第2話『あしあと』

2-1



 遠くから、音が聴こえる。



 小さいけれど一定の間隔で鳴る電子音に、まばらに話す人の声が無の世界に響き始め、私の意識をゆっくりと起こしていた。重く塞がった瞼をゆっくりと開け、身体を起こして周りを見ると、そこは白く彩られた部屋だった。

 部屋を囲う壁や天井も、風で靡くカーテンも、身に着けている衣服でさえ同じ色に統一されていて、少し無機質な雰囲気が漂うような場所で、私は目を覚ましていた。



 ここは、何処なのでしょう。私は、一体……。



 まだはっきりとしない頭を一気に叩き起こしながら、今の状況を思い出そうとしてみる。だけど、すぐに出てきたのは名前くらいで、神経を頭に集中しても、連想ゲームのように言葉を羅列しても、記憶を掠ることすらない。

 まるで、この部屋と同じように心の中までペンキで真っ白に塗られてしまったみたいで、その色以外何も彩られてはいなかった。

 きょろきょろと辺りを見回しながら他に分かることを探していると、知らない間に部屋にぞろぞろと人が駆け込んできて周りを囲んでいた。何事かと怯える私をよそに、そこにいる人たちが口々に名前を呼んでくる。けれど、それぞれの声と顔を一致させるものを持ち合わせているはずもなく、見知らぬ人たちに話しかけられるという不気味な光景を目の当たりにしていた。

 一緒に駆けつけた白衣の男性の話によると、私は目覚める前に事故にあってしまい、その衝撃で記憶のほとんどを失ってしまったらしい。そのことを私の家族と言われる人たちは受け入れることが出来ないみたいで、何度も私に自分の名前や昔の出来事を懸命に話しかけて思い出させようと試みていた。けれど、空っぽになった私の心には何も響かず、それが悲しいという感情すら浮かんではこなかった。

 今の私には『頭に消しゴムをかけられた』という言葉がピッタリあてはまり、何がどうなっているのか事態が飲み込めずにいた。


 この人たちは、何を言っているの? 私と、どんな関係なの?


 記憶を蘇らせようと、自分に質問を繰り返す。だけど、いくら待っても沈黙以外の答えは返ってはこなかった。




 それからしばらくの間、家族とお医者さんのやり取りをただぼんやりと眺めていた。今後の治療のことであれこれ話しているようだけど、私にはそれが違う誰かのことを喋っているみたいだった。


「陽奈!」


 そこに、また違う人の声がして中に入ってくる。

 ゆっくりとその方に顔を向けると、私より背が高そうだけど顔つきから同い年ぐらいの人がそこに立ちつくしていた。私はその子のことをじっくりと見つめて、彼女は何者なのかを記憶に問いかけてみる。


 ……分からない。

 名前を呼ばれても、親しげな顔をされても、あなたが一体誰なのか。


 受ける答えはやっぱり同じで、何も感じ取れないことに歯がゆさを覚えてしまう。そんな私の気持ちとは裏腹に、その人の期待の眼差しはより一層強くなっていた。


「あの、どちら様でしょうか」


 私の問いかけを聞いた瞬間、その人は返す言葉を失ってしまい全身から力が抜けていくのがすぐに見てとれていた。それに気づいた遥香と呼ばれていた人が、彼女の手を強く引いて外に連れ出していく。扉が閉まって姿が消える間際、彼女と目が合っていた。その瞳には、病室のベッドの上で座る私の姿が確かに映していた。

 突然の訪問に、周りの人たちも困惑していて、先程までの会話が中断される。その様子から、家族の一人でもなければ親せきの方でもないことが窺えていた。

 さっきの人は、一体誰なんでしょう。

 そんな疑問を浮かべても、今の私にもはや答えなんて解かるはずなんてない。



 そのはずなのに——何処かで見たことがあるような、そんな気がしてならなかった。

 


 見ず知らずの相手のはずなのに、どうしてか懐かしさを感じてしまう。それほどまでに、彼女の顔は私にとって印象的だった。

 少し面長な輪郭に顔のパーツが綺麗に収まり、短く切り揃えられた髪がより快活なイメージを作り出している。そして、右のもみ上げに結われている三つ編みがさり気ない可愛さをアピールしていた。

 何より、去り際に私の姿を映したあの瞳が、真っ白な頭に今でも焼き付いている。

 どうしてこんなにも気にかけてしまうのか、その理由は分からない。ただ、私の記憶に何か関係しているような気がして、次の日にまた彼女が来るのを待っていた。





 しかし、日付が変わって朝日が昇っても、お昼ご飯の時間を過ぎても、あの女の子は姿を見せなかった。明確に会う約束をしているわけではないから、来なくて当然と言われればその通りだった。


「あの、お姉さん」


 目が覚めてから、ずっと私の身の回りの世話を焼いてくれている遥香さん——私のお姉さんにベッドの上から声を掛けると、ゆっくり振り返ってから慈愛の笑みを浮かべていた。


「もっと気楽に呼んでいいのよ。家族なんだから」

「……すみません」


 たどたどしく呼ぶ私に、お姉さんはそう言って優しい表情で見つめながら、そっと頭を撫でてくれる。まだ家族という実感が持てていないことが申し訳なくて、少し伏せ目がちに見ながらそれを受けていた。


「それで、どうしたの?」


 ゆっくりと聞いてくれるお姉さんに、昨日会ったあの子のことを尋ねてみる。


「あの、この間居たあの人はまた来ないのでしょうか」


 私の質問に、顔つきを変えないまま何も答えず、その手をそっと離していく。どうしたのかと顔を覗き見てみると、その表情は少しだけ強ばっているようだった。


「……どうだろうね。多分そのうち来るんじゃないかな。それよりも、今は治療に専念しなさい」


 先程と変わらない、優しくて落ち着いた口調。だけど、その言葉はどことなく他人行儀で、まるで私には関係ないと言わんばかりの態度だった。その理由を知る由もない私は、ただ首を傾げて不思議そうにお姉さんの様子を見ているだけだった。





 それから日を追うごとに体調は良くなっていき、日常生活を送るのに支障はないという診断結果を受けて胸を撫で下ろしていた。それでも、記憶の方は戻る気配はなく、それだけは焦らないようにとの注意を受けることになり、未だ消えない不安を抱えて診察室を後にしていた。

 一緒にいた家族は、私に大事がないことを喜んでくれて、記憶に関してはゆっくり思い出していけばいいと慰めてくれる。けれど、そう言ってくれる人の顔も、声も、あの女の子のことも何も覚えていないことが私をもどかしさでむず痒くさせていた。

 結局、あれから一度もあの子が病室に現れることはなかった。彼女自身の都合で忙しくなったり、ご家族の用事に付き合っているのかもしれない。

 そもそも、私の記憶違いなのかもしれない。

 様々な理由が受かんでは消えてを繰り返して、彼女が来ないことを正当化していく。それでも、あの子が私と無関係だとは思えれなかった。

 家族と別れて、独り中庭で今後のことをぼんやりと考える。



 ……これから、上手くやっていけるんでしょうか?



 知らないことが、知らなきゃいけないことが沢山あって、頭が混乱しそうになる。それらを全て思い出すのに、どれだけ時間が必要なのだろう。私の中の不安は、膨らんでいくばかりだった。

 日も西に沈みはじめて、看護師さんからそろそろ部屋に戻るようにと言われる時間になろうとして、私は腰を上げて正面入り口に戻っていく。

 自動ドアのガラス扉が見えてきたところで、誰かがその前に立ち尽くしていた。

 その人は入るのを躊躇っているようで、他の患者さんも気にしながらも避けるように横を通り過ぎて病院に戻っていく。

 着ているブレザーは学校の制服のようで、背も高くスカートから伸びる足はとても引き締まっている様子は、運動部員のような雰囲気がしていた。


「中に入らないのですか?」


 恐る恐る声を掛けてみると、それに驚いてこちらにゆっくりと振り向く。

 そこにいたのは、あの時の女の子だった。


「陽奈」

「あなたは、あの時の」


 懐かしそうに私を呼ぶ声はとても穏やかだったけど、それとは裏腹に彼女の顔は私に対して何処か遠慮がちだった。


「この間は、急に押しかけたりしてごめん」


 いきなりの謝罪に続いて深く頭を下げ、驚く隙を与えないかのようにいろんなことが目の前で繰り広げられていた。

 以前急に来たことを謝っているのは分かるけど、あの日から今に至るまで色んなことが目まぐるしく変わっている私には、その言葉を受け止める余裕なんてなかった。

 そんな悲しみの中にいる彼女の姿には、やっぱり見覚えがあった。


 どうしてかなんて分からない。この既視感も、先日会ったのだからと言われたら、きっとそうかもしれない。今の私に、この気持ちを説明できる思い出も、言葉も、持ち合わせてなんかいない。

 それでも、彼女から感じる強い縁のようなものは、嘘ではないと思えなかった。


「……じゃあ、私はこれで」


 それを言う為だけに来たのだろうか、それとも何か罰が悪いのか、彼女はそそくさと帰ろうとしていた。



 待って。まだ、話したいことが——。



 気持ちを口にするよりも先に、私は彼女の手を握る。衝動的な行動に思わず口を開いていたけど、私より少しだけ大きく暖かいその掌を離そうとはしなかった。

 ほんのりと伝わる体温にどこか懐かしいような温もりがあって、まどろむように目を細めていく。


「あの、少しだけお時間よろしいですか」


 きっと、この手を握ったのは偶然なんかじゃない。

 私のお願いに彼女はゆっくりと頷き、私たちは今だけ貸切の中庭へと戻っていく。



 これが、幼馴染の明希さんとの再会になるとは、この時はまだ知る由もなかった。



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