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 しとしとと降る雨が、周囲の湿度を上げてまとわりつくような暑さを広げていく。長袖を着るには熱を溜めてしまい、かといって半袖にすれば雨水の冷たさで肌寒く、季節の変わり目に服を合わせるのが難しい時期を迎えていた。


「陽奈ー。朝ごはん冷めるよー」

「すぐ降ります」


 自室の姿見の前で制服を持って睨めっこをしていたところに、下の階から姉の遥香さんの呼ぶ声にすぐに返事をする。手に持っていた半袖の制服に着替えて、通学用の鞄を持って階段を降りながらリビングを目指していた。

 食事をとる時は家族がいつも一緒で、些細な事でも楽しそうに話し合うのが一家の決まりになっていた。最初のうちはその中にいることに馴染めなかったけど、昔もこんな朝の時間を毎日過ごしていたんだと思うと落ち着いていられるようになり、その習慣をすっかり受け入れていた。

 朝食を終えてから行き支度を整えて、家を出る。小さく降り続ける雨粒がさした傘をパタパタと鳴らし、梅雨の風物詩を耳で堪能させてくる。

 そこに、スニーカーの地面を蹴る音が一定の速さで近づき、私の隣で止まった。淡いピンクの傘とは対照的に、紺色の小さな水玉模様の描かれた傘が並び立っていた。


「おはよう、陽奈」

「おはようございます、明希さん」


 傘の隙間からお互いの顔を見合わせて、挨拶を交わす。明希さんの方が頭一つ分高いので、必然的に見上げるような形になっていた。そして、そのままの足取りで私たちは通学で使っている電車の駅を目指し始めていた。

 高校に通うようになってから、私はよく明希さんと一緒に登下校をしている。向かう学校は別々で、彼女はバスケ部に所属しているので毎日とはいかないけれど、都合のつくときはこうして並んで歩いてくれる。私が事故にあったことを気にしているのもあると思うけれど、時間を作ってでも一緒にいようとしてくれる姿に、大事にされているのがひしひしと伝わっていた。

 私としても、記憶を失くしても今までと同じように接してくれる人がすぐ近くにいるのは、とても心強くて安心していられた。



 事故から二か月の月日が経ち、記憶以外の後遺症もなく順調に日常生活を送ることが出来ていた。

 だけど、欠けてしまったものが戻ってくる様子はまだはなかった。

 それを知っているからか、家族や明希さんは意図的に昔の話題をあまりしようとはしない。その気持ちは嬉しいけど、気を遣わせてしまっていることには申し訳なさを感じていた。


 正直、戻るのなら早く返ってきてほしい。

 けれど、こればかりは待つしかなかった。自然に回復するのか、それとも何かしらのきっかけで蘇るのか——もしかしたら二度と治らないかもしれない。


 最後の結末だけは考えないように振りほどいて、今に専念する。

 きっと、少しずつ思い出せれるはず。そうしたら、家族の皆や明希さんに何か恩返しがしたい。……どんなことが出来るかは、まだ分からないけれど。

 そんな日が迎えられることを夢に見ながら、日々を意識して生きていく。

 せめて、今積み上げている記憶だけは忘れないようにとどめながら、一日の始まりを幼馴染と一緒に過ごしていた。





 電車に揺られて二十分ほどで学校への最寄り駅に着き、そこから二人で改札口を通り二人分の道幅しかない通学路を進んでいく。そこから大通りとの交差点に差し掛かったところで、私たちはそれぞれの学校へ向かって別れの挨拶を交わす。


「そしたら、私はここで」

「……うん。また」


 少し名残惜しそうに私に手を振る明希さんに、後ろ髪を引かれる思いで大通りの横断歩道を渡っていく。同じ学校なら、もっと楽しいんだろうなと想像することはあるけれど、そうまでして両親に迷惑をかけることなんて出来るはずもなかった。

 交差点を超えてすぐに、私の通っている高校の校舎が姿をみせていた。そのままの歩幅で正門を抜けて教室へと向かうと、まだ授業が始まるまで三十分以上も前から何人かの同級生が椅子に座り勉強に励んでいた。


「おはようございます」

「おはよう」


 邪魔にならないよう小さな声であいさつをしてから、席に着いて鞄を机にかける。

 朝の学習時間に時々私も混ざることはあるけれど、今日はゆっくりしようと本を開く。窓をコツコツと一定のリズムで打つ音に耳を傾けながら、読みかけの小説に視線を落としていた。

 最初に自分の通う高校の名前を聞かされた時は、そんな名前なんだというぐらいにしか思わなかった。けれど、そのことを明希さんに話すとそこは県内でも有数の進学校であることを教えられた。

 その話をされた途端、勉強について行けるか急に心配になったけれど、ある程度の基礎学力は残されていたみたいで、少しの予習と復習で最初の学力テストで好成績を収めることが出来た。それからも、大きく勉強内容についていけないということはなく、ひとまずの不安は解消されていた。

 ちなみに、明希さんの高校はこことは対称的に部活動に力を入れており、どの部も大会やコンクールに名前を残すほどに実力を持っていた。

 そんなクラスメイトを尻目に少しだけ優雅に朝の読書をしていると、時間はあっという間に過ぎてしまい、教室の掛け時計に目を向けた時には朝のホームルームの時間を迎えようとしていた。

 そこへ、廊下の奥から駆け足が近づいてくる。早まる足音の勢いのまま戸が強く引かれると、眼鏡をした生徒が荒い息遣いで駆け込んできた。


「陽奈おはよー」

「早瀬さん、おはようございます」

「相変わらず真面目だねぇ。凛でいいんだよ」


 早瀬さんは整わない呼吸のまま隣の席に急いで座り、授業の準備をする。それとほぼ同時にホームルームのチャイムが鳴り、担任の先生が入ってきていた。


「次からは早く来ないと駄目ですよ」

「はぁい」


 時間に間に合ったことに胸を撫で下ろしていた早瀬さんに、小声で注意をする。私にだけ聞こえるように小さく謝罪をしていたが、その顔にあまり反省をしている様子はなかった。

 早瀬さんとの出会いは、入学してすぐの頃に席が隣になったのが始まりだった。快活な性格で優しく、初めて会った時から私に色々話しかけたり一緒にご飯を食べたりしてくれた。

 そんな彼女に、私が記憶喪失であることを打ち明けたことがあった。でも、早瀬さんはそれを聞いても「まぁ、そういうこともあるよね」の一言で受け入れて、それ以上深く尋ねてはこなかった。

 あっさりした反応に少し拍子抜けしていたけど、変わらずに声を掛けてくれるのが嬉しくて、今では高校に通い始めて最初の友達となってくれていた。

 明希さんに早瀬さんと、家を離れても理解してくれる人がいるのが私にはとても心強く、記憶がない不安を忘れさせてくれるほどに学校生活が充実していた。

 心から安心できる人と一緒にいられるこの時間が楽しくて、大切で、もっと一日が長ければ良いのにとすら思えてしまうほどに、今の私は幸福感に溢れていた。

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