第5話 準備は大切




 そこは、牢屋である。



 木材ではなく全てレンガ(一部、岩石を使用)で構築されているのは、外部からの脱走の手引きを防ぐ為。当然、天井近くに設置された小窓にも鉄格子があって、唯一の出入り口には分厚い南京錠が掛けられている。


 中は、御世辞にも快適とは言い難い代物であった。


 壁際に設置されたベンチ(寝床としても使用)には、身体が冷えないよう毛布が置かれている。だが、その毛布も至る所がボロボロで、まともに手入れすらされていないのが分かる。


 毛布でそれなのだから、ベンチの寝心地も最悪の一言だ。少なくとも、まだ草原の上で寝た方が寝心地が良いだろう……まあ、容疑者なり何なりを一時的に留置しておく場所なのだ。そう、快適なわけがない。



 その牢屋の中に……いや、ベンチに寝転んでいる一人の女がいる。



 女の名は、アヤカ・フォーファン・フォルン。



 草取りアヤカとも、草むしりのアヤカとも呼ばれている、この町に住まう多数の冒険者たちの内の一人である。


 客観的な評価を述べるのであれば、アヤカは美人である。


 そのうえ、スタイルも良い。ぴっちりとした衣服のおかげで、それが余計に強調され……町中を歩けば、さぞ異性の注意を引き付けるであろう外見であった。


 そのアヤカが……むくりと、身体を起こした。


 時刻は、昼。ここには時計が無いので正確な時間は分からないが、腹時計は素直だ。


 多少の誤差はあったとしても、今がだいたいお昼時……つまり、昼食の時間であることを教えてくれた。


 アヤカが起きたことを察したからなのか、それとも偶然なのかはさておき、足音が牢屋へと近づく。


 見やれば、鉄格子の向こうには簡易の甲冑を着た衛兵が立っていて、アヤカを見下ろしていた。


 ……無言のままに、アヤカは衛兵の足元を見つめる。


 何故そこを見るのかといえば、衛兵が食事を持ってくる時は、必ず鉄格子の外側……つまり、衛兵の足元に用意されるからだ。


 この時、留置されている側は不審な行動を一切取ってはならない。


 具体的には、身動きを一切してはならないのだ。さすがにくしゃみ等の生理現象ぐらいなら大目に見て貰えるが、不用意な行動を取った時点で、食事は没収される。


 当然といえば当然だが、牢屋の中には娯楽と呼べるモノは欠片もない。


 下手にお喋りをしてもならないし、鉄格子に近づいてもならない。不用意な行動を取れば即拘束(要は、痛めつけられる)されるから、何も出来ない。本当にすることがないから、ただ寝るだけしか出来ない。


 そんな牢屋生活においての唯一の楽しみは、一日三回出される食事だけだ。


 そしてそれは、アヤカとて同じこと。ぐうぐうと催促を続けている腹の音に耳を傾けながらこの日2回目となる食事の提供を待った……が。



「アヤカ・フォーファン・フォルン……釈放だ」



 期待した食事が提供されることはなかった。えっ、と顔を上げたアヤカを他所に、衛兵は手慣れた動作で鉄格子の鍵を開けると……きいっと蝶番を軋ませて、扉を開けた。







 ……。


 ……。


 …………しばし、アヤカは無言であった。衛兵も、無言であった。



 お互いに無言のまま、見つめ合う事……幾しばらく。何がキッカケとなったのかは当人たちにも定かではないが、最初に口を開いたのは……アヤカの方であった。



「衛兵さん、俺は今、凄い事に気付いている」



 日数にして、二日間。牢屋の中に押し込められていたとは思えないほどに、アヤカの声は軽やかな口調であった。



「……ほう、何だ?」



 対して、衛兵の方は……低かった。何だろうか、ドライアイスでキンキンに冷やされてしまったかのように、その声色は冷え切っていた。



「恥も外聞も捨て去ってしまえば、三食しっかり出てくる牢屋暮らしも、そう悪くないのではないかな……と」

「そうか、それは良かったな。それじゃあ釈放だ、出て行け」

「こうして、自分を見つめ直す。牢屋の中とはいえ、貴重な体験だった。たまには、己に問い掛ける一日があっても良いんじゃないかなって思ったよ」

「そうか、それはご苦労なことだ。釈放令状もある、さっさと出ろ」



 クイッと、衛兵は顎で示す。厳つい顔に見合う様になったその仕草……それを見やったアヤカは、しばし衛兵を見つめた後……ふう、とため息を零した。



「おいおい、昼飯がまだ来ていないぞ。まずはそれを食べてからの話だろう? うら若き乙女を空腹にさせて、何をしようっていうんだ」

「てめえ、もう24か5だろ? それで乙女って柄じゃあ……っていうか、何をしようも何も、釈放だから出て行けって言っているんだよ」

「――お願い、お昼ご飯食べさせてください!」

「駄目に決まってんだろ! お前、昨日もそうやって無理やり出なかっただろ! おかげでわざわざ令状を用意させられるこっちの身にもなれ!」



 渾身の、土下座。事情を知らない者が見れば十人中十人が振り返る金髪美女の、堂に入った渾身の土下座。それを、アヤカは躊躇いもなく披露したのであった。





 ……。


 ……。


 …………けれども、相手はローランドに生まれ、育ち、職に就いた生粋のローランド人。


 骨の髄まで地元育ちの衛兵にアヤカのお願いなど届くわけもなく、アヤカは半ば叩き出される形で詰め所を後にしたのであった。







 ――どかん、と置かれた巨大タライには、大量の水が入っている。



 それは、アヤカが事前に汲んでおいた樽の水(中身は、近場の川より汲んだ水)より引っ張り出した、作業用の水である。


 そのタライの水は今、湯気を立てている。言っておくが、火に掛けているのではない。薪代なんて余裕があるわけないアヤカがどうやって……それは、タライの中に沈められた一本の剣にあった。



 それは、アヤカがあの沼で抜いた伝説の剣……まあ、ぶっちゃけてしまえばイノセントの本体である。



 その剣が、タライを燃やさない程度に高熱を発しているのだ。その証拠に、タライの下には何も設置してはおらず、わずかに沸き立ち始めた湯水の中には、淡く発光している剣だけがあった。


 そのタライの前には、どかっと腰を下ろしたアヤカがいた。隣には、白けた眼差しを向けるイノセントが立っている。


 相も変わらずイノセントは裸だが、特に寒さを覚えているようではない。まあ、精霊だし、あの冷たい沼の底に何百年といたらしいのだ。今更、裸で出歩いたところで何がどうという話でも……と。



「よし、もういいぞ」

「……伝説の剣で湯を沸かす人は、貴女が初めてなのです」



 程よく煮立ったのを確認したアヤカが指示を出せば、さらに白けた眼差しとなったイノセントが……しぶしぶといった様子で、手招きする。


 途端、剣がゆるやかに浮いた。音も無く水中から飛び出した剣は、イノセントが軽く目配せしただけで光が止まる。水滴一つ付いていない剣は、ふわふわと空を舞い……テーブルの上に、置かれた。


 それを見やったアヤカは、次いで、傍に置いてある一回り小さいタライに目をやる。そこには、ぎゅうぎゅうに押し込まれてもなお山のように積もったアヤカの衣類があった。



「よし、イノ――」

「絶対に嫌なのです」

「……そうだな、うん、そうだ」



 そのまま指示を出そうとしたアヤカだが、イノセントから断固として拒否された。


 まあ、自分が逆の立場だったら嫌だなと納得したアヤカは、小タライの衣類を手早く退かし……程よい量にすると、そこに桶を使って熱湯を移す。


 次いで、アヤカは辺りを見回し……イノセントから手渡された缶を受け取ると、その中に入っていた粉を入れる。途端、何とも言い難い臭いが湯気と共に舞い上がった。



 ……いったい、何をしているのだろうか?



 そんなの決まっている、洗濯をしているのだ。溜まりに溜まった衣類の洗濯をしているのだ。何時ぞやの青色ラバーウーメンに変身したアヤカは、じゃばじゃばと衣類のもみ洗いを始める。



 その手付きは普段の阿呆な振る舞いとは裏腹に、実に手慣れたモノであった。



 まあ、無理もない。というか、当然だろう。何せ、この世界には洗濯機などという便利なものはない。そのうえ、下着一枚とはいえ、その値段は前世のそれとは十倍以上違う。


 前世なら千円で2枚買える程度の下着でも、ここでは一枚7,8千円(しかも、前世のソレと比べたら質がかなり悪い)に相当する。


 破れたら補修して使うのは当たり前だし、あんまり高いから、破れたらしばらく履かないでいる人だって、男女問わず、けして少なくはない。


 というか、下着を買うのはだいたい女性で、高いからブラジャー(というには、些か作りが単純だが)以外を買わない人だって多い。


 なので、いくらアヤカとはいえ、洗濯の腕前が上達するのは当たり前であって。


 下着に限らず、衣服やタオルを一つ一つ丁寧に手洗いし、破かないよう慎重になるのも当然の結果であった。



 ……それなら熱湯じゃなくてぬるま湯で洗うのが良いのではないかと、誰もが思う所だろう。その疑問は、もっともだ。だが、安心してほしい。



 この世界の生地は、肌触りこそ前世のそれとは比べ物にならないぐらいに酷いが、それに見合うぐらいに頑丈なのだ。熱湯ぐらいなら、どうこうなるようなものではない。


 ……だから、万が一破けてしまった時の悲哀たるや、相当なもので……まあ、それは今はいいだろう。とりあえず、汚れが落ちればそれで良いのだ。



「……前世なら、それなりに需要はあるのだがな」



 心もち綺麗になった気がしないでもないパンツを眼前にて広げる。自然と、シュコー、とラバー越しに溜息が零れた。


 アヤカの脳裏を過るのは、前世の記憶。ココとは違う、電化製品に溢れ、コンクリートジャングルにてそびえ立つビルの群れ……と。



「……需要って、そんな履き古したパンツを欲しがる奇特な者がいるのですか?」



 彼方へと飛んでいた意識が、我に返る。振り返れば、心底不思議そうな顔をしているイノセントと目が合った。


 視線だけではあるが、イノセントの尋ねんとしていることは分かる。おそらく、『貴女の記憶に有る、その世界では?』という問い掛けなのだろう。



「それなりには、な。ただ、私の場合は年齢が行き過ぎていてな……そこまで高く売れはしなかっただろうな」



 なので、アヤカは素直に答えた。「へえ、中々に不思議な世界なのですね」イノセントも特に思う事はなかったようで、そのまま小首を傾げて疑問を重ねてきた。



「ちなみに、何歳ぐらいなら高く売れたのです?」

「買った事がないから相場は知らん。だいたい、10歳から15歳ぐらいが一番高く売れるだろうとは思うぞ」

「……10歳って、まだ小便臭い子供なのですよ? それに、それぐらいの子なら町を歩けばいっぱい居るのです。適当に、頼めば売ってくれるのです」



 ――言っていることは理解出来るが、その中身がまるで理解出来ない。



 そう言わんばかりに目を瞬かせるイノセントに、「まあ、この世界の者たちには分からんだろうな」アヤカはラバースーツの下で苦笑した。



「前世の私が暮らしていた場所では、子供が貴重でな。爺と婆がうじゃうじゃいて、子供の未来を食い潰していたからな……そりゃあ、値打も付くさ」

「……老人が、子供を?」

「笑えないのが、子供たちを食い潰していることに老人たちは欠片の罪悪感も抱いていないってところさ……よし、この話は終わりだ」



 そう言うと、アヤカはタライの中に浸されていた衣類を絞り終えると、それをイノセントに手渡した。「皺を伸ばしたら、乾かしてくれ」その指示に、イノセントは、また呆れたように白けた眼差しをアヤカに向けた。



「伝説の剣の精霊をメイド代わりに使うって、貴女ぐらいなのです」



 あえてそれ以上を言葉にはしなかったが、イノセントの言わんとしていることは誇張一つない事実であった。


 実際、アヤカは知らなかったし、イノセントもあえて語ろうとはしていないので知る由もないことではあるが、イノセントは精霊の中でも凄いやつなのである。


 では、いったい何が凄いのか――それを理解するには、まず、この世界において『精霊』とは如何なる存在なのかということを説明しよう。



 ――実は、この世界において、『精霊』というのはそれほど珍しい存在ではない。しかし、だからといってありふれた存在というわけでもない。



 精霊自身は人前に姿を見せるようなことを良しとはしない。というより、交流を持とうとは思っていない。なので、その姿こそ中々目撃される例が少ないからだ。


 けれども、いないのではない。ただ、見えないだけで、実際にはそこにいる。素質を持つ者や波長の合う者は、身を隠している精霊たちを目にすることが度々ある。


 だから、それほど珍しい存在ではないのだ。そして、それは見える見えないだけが理由ではなかった。



 ……というのも、だ。



 この世界において『精霊』とは、人々の暮らしを陰から支える存在……大昔より協力関係を築いてきた、ある種の隣人的な存在でもあるからだ。


 例えるなら、この世界においての『精霊』は、アヤカの前世では万物に宿る神々のこと……前世の言葉で表すならば、八百万の神々(ほぼ、神様)のことである。


 八百万というだけあって、その数や種類は膨大の一言だ。文字通り、万物に、何にでも、何処にでも、どんな場所にも精霊はいる。


 つまり、『精霊』とは実態を持ったり持たなかったり、肉体を持っていたり持っていなかったりする、万物に宿る超常的な存在である……そう思ってくれたらいい。



 ……さて、だ。



 その精霊の中で、どうしてイノセントは凄い精霊なのか……それは、純粋に精霊としての『格』が高いからで。『格』とはすなわち、イノセント自身の神格であって。



 ……ぶっちゃけてしまえば、間違ってもメイドの真似事なんてやらせてよい存在ではないのである。



 然るべき者(例えば、稀代の魔術師など)が扱えば一国の情勢を左右するばかりか、世の理を塗り替えるほどの力を発揮する。


 望む望まないに関わらず、魔力という燃料さえ注ぎ込めば、それを成すことが出来る精霊。伝説と自身が豪語するだけはある……それが、イノセントなのだ。



 そこから……今のイノセントがどういう状況かというと、だ。



 言うなれば、スーパーコンピュータを使って映画を見るようなもので。コップ一杯の水を得る為に樽の水を全部注ぎ、残りを捨てているようなものなのだ。


 とまあ、もったいないなんて話ではない。ある意味、見る者が見れば絶句するだけでなく、卒倒するようなことをアヤカはさせているわけであった。



「メイドを馬鹿にしてはいけない、あの仕事に就けるのはある程度上流階級の家柄だけなのだからな」



 とはいえ、イノセントの価値に欠片も気付いていないアヤカに、それに気づけというのも無理な話であった。



「……それで、どうしていきなり洗濯を?」



 そして、その点については言われずともイノセントも理解していた。「草取りをするのでは?」なので、イノセントは抱いていた疑問を、率直に尋ねた。



「裸で外には出られないし、新しい服を買ってやる余裕はない。洗濯してからでないと嫌だと言ったのは、お前だろう?」



 すると、アヤカからの返答がそれであった。なるほど、とイノセントは頷いた後……率直に、嫌な顔をした。



「服を着るのは正直、嫌なのです。鞘から抜かれているのに、鞘に収まっているようで、もやもやです」

「しかし、服を着ないと私がまた捕まるのだ、イノセントよ。剣の中に引っ込むのが嫌なら、四の五の言わずにやるのだ、イノセントよ」

「……どうしても?」

「少なくとも、私にはどうこうする権力はない。とりあえずは我慢だ」

「……仕方ないのです」



 ……本当に、仕方ないことだ。内心にて、イノセントは嫌々ながらも頷いた。


 アヤカの言い分事態には、何ら非難される部分はない。従うべきなのは自分であって、少なくとも、イノセントの頭では思いつかなかった。



 ……だからといって、だ。服を着るのもそうだが、この扱いは如何なものか……ああ、まあ、嫌というわけではないのだけれども。



 ――それでも、もう少しこう……何かあるはずでは?



 その言葉を、イノセントは腹奥へと飲み込んで誤魔化す。



 ――まあ、こんなんでも己を抜いた主であることには変わりない。



 諦めたようにため息を零すと、イノセントは洗濯物の皺を伸ばし始める。それを見やったアヤカは、タライの中に新たな衣類を放り込むと、再び洗濯作業を始めるのであった。



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