第8話 予定がいっぱいだ……
翌日、木曜日。睡眠不足のせいか、頭が重い。鬱々としながら朝の新聞配達を済ませ、予備校へ。
今日は個別補習の日。合鍵を持っている私が早めに行き、恵と新川弟が後から合流することになっている。
予備校から自転車でアパートへ戻り、今度はボケーッと歩きながら新川透のマンションに向かう。
そういえば、新川弟はどれぐらい知ってるんだろう。玲香さんが私と会っていたことも知ってるんだろうか。
あれ、ちょっと待てよ。玲香さんは自分のお家がありながらアパートを借りていた訳で……あの部屋には住んではいなかったということだ。道理で、ピンポイントにしかアパートにいなかった訳だね。私の生活スタイルに合わせて出没していたんだろうか。
新聞記者というのも嘘で……いや、名刺を見せてもらったっけ。そうか、あれ、結婚前に使っていた名刺か。新聞記者だったのは本当なんだ、きっと。
思えば、玲香さんは最初から好意的だった。新川透には関係のないことについてもいろいろ教えてくれて、「もう少し肩の力を抜いてもいいのよ」とアドバイスしてくれたりしたっけ。
と、いうことは……あれかな、新川家では胡散臭い娘が大事な息子に纏わりついている、みたいな話になっていて、玲香さんがお家の人を説き伏せて私の調査を買って出た、とかなんだろうか。
それを察した新川透が激怒して、玲香さんは大慌て。両者の間で板挟みになっている……とか。
いや、こうやってあれこれ考えていても意味がない。とにかく来週になったら話をするんだし。変な先入観を持たずに、それをちゃんと聞いた方がいい。
昨日、玲香さんと初めて会ってから今までのことを思い返してみた。おかげで今日も寝不足になってしまったけど、その思い返した記憶に黒いモノは何も感じられなかった。
やっぱり、どう考えても玲香さんに悪気があったとは思えない。素性を明かさなかったのも、素の私を知りたかったから、じゃないのかな。
とにかく――今週末の日曜日には、松岡浩司さんと会うことになっている。とりあえずそれを済ませて、玲香さんのことはそれからにしよう。
そう心に決めた頃に、ちょうどマンションに着いた。
鍵を開けてリビングに入ったところで、私のガラケーの着信音が鳴る。見ると、松岡さんからだった。
「もしもし」
“もしもし、莉子さん? こんにちは、松岡です”
「こんにちは、松岡さん」
心が軽くなって気持ちが和らいだせいか、素直に挨拶できた。思えば、最初の電話ではカチコチだった気がする。
まぁ、見知らぬおじさんからの電話だった訳だから、無理もないけど。
“24日なんですが、15時でどうでしょうか?”
「わかりました」
“待ち合わせ、時計台と言いましたけど……寒い時期ですし、どこかカフェとかの方がよかったですか? 遅れることはないと思いますが、落ち着いて待つことができますし”
「いえ、私……あまりそういう店には行き慣れてないので、時計台の前の方が落ち着きます」
“そうですか。それなら……よかった”
心なしか、松岡さんの声も穏やかだった。
そう言えば、あのときは松岡さんも見知らぬ少女に初めて電話をかけたことになる。最初はオドオドしても仕方がないかもしれない。
しかも、自分を捨てた父親だと憎まれてるんじゃないかとか、あっちの方が悪い考えがめぐる要因は十二分にある気がする。
「じゃあ、24日の15時に時計台の前、ですね」
“ええ。よろしくお願いいたします”
「はい。……こちらこそ、よろしくお願いいたします」
だから取引先じゃないのに……と思うと、思わず笑みがこぼれる。
私の口調に安心したのか、松岡さんは『それでは、楽しみにしています』と言って静かに電話を切った。
* * *
新川弟がやってきたのは、六時半頃だった。まだ恵が来ていないと知って、嫌そうな顔をする。
二人きりはー、とかガタガタ言ってたから、ビビッているんだろう。新川透はまだ帰って来てないんだから、そんなに怯える必要もないのになあ。
「ちょっとこの問題、聞いてもいい?」
「……透兄に聞けばいいだろ」
「ふーんだ、ケチ」
「……お前、相変わらず呑気だよな。人の気も知らずにさ」
「はあ?」
誰が呑気だ。こっちは父親かもしれない人が現れたり、訳の分からんミネルヴァへの手紙を受け取ったりして大変なんです。
ずっと黙りこくってるのもなんだから、気を遣って話しかけたのにさ。
人の気も知らずに、は私の台詞だ。
その後はお互いムスーッとしたまま一切口をきかなかった。
ほどなく恵が来たので、私はちょっとホッとして笑顔で恵を出迎えた。
恵はというと、私たちの間の気まずい空気を察知したのか何も言わない。私に英単語の意味を聞いたり、新川弟に数学の問題を教えてもらったりと、適当に間を持たせている。
こういうところ、恵はすごいな、と思う。
七時ギリギリに帰ってきた新川透は、いつも通りだった。玲香さんは「バレたことは内緒にしてて」と私に言っていたくらいだし、当然新川透にはまだ話していないだろう。
そういや文化祭のとき、新川透が玲香さんに怒ったって話だったけど。ちょっとピンとこないんだよなあ。
わざわざアパートの隣に越してきて勝手にしゃしゃり出てゴチャゴチャとかき回して……ということなんだろうか。
そう言えば、お父さんと偶然会った話をしたときも不機嫌そうだったな。新川透は、私が自分の身内に接触するのが嫌なのかもしれない。
それは……私がこんなだから、なのかな。
玲香さんが根回しがどうとか言っていたのは、その辺にあるんだろうか。
あ、考えないようにしようとか言ってたのに、結局考え込んでしまった。
とにかく、まずは日曜の松岡さんの件だ!
玲香さんの話や小林梨花、新川透の件は、その後だな。
* * *
個別補習が終わり、新川弟は自転車で自分の家に帰っていった。私と恵は新川透の車で送ってもらう。
さっき『新川透はいつも通り』と言ったけれど、実はあのキスのあと、二人きりでは全く話していない。だから、いつも通りというのはあくまで外面……というか、二人きりではない場合の新川透と比較した上での話で、実際にどう思ってるのかはよくわからない。
新川透は今、仕事がかなり忙しいみたいで昼間に掃除中の私のところに現れることもないし、火曜日と水曜日は遅帰り。しかも十時を過ぎていたようで、電話でも話していない。
メールはと言うと、基本、事務的な連絡以外は来ない。
「話すなら、ちゃんと会って話したいから。そのときの表情とか全部込みで感じたいから」
と言っていて、それには私も同意見だった。
それに今は松岡さんとか玲香さんの件で私もいっぱいいっぱいだ。とてもじゃないけど、新川透とタイマンを張る余裕はない。
……という訳で、今日も恵と一緒にさっさと車を降りよう……と思っていたら、
「莉子、日曜日の夜は空いてる?」
と唐突に聞かれた。
送ってもらっている最中で、私と恵は後部座席に並んで座っている。
まさかこのタイミングで個人的な話をされるとは思わず、返事を躊躇ってしまった。
だけど躊躇い過ぎは禁物。何かあるとバレてしまう。急いでぐるぐると頭を回転させる。
日曜日は、15時に松岡さんと待ち合わせ。そのあとなら時間的には大丈夫だ。……精神的にはちょっと辛いけど。
だけど恵の前で聞かれたんじゃ、アリバイ工作もできない。
ちっ……考えたな。
「空いてる。……多分」
「明日と明後日はどうしても莉子と時間が合わないんだ。日曜日も日中は仕事だしね。夜、絶対に空けておいて」
「……わかった」
運転中の新川透は前を向いたままだったけど、声は真剣そのものだった。
恵にお願いしてドタキャンすることもできるけど……それはさすがにマズいだろう。
ちゃんと新川透のことも考えて……。
――いや。
むしろ、考えない方がいいのかもしれない。玲香さんの件と同じだ。考えすぎると変に凝り固まってしまって、素直に話が聞けなくなるかもしれない。
それは松岡さんに対してもそうだよね。
新川透は、それ以上何も言わなかった。車を恵の家の前で停め、「おやすみ」とだけ言うと、そのまま走り去っていった。
「珍しく素直に返事してたね」
「うん。仕事が忙しい中どうしても、というのが伝わってきたから」
「ふうん……。ところでさ、莉子とタケちゃんって仲悪いの?」
タケちゃんとは新川弟、つまり新川健彦のことだ。新川透が「タケ」と呼んでいるので恵もそう呼んでいる。勿論、本人には言わない。裏での愛称だ。
「んー、仲悪いと言えるほど会話もしてないし。私が話しかけると嫌そうな顔をするからさあ」
「へぇ……」
「人の気も知らずに呑気な奴だなとか言うし」
私がふくれっ面をすると、恵はププッと笑った。
「まぁ、苦労してそうだもんねぇ、タケちゃんは。あんな兄がいたんじゃね」
「だとしても私、関係ないじゃん……」
「いや、関係は大アリでしょ。むしろ中心というか」
「えー……」
何でそうなる。で、仮にそうだとしても、何で冷たくあしらわれないといけないんだ。納得いかん。
「そういや今度、いつ玲香さんに会うの?」
「あ……」
恵の何気ない言葉に、私は咄嗟に言葉につまってしまった。
玲香さんが新川家のお嫁さんだったこと、恵には話さないといけない。だけど、当の本人からまだ話を聞いてないし、どこまで話したらいいかわからない。こんな夜に立ち話でできるようなことじゃないし。
「何、その顔。何かあった?」
「うん、まぁ。でも、ちょっと待っててくれる?」
嘘はつきたくないから、正直に答える。いつもならモゴモゴするところなのに妙にキッパリと私が答えたもんだから、恵がちょっと驚いたように私を見た。しっかりと視線が合う。
「ちゃんと話したい。だけど、今週はちょっと無理なんだ」
「日曜日には新川センセーに会うしね」
「……うん」
それに、松岡さんにも会うし。
そうだ、これも恵にはちゃんと話さないとね。
「わかった。来週ってことだね」
「うん。ごめんね」
「ふふっ、事後報告には慣れてる!」
恵はそう言ってちょっと笑った。嫌味でも何でもない、素直な気持ちだと思う。
――長い付き合いだもの、わかってるよ。仕方ないね、莉子は。
そんな恵の声が聞こえたような気がした。
恵は「じゃあ、おやすみ」と言って玄関の前の階段を上がっていったけど……ふと、何かを思い出したように急に振り返った。
「そうだ、小林さんのことなんだけど」
「へ?」
何だ、急に? あ、でも、同じクラスなんだっけ。
「ここ最近の様子がね、ちょっと……。妙に視線を感じるというか。私に話しかけたい、でも、と躊躇ってるみたいな」
「へぇ……」
「念のため二人きりの状況は避けたけどね。私から話しかけた方がいいと思う? 莉子としてはどっちがいいのか、私にはわからなかったからさ」
「んー……」
新川透に対してとかミネルヴァへの手紙から考えて、手を差し伸べたらガシッと掴んで「死んでも離さないから!」とか言いそうだ。
今度は恵に粘着されても困るなあ……。ただでさえ私の事情に巻き込んでしまっているのに。
「いいんじゃないかな、そのままで。また手紙を貰ったら恵にも相談するね」
「了解。じゃ、おやすみー」
「おやすみ!」
手を振ると、私は恵が家の中に入るのを見届け、ゆっくりと歩きだした。
ようし、心の準備なんて、もうしない!
フラットにして、とにかく五感全部でありのままを感じよう。
それが一番だ!
そう、心に決めたんだけどね……。失敗だったかもしれない。
――まさか、闇討ちに遭うとは思わなかったからさ。
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