第9話 ウサギちゃんが噛みついた

 一夜明けて、金曜日。

 寝不足ながらも、昨日よりは幾分足取りも軽やかに予備校内を駆け巡る。

 7階女子トイレに行くと、戸棚には小林梨花の手紙があった。いつもならお昼休憩の間に読むところなんだけど、その日は今後のシフト確認の打ち合わせがあってバタバタしていて、そのまま忘れてしまった。

 夕方、着替えて帰る準備をしているときになって思い出したけど「まあ、家に帰ってから読むか……」とそのまま鞄に突っ込んだ。

 どうせ返事をするのは明日以降だ。すぐ読もうが夜に読もうが変わりはない。


 だけど……これが間違いだった。私は、小林梨花の闇討ちを食らうことになる。



 闇討ちと言っても、夕方だけどね。

 予備校からアパートに戻るときは自転車で帰る。予備校の裏手にある生徒用の自転車小屋に停めさせてもらっているから、裏口から出入りするときは一応気をつけている。生徒が見たら、

「何で勝手にこんなところから出入りしてるんだ?」

と思うかもしれないしね。


 裏口の窓から覗いてみたけど、生徒は誰一人いなかった。私はいつものようにササッと裏口から出ると早足で自転車小屋に向かった。

 自分の自転車を見つけたところで、何と陰から制服姿の女の子がザッと目の前に現れた。危うくぶつかりそうになり思わずよろけると、停めてあった自転車に肘がぶつかってしまった。十台ほど並んでいた自転車が、派手な音を立てて将棋倒しになる。


「あっ……」

「ご、ごめんなさい!」


 とにかく直さないと、と思いながら自転車に手をかける。その女の子も黙ったまま手伝ってくれた。

 どうもありがとう、と言おうとして女の子を見上げ、ピキッと固まる。


 ――小林梨花だ。


 よく考えれば、こんな間近で見るのは初めてだった。顔が小さくて、茶色い髪の毛をゆるく2つ縛りにしている。大きめのベージュのカーディガンを羽織り、短めのスカートからは細い素足がすらりと伸びている。

 その姿は華奢で可愛くて、本当に守りたくなるような女の子だ。


 あれ、何でこんなところにいるんだろう、何か言うべきなんだろうか、と考えたけど、私とは全く接点がないはずだ。唯一考えられるのは「文化祭のときに見た助手席の女」だけど、あのとき私は別人メイクをしていたので同一人物とは分かっていないはず。


 そう気づき、自転車を直し終えた私は「ありがとうございます」とだけ言ってそのまま立ち去ろうとした。


「にっ……仁神谷さん!」

「ひえっ!」


 思わず変な声が出たけど、勘弁してほしい。だってさ、小林梨花が私を名指しで呼ぶとは思わないじゃない。

 しかも、掃除婦の私を認識している人なんて……本当にいないんだよ!?


 心底驚いてバッと振り返ると、バシッと目が合った。

 小林梨花は、肩をいからせ、ピンと両腕を伸ばし、両手拳をぎゅっと握りしめている。

 可愛いウサギちゃんがプルプルしながら敵を睨みつけている、とでもいうような感じだ。


「お、お話があります!」

「は、はい……」


 意表を突かれて、私の脳味噌は完全に機能停止していた。

 小林梨花のあまりにもすさまじい迫力に、おとなしく頷くことしかできなかった。



 予備校の近くでそれなりに落ち着いて話せる場所というと、やはり緑地公園になる。

 小林梨花は鞄を何度も肩にかけ直しながら黙々と歩いている。私も自転車を引きながらそのやや後ろをトボトボと歩いた。

 それにしても、どうやって私の存在を調べたんだろう。……というより、そもそも一体どれぐらい知ってるんだろう?

 恵を気にかけていたところを見ると、私と恵が友達だってことは知ってるはず。名前を知ったのは、そのセンだろうな。同じ中学の人間に聞けば一発だ。


「あの、どうして私を……?」


 緑地公園の脇のベンチの前で、小林梨花の歩みがピタリと止まる。

 恐る恐る聞いてみると、小林梨花は自分の鞄をドサッとベンチに置き、ちらっと私を見た。


「……月曜日、新川先生のマンションの前で見ました。新川先生の弟さんと、中西さんと一緒に」

「あ、ああ……」

「それで、予備校の掃除婦の人だって気づいて……」


 しまった、そうかー。

 つまり小林梨花は新川透のマンションなんてとっくに突き止めていたのか。でも、何で月曜日の夕方に行こうと思ったのか。

 待ち伏せかなあ。新川透が夕方上がりなのは知ってるだろうし。

 はぁ……迂闊だった。


「えっと……」

「あの、新川先生の恋人って、仁神谷さんですか!?」


 私が何か言おうとする前に、小林梨花が叫ぶ。

 相変わらず肩プルプルの、臨戦態勢だ。


 えーと、この場合どう答えるのが正しいの?

 この子は古手川さんから「若い恋人」の話は聞いている。他ならぬ新川透自身が告げた設定だ。

 それに乗っかるなら、そうですと答えるべき?


 でもちょっと待って、そんな感じで答えていいの? 何か違う気がする。

 アプローチは色々とおかしいかもしれないけど、小林梨花はこんなに真剣なのに。


「あー……」

「ちゃんと答えてください!」

「……見ず知らずの人間に答える必要は、ないと思うんですけど……」


 嘘にはならない、私にとっての精一杯の答え。

 いや、答えにはなってないよね。わかってる。当然、小林梨花はこんな程度では引いてくれない。


「私、新川先生が好きなんです!」

「それは知ってるけど……」

「知ってて、そんなこと言うんですか!?」

「……っ!」


 痛いところを突かれた。

 小林梨花は、新川透の恋人かもしれない私に宣戦布告をしに来たのだ。


 ――やっぱり、諦めた方がいいんですかね?


 ミネルヴァへの手紙には、そう書いてあった。

 でも、諦めないことにしたんだろう。もしくは、何もしないで諦めるなんてしないぞ、と。それはそれはすごい決意で、今、この場に挑んでいるに違いない。

 それに対して、私はどうだろう。胸を張って小林梨花とタイマンを張ることすらできやしない。

 だって、ずっと逃げ続けてきたから。


「いろいろ聞きました。お母さんが亡くなられて、高校をやめたって。あんないい高校に入ったのに」

「まぁ、それは……」

「何で予備校で掃除婦なんかしてるんですか?」

「それこそ、小林さんに話す必要はない」


 掃除婦なんか、と言われてカチンとくる。

 それはもう、新川透にも関係ない、私の個人事情だ。小林梨花にとやかく言われる筋合いはない。


「だって、ズルい!」

「ズルい?」

「そうやって、同情を引いたんでしょう? じゃなきゃ、新川先生が仁神谷さんなんか恋人にする訳ないもん!」

「……」


 そうだね。同情を引いたのかもしれないね。

 そして本当に、新川透の気持ちとしてはそれ以上はないのかもしれないし。

 だけど――ズルいと言われる覚えは、ない。


 私は顔を上げて、小林梨花をじっと見つめた。興奮気味の小林梨花は、目に涙を浮かべながら歯を食いしばっている。


 小林梨花も、家庭の事情でいろいろ傷ついたり、大変だったのかもしれない。

 だけど、お母さんが死んだこと、高校をやめたこと、掃除婦として働いていて新川透に出会ったこと――そのすべてを「ズルい」の一言で片付けられるのは、納得がいかない。


「小林さん。それ……どれだけ酷い事を言ってるか、わかってる?」

「わかってる!」


 わかってるんかい!

 正直すぎて、思わずのけぞる。


「でも、仁神谷さんが何も言わないから!」

「私が?」

「新川先生のこと! 何も!」

「……」


 何も言わないんじゃなくて、言えない。

 私は小林梨花と同じ土俵に立てていない。今まで適当に誤魔化してきたから。

 そうなの、私は新川透の恋人なのよ、と堂々と言えたら……どれだけ気分がいいだろう。


「――もう、いいです」


 小林梨花はグイっと右手で涙を拭くと、ベンチに投げてあった自分の鞄を肩にかけた。


「仁神谷さんは、全然本気じゃないみたいだし」

「そんな、ことは……」

「どうでもいいみたいだし」

「それは違……」

「遠慮しなくていいんだ、と思いました。だから、もういいです」

「ちょっ……」


 小林梨花はギロッと私を睨みつける。彼女の憤りが伝わる。

 悪意とかじゃない。自分の覚悟が無駄になったとか、見損なったとか、そういう感じ。

 失望、とでも言えばいいだろうか。


 小林梨花は柔らかそうな髪をなびかせながら、足早に立ち去っていく。

 当然ながら、私は追いかけることができなかった。

 だって、私にはこれ以上小林梨花に伝える言葉がない。

 彼女を思い留まらせることが、できないんだもの。


   * * *


 アパートに帰り、じっくりと考える。

 小林梨花を、このまま放っておいていいのか。

 言われっぱなしで……きちんと話もしないで、本当にいいのか。


 1時間ほど考えて、私はガラケーを手に取った。恵に電話をする。


“もしもし? どうした?”

「小林梨花さんの連絡先って、わかる?」

“ああ……うん。クラスの女子は一応登録してあるし……”

「お願いがあるの。明日の夕方に、小林さんを緑地公園に呼び出してほしいんだ」

“えっ!? 何で!?”

「今日、彼女が私に話をしにきてくれたんだけど、何も言い返せなかった」

“え……”

「ちゃんと、話をしたいの。ケリをつけたいんだ。……全部」


 真剣に話をしようとしている人を相手に、いい加減なことはできない。

 そうか……新川透も、彼女がいつも一生懸命だから、予備校講師として……頼られた一人の大人として対応したんだな、と気づいた。

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