1-6
大通りの歩道を歩き、陸橋を超えて進んで行き着いたのは、病院だった。少しだけ見慣れた建物から周囲を見回すと、街の賑やかな雰囲気から隔絶されているように静かな空間が広がっていた。少し前まで通ってたのが、何だか懐かしく感じてしまう。
入院患者さん達が仲良く話をしていたり、ゆっくりと散歩している中庭を抜けると、すぐに正面入り口にまで辿り着いていた。センサーの感知する手前まで近づいて、ガラス越しに映る待合室の様子をただ眺めながらその場で立ち尽す。
ここを通れば、陽奈のいる病室までそう遠くはない。でも、ここを通れば遥香さんとの約束を破ることになってしまう。
……大丈夫かな。
尽きない不安に胸が痛み、その一歩を踏み出すのに力を入れた時だった。
「中に入らないのですか?」
左足を半歩前に進んだところで、聞き慣れた声に呼び止められる。多少の声の高低はあっても、柔らかい声質にゆったりとした話し方に心がくすぐられていく。その声に反応するように、ゆっくりと後ろを振り返る。
「陽奈」
そこには、成長した幼馴染が私の様子を窺っていた。背は昔と比べると明らかに伸びていているが、同世代の子と比べると頭一つ分ぐらい低く、家から持ってきたであろうパジャマ姿で私と対していた。
「あなたは、あの時の」
記憶を失ってから再会したときのことは覚えていたみたいで、それが少し嬉しかったけど私の口から出たのは謝罪の言葉だった。
「この間は、急に押しかけたりしてごめん」
突然のことに陽奈はきょとんとしていて、どういったことか理解をしていなさそうだった。そんな状態でも、いざ本人を前にすると伏せ目がちに視線を逸らしてしまっていた。
やっぱり、なんて言ったらいいのか分からない。
下手にあれこれと思い出を言っても知っているのは私だけで、そんなことをしても
ただ困らせてしまうのが目に見えて解っていた。
「……じゃあ、私はこれで」
やっぱり急すぎた。
出直そうと傍を通り過ぎようとして——手首を掴まれた。その相手を見ると、変わらず知らない場所にいきなり来た幼子のように瞳の奥に不安の色をみせていた。
「あの、少しだけお時間よろしいですか」
それでも掴んだ手は離そうとはせず、申し訳なさそうな顔をしながらもおずおずとそう尋ねてきた。
話し方や態度から察しても、記憶が戻ってきた雰囲気は感じられない。それなのに、なんで陽奈はほぼ初対面に近い私を呼び止めたの?
捕まれた手首から、じんわりと温かさが伝わってくる。力は弱く、こちらが払えばすぐに解けてしまいそうなほどだった。でも、私はその手を振り解くことはせず手を引かれて中庭にまで案内されていた。
二人並んで備え付けのベンチに腰かけるが、聴こえてくるのは周囲にいる人たちの静かな話し声と、僅かに鳴く小鳥ぐらいだった。しばらくその音に耳を傾けていたけど、その沈黙を陽奈がゆっくりと解いていく。
「今日、入学式だったんですね」
「うん。ここの向かいの通りにある高校に通うんだ」
「そうなんですね」
制服にとめられているリボンを一瞥してから、当たり障りのない会話が始まった。
呼び止めた理由を聞こうにも、いまいち切り出すタイミングを失っていて、それは陽奈も同じようで少し目を泳がせながら取ってつけた話題を繰り広げていた。
「私、明日退院することになったんです。容態も落ち着いてきたから普段通りの生活を送りながら様子を見ましょうって言われました」
「それは良かったね。おめでとう」
「ありがとうございます。私も今年から高校生らしいので、あなたと同じですね」
退院の報告を聞けたのが素直に嬉しくて、自然と笑みがこぼれだしていた。私に反応するように、陽奈も優しく微笑み返してくれて、何だか久々に暖かさを感じたような気がしていた。
そんな温もりに少しまどろんでいると、先程から強い視線を浴びせられていることに気づき、不思議に思って首を傾げていた。
「どうしたの?」
「す、すみません見つめてしまって。ただ、やっぱり見覚えがあるような、そんな気がしたんです」
声にはっとした陽奈は、慌てて顔を引いていた。しかし、彼女の双眸は私のある箇所を捉えたままだった。
「不思議ですよね、何も覚えてないのに」
今日の朝結った右の三つ編みに、私はそっと触れる。してもらっていた頃よりは歪だけど、それでもちゃんと形にはちゃんとなっていた。
「もしかして、それを聞きたくて呼び止めたの?」
私の問いかけに、陽奈はただ静かに頷く。そして、優しく手を重ね先程より強く私を見つめてくる。その大きな瞳に私は吸い寄せられ、逃げられない視線はお互いの顔をはっきりと映していた。
「似合ってますね、それ」
そう言って、朗らかに微笑みかけてくれる陽奈の顔は、昔と何も変わっていなかった。
私の名前も、今までの記憶も、再会の約束をしたことも何もかもを忘れているはずなのに、心の奥深くにはまだ思い出が残っていてくれた。こんなことがあるなんて夢にも思わなかったし、起きるなんて考えもしなかった。
今でも、陽奈に私のことを言っていいのか、それで思い出してくれるのか、不安は消えない。それでも、陽奈は向き合おうとしている。それなら——。
夕暮れ時の冷たい風が、私の頬をひんやりとさせている。
触れられている陽奈の手に、反対の手を添えてから両方でゆっくり包み込み、改めて陽奈に向き直ってから重たくなった口を開いていく。
「……あなたが、結ってくれたんだよ」
私の言葉に、陽奈は目を丸くしている。
「今より行動や身なりが男の子寄りだった私に、初めて櫛で梳かしてくれて、結んでくれて……可愛いって言ってくれた。あの時は恥ずかしくて言えなかったけど、嬉しかったんだよ」
届くかなんて分からない。実際、この話を聞いている陽奈はずっと狐につままれたような顔をしていて、どう返したらいいのか困っている。
「だから——ありがとう」
それでも、ずっと言いたかった言葉を、言えなかった想いを今伝えたかった。今でなきゃいけない気がしてならなかった。
上手い言い回しなんて思いつかず、ただあるがままの言葉であの時の気持ちを言うことしかできない。それが、私なりのやり方だった。
未だ驚きを隠せれない陽奈の目は、それに続く言葉を探していた。
「……そう、だったんですね」
太陽が沈むのと同じように、周囲が静まり返っていく中陽奈はやっと言葉を紡ぎだしていた。その反応は、未だ動揺している様子しているようだった。
「正直、お話を聞いても実感が湧いてないです」
後ろにごめんなさいを足して、素直な心境を告げてくれた。半端に同調されるよりかはマシだけど、それでも何も思い出せなかったのは少し寂しかった。
「でも、少しほっとしました」
そう続けた陽奈はどこかすっきりしたようで、先程より朗らかに笑顔を浮かべ、柔らかい眼差しを送ってくれていた。
「私の『見覚えがある』が、ただの偶然じゃなかったのが嬉しいんです。目が覚めてから今日までずっと記憶がなくて、少し怖かったから」
包むように握っている手は少し震えていて、今まで一緒にいた家族のことも、楽しく遊んだ友達のことも、ずっと歩み続けてきた思い出も全て失い、いきなりからっぽになってしまったことの恐怖を感じさせていた。
「それに」
小さく放たれた言葉に耳を傾けながら待っていると、陽奈は更に笑顔で答えていた。
「あなたが、私の友達で良かったです。初めて見た時に、友達だったら良いなって内心思ってましたので」
少し照れくさそうに、だけどその言葉に心が洗われて泣きそうになりそうになっていた。
覚えていてくれて、良かった……。
涙を抑えつつ、添えた手の力を少し強め身体を近づけた。
「東堂明希」
「え?」
「私の名前」
一瞬何事かと陽奈の動きが止まったが、すぐに意図を理解して小さく頷く。
「藤城陽奈です」
私に倣って陽奈も名前を告げる。
ずっと離れることのなかった名前を改めて聴いて、記憶をなくしても陽菜の友達でいたい。そう思えていた。
たとえ一緒に過ごした時間がなくなっても、また一から教えていけばいい。私に本当の意味で近づいてくれた友達のことをもう一人にはしたくないから。自分に向き合おうとする陽奈に、私が出来ることってこのぐらいしかないから。
ささやかな決意を胸に、私たちの談笑は太陽が完全に沈むまで続いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます