1-4

 事故から五日が経ち、高校の入学式まで一週間を切っていた。

 手術は無事に終わり、後は本人が目を覚ますのを待つだけなのだが、未だにその気配はなくずっと眠ったままでいる。回復には向かっているから、じきに目を覚ますと言われているらしいが、元気な姿を見られないと不安は募っていくばかりである。

 今日も様子を窺いに病院へ向けて自転車を漕ぎだす。膨らんだ桜の蕾が少しずつ開き、春を象徴する花はもうじき満開を迎えようとしていた。

 病院の待合室を抜けて、陽奈の病室へ重たい足取りで進んでいると、部屋の奥の方からいつもより賑やかな話し声がしていた。同室の見舞客が話し込んでいるのかなと思い、ノックをしてから入ると、途端に肌に感じるぐらいの重い空気が流れ込んできた。

 室内では、白衣を着た中年の医師とその補助をする看護師が数人、それと陽奈の両親がその場で神妙な面持ちで何かしらのやり取りをしていた。

 空気に気圧されて踵を返し出直そうとしたところで、私の瞳に一人の女の子の姿が映り込んできた。

 肩にまで伸びる黒髪に、少し小柄な体躯、そして幼さが残る顔立ちのその少女は、双方に挟まれたベッドの上で上体だけを起こして、ぼんやりとしながらその会話を交互に顔を向けて聞いていた。


「陽奈?」


 彼女の姿は、私の記憶の中にいる幼馴染の姿に非常によく似ていて、まさに成長した姿としてそこにいるかのようだった。

 そんな姿を、見間違えるはずなんてない。


「陽奈!」


 ずっと会うことを待ち望んでいた親友を前に、脇目も振らずに駆け寄っていく。

 声に反応して顔を私に向けるが、未だぼんやりとしたままだった。

 少し濁りを感じる瞳から受ける視線は、何か的を得ていないようで、見る焦点が合わさっていなかった。何も映さないその瞳が、私をどんよりとさせより不安にさせていく。

 きっと、まだ起きたばかりで意識がはっきりとしていないんだ。

 自分にそう言い聞かせる。また名前を呼んでくれると信じて。



「あの、どちら様でしょうか」



 陽奈の言葉が頭の中で反芻していく。

 きっと何かの冗談だと思いたかったが、少し怪訝そうに私を見るその表情からは嘘などは微塵も感じさせていなかった。そもそも、陽奈がそんな冗談を口にするような性格じゃないことは、私自身が一番理解している。

 どこからも否定できる要素がなく、目の前にいる少女に返す言葉がみつからない。私の期待は無残にも打ち砕かれていたのだ。

 私も周囲も困惑し、気まずい空気が張り詰めていく。そこへ、駆け込んできた遥香さんと目が合い、場の空気を壊したことを詫びながら病室の外へと連れ出された。手首を掴まれたまま何も言わず、廊下の突き当たりにまで来てようやくこちらを向いてくれた。


「さっきのは、一体……」


 恐る恐る尋ねるが、遥香さんはそっぽを向いて顔を合わせず何も答えない。昼下がりの日の光が廊下に差し込み、白を基調に建てられた院内を明るくしていたが、今の私にその光は眩く感じられた。


「朝、様子を見に来たら身体を起こして窓の外を見てたのよ。急いで両親と医者を呼んで容態を見てもらったわ」


 静まり返った空間に居た私たちだが、時間を進めるかのようにゆっくりと話し始めた。その声は、静寂に溶け込んでしまうほどにか細く小さかった。


「外見での異常は見られなかった。でも、どんな風に話しかけても、陽奈はずっと私たちを見つめるだけで何も答えてはくれなかった。さっきみたいに、何も知らないというばっかりだった」


 先ほどの光景が鮮明に蘇ってくる。警戒心が見え隠れする態度で送られる視線は、まるでアカの他人を見ているかのようだった。


「その後も色々診断してもらって出た結果は、自分の名前以外のことをほとんど失い、家族や友達の名前、思い出などの記憶がなくなってしまった。いわゆる、記憶喪失になってしまったのよ」


 伏せ目がちに答える遥香さんの身体は何処か震えていて、それを抑えようと咄嗟に自分の肘を掴んで落ち着かせようとしていた。


「さすがにひどいよね。事故にあって、目を覚ましたかと思えば今度は記憶を全部失うなんて」


 そう云う顔は、今まで見た事がないほどに暗く沈んでいて、そのショックで魂が抜け落ちたみたいに生気がなかった。

 初めて会った時から姉妹の関係は良く、大抵の時間は一緒に居るほどの間柄で喧嘩しているところなんて想像できないほどだった。そんな妹からいきなり誰と聞かれたら、兄妹のいない私でも堪えてしまいそうになる。


「明希ちゃんにね、言わなきゃいけないことがあるの」

「……何ですか」


 今度は重苦しい口調で私の名前を呼び、背筋に緊張を走らせる。さっきまでのまとまらなかった焦点から一変して、彼女の双眸は強い眼差しで私を捉えていた。その視線に後退りをしそうになるのを抑えていた。


「申し訳ないのだけれど、しばらく陽奈には会わないで」


 告げられた言葉は何処か冷たく、鋭利な刃物で胸を突き立てられているかのような痛みが私を貫いていた。


「どうしてですか?!」


 一番気持ちを分かってくれていると思っていた人から、会わないでと言われてすんなりと納得なんて出来るはずもなく、語気を強めて説明を求めていた。


「お医者さんが言ってたのよ。今の陽奈は不安定で、まだ自分の記憶のことですらあやふやなの。そんな状態で過去のことを話すと、パニックを起こすかもしれない。それに、これはあなたの為でもあるのよ」

「私の、ため?」


 何をどう私のためなのか、分からない。


 焦っていく私とは裏腹に、少しだけ落ち着きを取り戻した遥香さんは、淡々と話を進めていく。


「あなた、今までの記憶をなくした今の陽奈と向き合えるの? 今までのあなたを知る陽奈はもういないし、戻ってくる保証なんてないのよ」


 捲し立てるように突き立てられる現実は、どこまでも私から言葉を失わせていく。知りたくもなかったことを知ってしまう。



 今の陽奈は私の知っている陽奈じゃ、ない?

 じゃあ、あそこにいるのは一体?



 全身から力が抜けて、肩を掴んでいた両腕はするりと落ちて、足は今の体勢を支えるだけで精一杯だった。


「皆まだ気持ちの整理がついてないのよ。そのためにも、時間は空けた方が良いわ。明希ちゃんの為にも」


 少し棘のあった言い方から、今度は諭すように柔らかくなり、私の頭をそっと撫でてくれる。その優しさが、今の私には心に沁みていた。

 正直、全部に納得がいった訳じゃなかった。でも、私の目のお姉さんは今までにないくらいに動揺していて、必死に震えを抑えながら自分を律している。そんな姿をみせられると、家族ではない私は何も言えなくなってしまう。

 今の私には、彼女のお願いに対してただ首を縦に振ることしかできなかった。

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