第10話 これが、本当の私

 いつものよれよれトレーナーではなく、お気に入りのセーターを着て。

 くたびれたジーンズではなく、ふわっとしたスカートを履いて。

 髪はブローしてサラッサラに流して。

 前に新川透に買ってもらったエンジ色のブーツを履いて。


 土曜日の夕方、私は緑地公園のベンチに座っていた。

 その場所に現れた小林梨花は、私の姿を見ると驚いたように目を見開いた。


「え、仁神谷さん……?」

「はい」

「昨日と、別人……」

「素の私を、見てもらおうと思って」


 メイクはしていない。一瞬、手に取って――やめてしまった。

 今回は、誰かに成りすます訳じゃない。『仁神谷莉子』として会うんだから。


「あ、あれ、中西さんは?」

「小林さんを呼び出してもらっただけ。私の友達の恵がここにいたら、フェアじゃないでしょ? それはじゃない」

「……っ」


 小林梨花は喉を詰まらせると、きゅっと唇を噛んだ。

 昨日は言い過ぎた、とは思っているようだ。

 それだけで、私はちょっとホッとした。


「昨日はごめんなさい。何も言えなくて」

「あ……」


 まず頭を下げる。

 わざわざ私と話をしにきてくれたのに、私は何も返せなかった。そのことは申し訳ないと思ったから。

 それでもやっぱり『トイレのミネルヴァ』のことは言えないんだけど、それ以外で話せることは話そうと思った。


 高2の9月に、母が亡くなったこと。

 学費を稼ぐために高校を退学し、母の仕事を継いで光野予備校で働き始めたこと。

 新川透が入社したのはその後の4月のことで、出会ったのは8月だったこと。


「独学で勉強をするのは苦しくなってきたのもあって、個別で勉強を見てくれるという申し出に甘えることにしたの」

「そうだったんだ……」

「だから、そんな自分はズルいのかもしれないけど……でも、運が良かった、とは思ってる」


 新川透に最初に会った時は、何だこいつ、と思った。

 だけど、私を見つけてくれた。ずっと陰に隠れて息をしているだけだった私を、引っ張り上げてくれた。

 勿論、おかげで色々振り回されたというか、心をかき乱されたというか、平穏な日々ではなくなったけれど。

 だけど、もう昔には戻りたくない、と思う。


 振り回されたのは、私が新川透に関わりたかったから。

 心をかき乱されたのは、私にとって新川透がそれだけ大きな存在になっていたから。


「あの、ごめんなさい!」


 小林梨花は急にガバッと頭を下げた。


「私、仁神谷さんが大変だったって知ってたのに、ひどいことを言って……!」

「それは、もういいよ。確かに、同情を引いたのかもしれないから」

「ううん!」


 私の言葉に、小林梨花はぶんぶんと首を横に振った。

 その様子に、私はちょっと違和感を感じた。

 何だろう、昨日と様子が違う。

 昨日は完全にケンカしに来ていたというか、「負けないから!」みたいな感じだったのに、今日はどこかおとなしいというか……一歩引いているというか。


「でも、由美ちゃんはどうして……」

「由美ちゃん?」

「あ、古手川由美子。私のハトコなんだけど」


 小林梨花はそう答えると、「んん?」と小首を傾げた。

 うう、やっぱり可愛いな、この子……。少しはメイクをしてくるべきだっただろうか。

 いやいや、対抗するために盛ってどうする。


「どうして、新川先生に恋人がいるって言ったんだろう……」

「あー……」


 そこか。それは盗撮騒ぎにも関わるしミネルヴァにも関わるから、説明が難しい。

 どうしよう。でも、とりあえず大まかなところだけ話せばいいかな。


「えーと、私が予備校生のフリをして変装したことがあって」

「変装?」

「もっとちゃんとメイクをして、掃除婦のときとは雰囲気もガラッと変えて。そうやって予備校内で生徒のフリをしたことがあるんだけど、そのときの姿を古手川さんは見てるの」

「え……」

「新川センセーが古手川さんにそのことを聞かれたとき、『自分の恋人だ』って説明したの。それ以上追及されないように……私の存在を伏せるために。だからじゃないかな」


 小林梨花はしばらく私の顔をじーっと見つめていたけど、不意に「あっ!」と声を上げた。


「その髪型……まさか、文化祭の時のアレ……中西さんが親戚だって言っていたあの女の子って……」

「ごめん、私」

「嘘ー!」


 小林梨花は素っ頓狂な声を上げると、ガッと自分の両手を組んだ。

 何だ、そのおねだりポーズは。

 なぜだ。なぜそんな羨望の眼差しで私を見るんだ。


「どうやってメイクしたの!?」

「えーと、メザイクとかアイライナーを駆使して……」

「凄い! 教えて欲しい!」

「いや、小林さんは十分可愛いからそこまで必要ないでしょ……」


 おかしいな、何でこんな話になってるんだ?

 答えながら、思わず首を捻る。

 小林さんのリアクションが普通の女子高生というか、妙に素直というか……。

 とにかく今の図式は、恋のライバルという感じではないんだけれども。


「そこまでして、どうして文化祭に来たの?」

「それは……」


 あなたと海野くんの顛末を知りたかったから。

 ……と答える訳にもいかないし……。


 いや、ちょっと違うね。それは、言い訳だ。

 私は……。


「小林さんを、見たかったから」

「えっ!?」


 夜の面談で見た小林さんは本当に可愛くて、これじゃ新川透も放っておけないだろうって。ほだされるかもしれないって、危機感を覚えたんだ、私は。

 顔を変えるためにあそこまで美少女にする必要はなかったのに、変な対抗意識を燃やしてしまって。

 小林梨花と海野くんの顛末が知りたかったというより、私は新川透が小林梨花にどう接するのかを見たかったんだよ。


「ちょっとね、新川センセーが恵の高校の文化祭に行く、という話は聞いていて」

「……」

「小林さんに会いに行くんだろうな、と……」


 言ってて、どんどん頬が熱くなる。

 ヤバい、余計な枝葉を落として真っすぐ考えてみたら、これって単なるヤキモチじゃない。

 恥ずかしい! 何なんだ、私!


「え、ちょっと、仁神谷さん……顔、真っ赤……」

「や、ちょっと待ってね。えーと……」

「ねぇ、今、照れてるの? でも、ちゃんと話してくれるんでしょ」

「あー、うん……」


 スーハースーハー、深呼吸をする。

 だけど、ちっとも効かない。でも、ここで口ごもる訳にはいかない。何のために戦闘態勢を整えてきたのかわからなくなる。


「まぁ、嫉妬したんだよね、きっと……」

「きっと、って!」

「仕方がないでしょ、今自覚したんだから!」

「遅いっ!!」

「悪かったね!」


 あれ、何でこんな友達みたいな会話になってるんだ。訳がわからないぞ。

 でもとにかく。今日は腹を決めてきたんだ。ちゃんと――言わなくちゃ。


「だから……『新川先生の恋人か』っていう問いには、そうじゃない、という答えになる」

「……うん」

「でも、私は――好き、かな」


 ふおお、言葉にすると重い――!

 何だろう、急にドバッと何かが溢れてくるというか。一生懸命に蓋をしていたのにどうしよう、みたいな……もう後には引けない、取り返しがつかない、みたいな。

 後悔している訳じゃないけど、何だろう、この「ああ、言っちまったー!」感は!


「……?」


 小林梨花が、ムッとしたように聞き返す。

 そうか、こんな曖昧な表現も駄目なのか。なかなか厳しいっすね、小林さん。

 えーと……。


「……一番近くにいるのは自分だ、と思いたい」

「それ、独占欲。『好きだから傍にいたい』でいいじゃない」

「はぐっ……!」


 何なの、何でこんなところでこの子から攻撃を喰らってるの、私は!

 そして小林梨花は、いつの間にそんなに吹っ切れたのよ!


「あーもう、わかったから」


 赤い顔をしたままアグアグしていると、小林梨花はハーッと深い溜息をついた。パタパタと右手を振る。


「もう、いいから」

「……もう、いい?」


 明らかに昨日とは違うニュアンスの「もういい」に面食らう。

 えっと、どういうこと? 


「昨日、新川先生に怒られたし」

「へ?」


 私が間抜けな声を上げると、小林梨花はぷうっと頬を含まらせて口を尖らせた。まるで悪さをしているところを見つかった子供みたいに。


「仁神谷さんを待ち伏せしたところを見てたみたいで」

「え……」

「予備校で自習してたら呼び出されて怒られた。『あの子に何を言ったんだ』って。先生の顔じゃなかった。すごく怖かった」

「……」

「だから、それでもういいや、と思って」


 それでもういいや……?

 本心だろうか、と思いながら様子を窺ったけれど、小林梨花の表情に変化はない。

 この子は直感で判断して感覚で動く子だと新川透は言っていた。そのときの新川透の様子から、何かを悟ったんだろうか。

 ……って、怒ったって何だ? 


「何かね、無駄だなって。だから安心してね。もう、諦めたから」

「な……」


 な、な、何だよ……。

 じゃあ私、こんなに頑張る必要なかったじゃん。


 いや、それとこれとは別か。私は、私自身がスッキリするために小林梨花を呼び出したんだもん。言うなれば、自己嫌悪を解消するために。

 新川透に怒られ、次の日は私に付き合わされ……ああ、彼女にとってはいい迷惑だったんじゃないだろうか。


「あの、何か色々ごめんなさい」

「いいよ、もう。仁神谷さんって、真面目だけどすごく頑固なんだね」

「……」


 それについては弁解のしようもありません。

 長い間ごめんね、新川透。


「あっ、でも、私がこんなこと言ったってのは、新川センセーには内緒にしてほしいんだけど……」

「当然よ、諦めたからって橋渡しする気はないわよ」


 小林梨花は両手を腰に当てると、ぷんっとむくれた。


「それにそういうのは自分で言わないと意味がないしね」

「えー……」


 そういうこと? 絶対に無理な気がするんだけど……。


 私が怖気づいているのが分かったのか、小林梨花は

「本当に……困った人だね……」

と呆れたように呟いた。


 マジか。こんな困ったちゃんに、困った人と言われるとは。

 予想外の結末だ。


   * * *


 ミネルヴァ様


 新川先生の若い恋人、見つけてしまいました。

 ハトコには諦めなさいって言われていたけど、どうしても納得できなくて。

 新川先生の弟なら知ってるかもって言われたから後をつけてみたら、弟さんと親し気にしゃべる「恋人」を見つけてしまったんです。


 どうしよう、現実になっちゃった。嘘だと思いたかったのに。

 どんな人なんだろう、どうやって付き合うことになったんだろう。

 誰か、はわかったけど、「どうして?」と思ってしまいました。


 新川先生に聞いたら、何て答えるだろう? 怖くてできない。

 どうやって諦めたらいいんだろう。


 悩んだけど、当たって砕けろでいってみようと思います。二人がラブラブで、私なんかの入る余地がないってわかったら、諦められるかもしれない。

 でも、挫けてしまうかもしれないから、こうしてミネルヴァにお手紙を書きました。

 また、報告します。そのときは、慰めてくださいね。


   * * *


 小林梨花との対決を終えてアパートに帰ってきてから、私はやっと、小林梨花が『ミネルヴァ』にあてた手紙を読んだ。

 昨日の夜、読もうかどうしようかすごく迷った。彼女の心理を深く知る材料になるし、読んだ方が対策は立てやすくなるだろう、と心がグラグラ揺れた。

 だけど、この手紙は『トイレのミネルヴァ』にあてたもので、言うなれば彼女の『秘密』だ。

 これを読んでから彼女に会うことは、『仁神谷莉子』としては卑怯な気がした。フェアじゃない。


 読まなくて正解だった。彼女が、こんな覚悟で昨日来ていたなんて、知らなかった。

 知っていたら、罪悪感とか後ろめたさが広がって、もっと取り繕った返事をしてしまっていたかもしれない。そしてまた、自分の気持ちから目を背けていたかもしれなかった。


 ありがとう。

 良くも悪くも素直なあなたのおかげで、私は最後に間違えずに済みました。


 そう心の中で呟いて、私は彼女の手紙をそっと閉じた。

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