟いた。俺も同じことを考えていた。

 俺は彼女の手を引き、レンタカーの扉を開いた。


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