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 卒業式が終わってから少し経って、私は長めの春休みに入っていた。休みと言っても、高校の制服の採寸や学生鞄の注文など、意外とやらないといけないことが多くて気づけは一日があっという間に終わっていることの方が多かった。

 春から通う高校は、実家から歩いて駅まで行って電車に乗り、一つ隣の街にまで出ないといけなかった。本当は近くの高校に通いたかったけど、そこは進学校で偏差値も高く、勉強が得意じゃない私には敷居が高すぎて断念することにした。

 そんな忙しい日が続いても、日課のジョギングは欠かすことなく続けていた。元々は小学生の時に始めたバスケの体力づくりの一環として始めたのだけど、今となっては私のライフワークの一つになっている。

 一定の呼吸と速度を維持しながら、川沿いの道を進んでいく。途中、同じくジョギングをしている人や飼い犬と一緒に散歩をする人とすれ違い様に挨拶を交わしたりもしながら、近づいてくる春の陽気を感じていた。

 対岸を繋ぐ小さな橋を渡り、川を周回するコースを三十分かけて走り終えて、自宅の玄関の扉が見えてきた頃にはゆっくりと歩きながら息を整えていた。


「あぁ、おかえり」

「ただいま」


 庭に置いてある物干し竿に洗濯物をかけている母と目が合う。この歳になっても、特に母を煩わしいとか目障りとかは思わず、所謂反抗期特有の感情を向けたことはなかった。たまに喧嘩はするけど。

 どうせ誰も見てないし見られても困らないという理由で、よれたエプロンをつけてせっせと家事をこなす母を横目に、家で少しくつろごうと扉に手をかけた。それを狙ったかのように、母が大声で私を呼び止めてくる。


「あんた暇でしょ。お金机に置いてるから、お昼ご飯の材料買ってきてよ」


 ……鏡を見なくても、私の顔は引きつっていた。


「お父さんは?」

「もう出かけた」


 たまに雑用をしている父を口にしたが、既に不在でその矛先は必然的に私に向いている訳だった。頼る宛を失った私は渋々承諾し、ランニングウェアから私服に着替えて、自転車に跨っていた。

 こういう家庭を、かかぁ天下と言うのだろう。私もお父さんも、下手に歯向かったりしたらお小遣いを減らされたり朝食を抜かれたりすることを知っているので、口ごたえをすることはほとんどない。養ってもらっているのは分かってはいるけど、こき使われるのはたまにムッとすることがある。けど、そんなことは言えるはずがないので、大人しく近くのスーパーに自転車を走らせることになった。





 走り慣れているコースを外れて街道に差し掛かると、景観維持のために植えられた桜の木は蕾を膨らませ、冬には姿を消していた小鳥が短く鳴きながら空を飛んでいた。自転車で少し走れば暖かい空気が吹き抜けていき、僅かに体をひんやりとさせるが春の兆しを確かに知らせていた。

 その街道を奥へ進んでいくと、隣の街から伸びる私鉄の駅に隣接して建つ目的地のスーパーが見えてきた。駅から近いこともあって、中には百均や和菓子店なども入っており、スーパーよりは一つの複合施設のようになっている。

 入り口に積み上げられているカゴを一つ取り店内へ入ると、昼前なのにまばらにしかお客さんがおらず静かな空間が広がっていた。これでも、私が生まれるより前から建っていて、何度も倒産の危機を迎えているけど一度も潰れたことがないのが今でも不思議だった。

 母から言われた材料を頭の中で復唱し、回る順路を考えながら歩いていると、背中に妙な視線を浴びていた。気になって振り返るが、そこには暇を持て余したお爺ちゃん達が休憩スペースでくつろいでいる姿しかなく、その本人は今にも瞼が落ちそうになっている。私は首を傾げながらも再び買い物に行こうとすると、今度は後ろから声を掛けられた。


「明希ちゃん?」


 その落ち着いた雰囲気のする声色に、私は聞き覚えがあった。あの女の子と一緒に遊んでいる時に、ときどき様子を見にきてくれている人がいて、腰まで届く長い髪に整った顔立ちだったのを覚えている。

 私はゆっくりと後ろを振り向く。そこには、一人の女性が様子を窺っていた。


「……遥香さん?」


 顔つきや身長は多少変わっていたけど、その姿は私の思い出の中にいる時と変わらず、昔感じていた年上の落ち着きや余裕を更に強くしていた。その女性、遥香さんは顔と声で確信したのか、表情がすっかり晴れやかになり安心して私に駆け寄ってくる。


「やっぱり明希ちゃんだ! 元気にしてた?」

「お久しぶりです! 私の方は、変わらずですね」

「そっか。……良かった」


 遥香さんは私が小学生の時に家が近くで、時々家にお邪魔したりバスケの練習相手になってくれたりと色々とお世話になっていた。

 もっと簡単に言うと、私の幼馴染のお姉さんだ。

 たまに三人で出かけたりもして、兄妹のいない私にも姉妹のように接してくれたことが嬉しかったのを今でも覚えている。そんな遥香さんも、一家で引っ越す際に一緒についていくことになり、それっきりになっていた。


「遥香さんはどうしてこっちに?」


 見たところ、周りに家族の姿はなく一人きりのようだ。辺りを気にかけながらいる私の問いに、遥香さんはニッコリと微笑みながら答える。

「今日は手続きと必要な道具を買いに」

 そう言って手に下げていた袋を掲げて私に見せてくれた。中は、洗剤や調理器具など日用品の数々が詰められていて、新生活を送るために必要なものでいっぱいだ。


 ……まさか。


 僅かに沸き上がってきたその期待を抱きながら、私は言葉の続きを待っていた。


「実は、四月からこっちの大学通うことになったの」

「本当ですか?!」

「うん。だから、またよろしくね」


 突然の報告に私は食いつき、勢いの良い返事で遥香さんが戻ってきてくれたことを歓迎していた。

 目を細めて優しく話すその姿は、小さい頃に母と喧嘩したり、クラスで意見の食い違いで落ち込んだ時に私を慰めてくれたあの頃と変わっていなかった。昔離れた人が帰ってきてくれると、あの時の時間が戻ったような気がして、一緒に懐かしさも込み上げてきていた。


「それにしても……それ、結べるようになったんだね」


 嬉しさに顔が緩んでいると、遥香さんが私の右のもみあげを指差してじっと見つめていた。


「覚えるのに時間かかりましたけど、一人で出来るように頑張ったんです。これ以外はからきしですけど」


 照れくさく笑いながら、私は右のもみ上げの髪にそっと触れる。全体的に短くしているだけの飾り気のない髪型の中で、唯一三つ編みにしていた。

 身体を動かすことぐらいしか興味を持たなかった私に、幼馴染の子——陽奈が教えてくれたもので、今でも残る彼女との繋がりでもあった。



 陽奈と出会う前の私は、今より身なりに気を付けたり髪を整えたりなんてことはせず、背が周りの女の子よりも高いことも影響してよく男の子と間違われることが多かった。今その間違いをされると流石に否定するけれど、当時は全く気にせず自分も何で女の子なのかと疑問に思うこともあった。

 そんな私を見た陽奈にある日の放課後に捕まり、教室で小さく座る私の髪を結び始めたのだ。普段大人しい子が逃がすまいと強く手首を掴む姿にたじろいでいた私は、櫛で髪をすいたり、手が頬に触れたりする度にくすぐったさを感じながら成されるがままにただ時間が過ぎるのを待っていた。

 十分ほどで仕上げまで終わり、そのまま廊下の隅にある姿見の前にまで連れていかれ、そこで私は少しだけ女の子になった自分と対面することになった。


 ——似合ってて、可愛いですよ。


 記憶の中の陽奈に後ろからそう言われ、照れくさくなった私はすぐに鏡から目を逸らしていた。でも、鏡に写っていた私は確かに女の子で、それまでの自分がそんな風に変われるなんて思いもしなかったし、感激もしていた。

 この日を境に、朝のホームルーム開始前までに髪を結ってもらうのが私たちの日課になり、互いの家を行き来するようになっていた。最初のうちの何回かは断っていたのだけれど、毎日のように来ては整えられるようになり、次第に諦めるようになっていた。それに、今もお気に入りの髪型を結っている二人だけの特別な空間にいるのが居心地よくて、一年も経たないうちにセットのほとんどを任せていた。きっと、陽奈の独特の雰囲気がそうさせていたんだと今でも思っている。

 そんな友達と出会えたことが当時の私には奇跡のようで、気づけば陽奈を見かけたらすぐ駆け寄るようになっていた。



 陽奈と離れた後も、この髪型はずっと崩さずにいる。最初は母に手伝ってもらい、そこから自分で出来るようになるまで、少しずつ結び方を覚えていった。単純に一番好きな髪型というのもあるけれど、これを解いてしまうと陽奈との繋がりもなくなってしまうような、そんな気がして別れた直後は大げさに捉えていた。

 その甲斐もあってか、今でも陽奈のことは忘れずに大切な友達でいる。だけど、あの日以降何年も会っていないと記憶の中から消しゴムで消されるように薄くなって、心が離れていくように思えてしまう時があった。


 今、何してるのかな?

 どんな生活をしているんだろう。

 また、会えないかな。


 そう簡単に消えるはずなんてない。陽奈も、きっとあの時の約束を覚えてくれている。それでも抱いてしまう不安を、感じてしまう胸の痛みがただの杞憂だと思いたくて、私は遥香さんに尋ねてみた。


「あの、陽奈は今どうしてますか?」


 私の問いに、遥香さんから緩んだ笑みが消えて固まっていた。そんなに変なことを言ったかなと、様子を窺っていた私を一瞥してから今度は含んだ笑みを浮かべる。


「気になるなら、直接本人に聞いてみたら?」


 彼女の口から放たれた言葉に、一瞬耳を疑った。それを告げた本人は悪戯っぽく笑ったまま、大きな瞳で驚く私を捉えている。

 喉元にまで出かかっている答えに対して、聞き返すよりも先に遥香さんはコクリと頷いて話を続けた。


「四月から陽奈もこっちの高校に通うわ。というより、家族で帰ってこようって話になったのよ。だから、家族含めて改めてよろしくね」


 心臓が強く脈を打ち、高まる体温と期待が先程までの不安を溶かしていき、胸の中を暖かくさせていた。


 また、陽奈と一緒にいられる。


 視界が広がるように今の気持ちは晴れやかになり、今にも走り出せれるほどに気力が湧き上がっていた。その力は私に高揚感と行動力を与え、遥香さんに何時戻ってくるか等の詳細を食い気味に教えてもらい、陽奈には内緒で迎えに行くことを企てた。

 突然会ったら、きっと驚くだろうな。

 別れを告げた後の私はずっと胸が踊っていて、足取りは速く、今にも飛んでいけれそうなくらいに軽やかに舞いながら時間が過ぎるのが待ち遠しかった。

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