2-4

「昨日話していた漫画、私も読んでみました」


 翌日、学校に着いた私はあの作品のことを早瀬さんに伝えていた。


「そういえば、昨日急いで帰ってたけど……。えっ? そんなに気になってたの?」

「家に置いてあるのを覚えていたので、帰って読んでみたらいつの間にか全部終わってました」

「しかも全巻読破しちゃってる……」


 その行動力に驚いていたのか、少し目を丸くして私を見ていた。そんなに変な事かなと思いつつも、私達の間でも作品の内容を語り始めていた。

 お互いに知っていることで言い合えるのは楽しくて、同じ場面で笑ったり泣いたりすると一緒のものを見ているという安心感と一つのことを共感できていることに、心から喜べていた。



 それでも、昨日感じていた物足りなさは何故か埋められなかった。



 話していることは同じなのに、見ているものも一緒になったのに、昨日の早瀬さんたちと比べると何かが欠けているような違和感は消えるどころか増していくばかりで、どうして私の心がそう感じてしまうのか余計に分からなくなっていた。


「どうかした?」


 相槌を打つことしかしなくなった私に、流石に変に思った早瀬さんが顔色を窺ってくる。


「な、なんでもないですよ。それより、毎月月刊誌を買ってたのって大変ですね」


 慌てて手を振って誤魔化し、前回の会話にあった内容を繋ぎ合わせて話を戻していく。


「あの頃は大きい雑誌一冊買うだけのお金なんて持たせてくれなかったからさ、親と色々交渉してなんとか買い揃えてたよ」


 その時のことを懐かしそうに目を細めて語る早瀬さんは、何処か遠い所を眺めていた。

 私はその場所を見ることが出来なければ、感慨深く話す気持ちに寄り添うことすらできない。ただそれを聞いているだけ。

 こうして話してくれることに、何も感じない自分に苛立ちすら湧き上がっていた。



 相手に言葉を選ばせてしまう。その人の話に、理解をすることもできない。欠けてしまった所を、今ほど欲しいと思ったことなんてなかった。

 やっぱり、戻ってきてほしい……。



 心の奥底に仕舞い込んでいた気持ちが、ふつふつと浮かび上がり、私を逸らせる。

 今はただ、早くこの時間が過ぎてくれればいいと思いながらも、時計の針はゆっくりとしか進んでくれなかった。





 ようやく放課後のチャイムが校内に響き、昨日と同じように急いで教室を後にする。幸いにも、今日も二人は部活があり明希さんに至っては練習試合が近いため遅くなると聞いていたので、帰りはまた一人になっていた。

 電車に乗っている間も、降りる駅名を読み上げられるのを今かと待ち侘びながら小さく座って待っていた。駅に着いてからは、家まで一息に走っていく。そのまま玄関で靴を脱ぎ捨て、リビングに駆け込んでいた。

 呼吸が整わないまま辺りを見回し、特に雑誌や新聞を置いてあるところを注視していく。見る位置を変えたり、視線の高さを変えたりしながら部屋をうろうろしていると、赤いハードカバーの本を私の目が捉えた。外見からでも厚みと硬さがあることを把握できて、背表紙に英語で『Album』と書かれていることが私の探している本という確かな証明になっていた。


 記憶を辿る手掛かりですぐに浮かんだのが、アルバムだった。


 よっぽどのことがない限り、大体の家庭には置いてあると思うそれを見れば、何かを思い出すきっかけになるかもしれない。例え何も出なかったとしても、その時の私に起きた出来事ぐらいは知ることはできる。



 そうすれば、皆と——明希さんと対等に話せると思うから。



 昔の自分に何があったのか。いざそれを知ろうとすると、身体が緊張してくる。


 このアルバムの中に、どんな私がいるんだろう。


 固唾を飲んで重厚感ある表紙をめくると、早速写真が何枚も挟み込まれていた。


 しかし、そこにいたのは最近の私だった。


 高校生の制服を着た写真や、ゴールデンウィークに家族旅行に行った時の写真。どのページをめくっても、そこにいるのは退院してからの私だけで、どんなに古くても入学式前までしかなかった。


「……これじゃない」


 自分が知っている記憶を追いかけても、意味がない。

 そのアルバムをそっと閉じてから元あったに位置に戻し、他にないかと再度周りを見回し始める。

 しかし、リビングでそれ以上の収穫を得ることはなかった。



 それからというもの、押入れの中や両親の部屋、私の部屋とあらゆるところを隅々まで探してみたが、あの赤いアルバム以外見つけだすことは出来なかった。何度も階段を昇ったり降りたりを繰り返し、重たい荷物を動かしたりしているうちに額から頬へと汗が流れだすが、意識は探し物を見つけること以外には向かなくなっていた。


「何で見つからないんですか」


 心で呟いたつもりの言葉が思わず声になって出ていたが、気持ちが先走る私にそれを気にしている余裕はなかった。

 長時間の捜索に疲れた私は、階段に腰を下ろして大きくため息をついて、少しだけ休憩をしていた。



 まるで、思い出が逃げていくみたい。……ひょっとすると、知らない方が良い事でもあるのでしょうか。



 そんなことを一瞬思い浮かべてしまい、すぐに頭を振って払い落とす。きっとまだ何処かにあると思い、他に見ていない場所を考えを巡らせながら必死に探していく。部屋一つ一つの光景を確実に思い返していく中で、まだ見ていない場所が私の部屋のすぐ隣にあった。

 気だるくなった身体を引きずって、その部屋の前に立つ。


 そこは、お姉さんの部屋だった。


 この家で暮らすようになってから、まだ一度も入ったことはなかった。お互いのプライベートを守るために近寄っていないのもあるけれど、ここだけは無断で入ってはいけないような近寄りにくさがあった。たまにお姉さんを呼ぶときに部屋の前に行くことはあっても、扉から先は今まで見たことがない。

 改めてその部屋を目の前にすると、まだ入ったことのない場所へ行くことにアルバムをみつけた時以上の緊張が全身を駆け巡る。


 そっとドアノブに手を掛け、扉を引こうとする。


「陽奈、何してるの?」


 後ろから部屋の主の声がして、驚いてその場で振り返る。そこには、怒った表情をしているお姉さんが立っていた。


「お、おかえりなさい」

「ただいま。それより、そこで何してるの?」


 淡々と話す声は鋭く、私に怪訝な表情を向けられ、今まで見たことのない態度に息を呑んでいた。


「……大したことじゃないです」

「そんな訳ないでしょ。靴も脱ぎっぱなしで、鞄も放り投げたまま。着替えもせずにあちこちうろついたような気配もあるし、一体どうしたの?」


 咎める態度はやわらぐこともなく、凛とした立ち姿に観念した私は口籠りながら答えていた。


「……アルバムを、探してました」


 その言葉に、お姉さんの眉間の皺はより深くなる。


「陽奈、それは駄目だって前に言ったじゃない」


 記憶にまつわることは、無理に思い出そうとしてはいけない。もし戻そうとすると、脳に深刻なダメージを受けるかもしれない。それは以前お医者さんから言われた言葉でもあり、今の我が家のルールの一つでもあった。


 つまり、私は今それを破っている。


 分かってしていることだから、怒られることも覚悟はしていた。


「……何も覚えていないのが、嫌なんです」

「だとしても、今はまだ早い。部屋に戻りなさい」

「でも!」


 有無を言わずに言い切られるお姉さんの語気に圧倒され、僅かながらの抵抗を試みるけれど、強い剣幕からはそれ以上の会話を聞き入れてはくれそうにはなかった。


「……すみませんでした」


 一言謝罪だけをして、リビングに置き去りにした鞄を拾い、靴を直してから部屋へと戻っていく。そのまま倒れこむように、ベッドに横たわっていた。

 どうすればいいんだろう……。

 知る手立てを失ってしまった私は、枕に顔を埋めて他の方法を模索する。



 アルバムはもう見ることはできないし、お姉さんや両親に過去のことを聞いても教えてはくれない。私の本棚に収まっている本を洗いざらい読み返しても、昔のことを思い出せる保証なんてない。まして、二か月以上前の通話やメールの履歴なんか残っているはずもない。

 諦めきれない私をあざ笑うかのように、考えつく付く案は次々と潰されていた。

 昔の知り合いを辿るにも、その人の顔も名前も忘れている私に、一体誰をどうやって調べれば……。



 ——たった一人、私の過去を知っている人がいる。



 そのことにばっと起き上がり、急いで制服のスカートに仕舞っていたスマホを取り出す。時刻はもうすぐ夜の八時を迎えようとしていた。この時間なら、きっと部活は終わっていると思い、通話履歴の一番上の人物を選んで電話を掛けてみる。


「もしもし。陽奈、どうしたの?」


 三回の呼び出し音の後、すっかり聞き慣れた幼馴染の声が、ざわつく心をそっと撫でて落ち着かせてくれる。少しだけ安心できた私は、小さく息を吸ってから要件を伝え始める。


「急に電話してごめんなさい。……この後、少しお時間良いですか」


 通話口から気の抜けた声が返ってきたが、それ以上の理由は聞いてくる様子はなく、一緒に乗る駅の前で待っていてとだけ告げられてから、私は着替えて外に出る準備を始めた。

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