2-5

 通話を終えてから三十分後、普段使っている最寄りの駅の改札口前で傘を畳んで彼女が来るのを待っていた。家を出る途中、呼び止められる声に反応して背中を凍り付かせていたが、立っていたのは姉の後に帰ってきた母であり「明希さんに借りたものを返しに行く」と伝えると気を付けるようにだけ言われ、それ以上は何も問われなかった。

 両親もお姉さんも明希さんのことはよく知っていて、昔から仲良くしてくれていた縁もあって今でも大きな信頼を寄せている。私がこんな状態になっても、嫌な顔せずに一緒にいてくれる彼女に、感謝してもしきれない。


 だからこそ、昔のことが知りたい。出来れば全て思い出して、早瀬さんたちのように気軽に色んなことを話せる深い関係でいたい。

 『幼馴染』という言葉を、飾りになんてしたくない。


 一人物思いにふけっている間に電車が止まり、中から学校指定の群青色のジャージを着た明希さんが降りてきた。


「すみません。急に呼び出したりして」

「気にしてないよ。それより、何かあったの?」


 呼び出された理由を聞かれ、答えようとするところで往来の真ん中であることに気づき、手を引いて券売機のすぐ隣にある長椅子に並んで腰を降ろした。

 不思議そうに私を見る視線に意を決して向き直り、記憶を蘇らせようとする。


「昔のこと、色々教えてくれませんか」


 私の強い眼差しに少し目を見開いていたけど、真剣な表情にすぐに変わり私に向き合う。


「陽奈、だけどそれは」

「分かってます! だけど、このままが嫌なんです。皆に気を遣わせるのも、対等にお話が出来ないのも」


 思わず言葉を遮ってしまい、子供っぽいことをしてしまったと思うが、今の私にはどうしてもそれが必要だった。


「……何で、急にそう思うの」


 しばしの沈黙の後、明希さんは怒るわけでも、問い詰めるわけでもなくそっと訳を尋ねてきた。その姿勢に向き合うように、今までのことを一つずつ話し始める。

 学校での早瀬さんたちのこと、漫画を読んだ時のこと、埋められなかった心のことを話している間、明希さんは何も言わずただじっと私の言葉を待っていた。

 そして、全てを話し終えると少し考えるような仕草を取っていた。その間、静かな夜の時間を虫の羽ばたく音や動物たちの鳴き声が彩っていた。

 やがて、明希さんは静かに口を開く。


「……そういうことなら、確かに教えることはできるよ」

「でしたら」

「でも、それって陽奈にとっては『記録』にしかならないんじゃない」


 喰いついていた私は、その言葉に耳を疑う。


「記録?」


 咄嗟に出た一言なのか、それを説明することまでは考えていなかったみたいで、唸りながら言葉を探し、それを告げていく。


「あんまり例えとか説明とかは上手くないんだけど、記憶ってその時の私たちが楽しんだり悲しんだり、分かち合ったりしたことも含めてそう呼ぶんだと思う。だから、起きた出来事や話題になったものだけを追いかけても、それに意味はないよ」


 諭すような口調だけど、その中にある強い意志に私はただ押し黙り、静かに聞いているしかなかった。


「それに、私はそんな思い出を持った陽奈と昔のことは話したくない」


 どきりと、心臓が大きく高鳴り、鋭利なもので胸を突かれたかのような痛みが走る。



 私は、ただ、皆と——明希さんとちゃんと話したかっただけなのに。



 頭に浮かんだ想いが、喉を通らない。突きつけられた言葉が、頭にこびりついて離れない。一番きちんと向き合いたい人に、私のしていたことを否定されて、心が締め付けられていく。

 返す言葉もなく、相槌を打つこともなく、ただそのショックで項垂れる私に明希さんは尚も優しく話しかける。


「ねぇ、陽奈。焦らなくていいよ」


 その言葉に少しだけ顔を上げると、彼女は笑っていた。


「昔のことが思い出せないなら、今のことを話そうよ。学校での出来事とか、メッセでのやり取りとかをいっぱい喋って積み上げていこう。それだって、立派な思い出になるんだから」


 胸を張ってそう語る彼女は輝いていて、落ち込んでいた私の気持ちを次第に晴れさせていた。


「小さい頃のことはさ、ちゃんと思い出したらまた話そうよ。……それまで、待ってるから」


 言葉から感じる力強さが私の背中を押してくれて、その優しさに思わず目が潤んでいた。



 何も、分かってなかった。

 昔のことばかりに気を取られて、つぎはぎの思い出を作ろうとしていた。でも、そこに本当の私はいない。そんな姿を見せても、明希さんは絶対に喜ばない。

 それに、彼女はずっと今の私を見ているのに、過去の自分にすがって対等になれると信じ込むなんて、間抜けだ。

 向き合わなきゃいけないのは、今の明希さんだ。今の私が、ちゃんと話さないといけなかったんだ。

 振り返っても、そこに彼女はいないのだから。



 零れそうな涙を抑え、隣で見守っている幼馴染の顔をしっかりと捉える。


「……ありがとう、ございます」


 眩しいほどの彼女に励まされて、心に巣食っていたものが徐々に消えていく。きっと、今の私の顔は嬉しさでいっぱいな表情をしているんだろう。



 ——彼女が、私の幼馴染で良かった。







 気持ちが落ち着くまで駅で過ごしてから離れると、外は真っ暗でわずかに光る星空の下を等間隔に並んだ街灯だけで照らされる道標をたよりに、私たちは並んで歩いていた。


「明日も部活ですか?」

「うん。そろそろ大会に向けての練習が本格化するから、忙しくなるよ」


 相変わらず私が見上げるような形になっているのに、今は同じ高さにちょっとだけ近づけたような、そんな不思議な距離感に私の胸の中は安らいでいた。

 昔の私も、こんな風に隣を歩いていたんだと思う。確実に覚えてる記憶なんてないけど、きっとそうだと心からそう感じられる。

 過去のことに気を引かれないと言い切れる自信はまだない。けれど、今は前を向く彼女とちゃんと並びたくて、少し先のことを話していた。


「明希さん、大会が終わったら一緒に遊びに行きませんか?」

「良いけど、言ってくれれば土日は空けられるよ」

「それはそれで考えます。せっかくですから、何処か遠くに行ってみましょう」


 少し機は早いけど、明希さんと一緒に出かける未来の出来事を想像してみる。

その頃には夏が本格的に始まっているから、海やプールに行くのもいいかもしれない。小さな夏祭りに参加するのも面白そう。

 きっと、楽しく過ごせるんだと思うと今から期待で胸が膨らんでいた。


「じゃあ、楽しみにしてる」


 そう答える彼女は、また優しく微笑んでくれた。



 ——その笑顔を、もっと見ていたい。



 自然と湧き上がった気持ちは心を暖かくしてくれて、私も笑みを浮かべていた。


「色々調べて計画してみますね、明希ちゃん」


 その時、私の言葉に明希ちゃんが目を見開いて固まっていた。何気なく喋ったつもりだったのだが、どうしたのかと少し前の発言を思い出す。

 ……高校生にしては子供っぽい渾名で呼んでしまったことに、次第に顔が赤くなっていく。


「ご、ごめんなさい! 急に変な呼び方をして! 子供っぽかったですよね」


 必死に謝る私に、最初ぼーっとしていたみたいで反応がなかったけど、声が聞こえたのか次第に状況を把握して慌てて手を横に振っていた。


「いや、そんなことなくて! 何て言うか……むしろ、そっちで」


 最後の方は、声のトーンが下がっていって上手く聞き取れなかった。ただ、そう話す明希ちゃんは頬を隠すように口に自分の腕を押し当てて、明後日の方向を見ていた。肝心の隠そうとしていた頬は、薄暗い夜空の中でもほんのりと紅に染まっているのが確認できていた。

 お互い気恥ずかしい雰囲気の中、ただ沈黙が広がっていく。そんな空気に痺れを切らした明希ちゃんは、すたすたと私の隣を横切って家へと急いでいた。


「陽奈、早く帰らないと皆心配するよ!」

「待ってよ、明希ちゃん」


 はぐれないようにその背中を追いかけて、また隣を並んで歩きはじめる。

 さっきのやり取りの余韻がまだ残っていた私は、家に帰るまでずっと目を泳がせながら話かけにくそうにもじもじとしていた。けれど、彼女の隣がいつも以上に落ち着いていられて、その安心が私に懐かしささえ感じさせていた。



 何でそう思えてしまうのか、その答えはやっぱり分からない。

 でも、この気持ちはきっと今も昔も変わっていない。確証はないけれど、私のこの想いは信じてもいいような気がしていた。

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