第3話 びっくりしちゃった
そして今日は、水曜日。7階女子トイレのピンクのファイルは無くなっていた。どうやら小林梨花は昨日もちゃんと自習に来て、私の返事を持っていったようだ。
そして今日から三日間、この光野予備校では保護者面談が行われている。
10月の記述模試の結果が返ってきたので、これで私立大の出願や今後の方針などを決めるのだそうだ。
新川透によると、生徒の意向と家族の意向が違う場合もあるので、ここでしっかり話し合いをして実際に国公立大の出願を決める前に根回しをするらしい。
新川弟の面談にはひょっとしてお家の人が来るのかな?と思って聞いてみたんだけど、
「俺がいるんだから来ないよ。俺がタケの担任と話をすればいいことだし」
と、非常に素っ気ない答えが返ってきた。
ちょっとつまんないなー。新川弟の両親という事は新川透の両親でもある。どんな人か興味あったのに。
私の想像では、お父さんは医者で病院の院長でもある訳だから、きっと厳めしい感じなんだろうな。
お母さんは……やっぱりおっとりした感じなのかな? 医者の奥様って、何となく優雅な奥様のイメージない?
待てよ、医者のお父さんと看護師のお母さん、とかも有り得るかな。この場合だと面倒見のいい世話好きタイプのお母さんかもしれない。
……と、そんな妄想をしながら7階女子トイレから出ると、一人のおじさんが何やらウロウロしていた。
背は170センチに届かないぐらいで、少し小太り。あれー、おやー、という感じで辺りをキョロキョロ見回している。
ひょっとして、今日の保護者面談に来た保護者の人だろうか。
「あの……?」
上がる階を間違えたのかな、と思って声をかけてみると、私と目が合ったおじさんが「おおっ!」というように顔をほころばせた。おじさんの目尻が下がる。何だか人の良さそうなおじさんだ。
「すみません。面談に来たんですが……ここじゃないんですか?」
「保護者面談の会場は4階ですよ」
「あ、しまった!」
ペチンとおでこに右手を当て、恥ずかしそうに微笑む。愛嬌のあるおじさんだ。ちょっと可愛い。
「時間は大丈夫ですか? ご案内しますね」
掃除婦はエレベーターを使うべきじゃないんだけど、おじさんまで階段で移動させるわけにはいかない。掃除用具を踊り場に置くと、エレベーターの逆三角形のボタンを押す。エレベーターはすぐに反応し、7階まで上がってきた。
一階の受付でちゃんと案内されてるはずなのにな。そそっかしいおじさんだ。
7階から4階まではそう時間もかからないので無理に話しかけたりすることもなく、私とおじさんはそのまま黙っていた。
4階で扉が開くと、目の前には中年の男の先生が立っていた。確か英語の先生だったような……。
その先生は私とおじさんを見て「あっ!」と声を上げた。
「新川さんですか?」
「そうです。すみません、階を間違えました」
「いえいえ。それではこちらへ……」
おじさんは私にどうも、と会釈をすると、男の先生の後について去っていった。
良かった、先生が迎えに来てくれて……。さすがに教室まで掃除婦が連れて行く訳にもいかないしね。
……あれ?
階段を昇りながら、首を捻る。
今、「新川」って言ったような……。名字が同じだけ? それとも、今のが新川家のお父さんなの?
* * *
“ああ、そう。あれがウチの親父だよ”
その日の夜。気になったので『お父さんって面談に来られた?』と新川透にメールをしたら、すぐに電話がかかってきた。
どうやら新川透も知らない間にお家の人が予約を入れていたらしい。
“全く……”
「何でそんな不機嫌なの? 別にいいじゃない、弟さんを心配してるんでしょ?」
“まぁね。先週の医進模試であいつ、だいぶんコケたからな。それで慌てたみたいだ”
「そうなんだ……」
“医進模試の問題はマニアックだからそんなに気にすることはないのに……”
医進模試は「医学部進学模試」の略で……つまり、新川弟のような医学科志望の生徒向けの模擬試験。医学科は大学によって問題のレベルは変わるけど、難関私立大や医学科独自の問題を出題する大学などでは、かなりの難問が出題される。新川透が『マニアック』と言うのは、その辺に合わせた出題になっているからだろう。
そうは言っても、医学部志望でそれ向けの模試でコケたら、やっぱり凹むでしょう。
どうも弟への当たりがキツいよね、この人は。
「何かお父さん、イメージと違った」
“イメージ?”
「エラいお医者さんだからもっと怖い感じかな、と思ったけど、すごく気さくだった。新川センセーにも似てないし」
“医者がエライ訳じゃないし、俺は母親似だから……。あれ? 親父と話をしたのか?”
「お父さん、間違えて7階に上がってきちゃったの。だから4階に案内してあげたんだ」
“は……”
驚いたのか、新川透の言葉が途切れる。何だ?と思って耳をそばだてると
“何考えてんだ、あの親父は……”
という呟きが聞こえてきて、思わず吹き出してしまった。
そういえば玲香さんが言ってたっけな。新川家はみんな結構仲良しだよって。
「何か、楽しそうなお家だね」
ちょっと羨ましい、と思ったけど、それは言わない。天涯孤独の私がそんなことを言ったら、さすがに気に病むでしょ。それに、そういう羨ましいとはちょっと違うからさ。
“そうか? まぁあんな父で良ければ莉子も『お父さん』と呼んであげて”
「何で、呼ばないよ!」
“ウチは男兄弟しかいないからすごく喜ぶよ、きっと”
「何を言ってるんだか……あっ!」
ふと時計を見ると、もう十時を過ぎていた。
11月末までは、新聞配達がある。そろそろ寝ないと。
「ごめん、そろそろ寝るね」
“莉子、一度実家に来る?”
「行ーきーまーせーんー。じゃあね、お休み!」
“……はぁ……”
電話の向こうから何か溜息が聞こえてきたけど、無視無視。
新川透の『お休み』という言葉を待って、私は電話を切った。
全く、唐突に何を言い出すのやら……訳が分からないよ、本当に。
* * *
翌日、木曜日。今日は玲香さんがちょっと顔を出すねー、と言っていた。
玲香さんとちゃんと話をするのは、文化祭以来だ。ちょこちょこと顔を合わせてはいたけどいつもどっちかが忙しくて「また今度!」「そのうちに!」とずっと言い合っていたのだ。
その後の報告も(小林梨花の手紙の件は伏せるにしても、だ)しないといけないし、今日は長くなるかもしれない。まぁ、個別補習もあるからせいぜい1時間程度だとは思うけどね。
それならお茶菓子ぐらい出さないと駄目だよね、と特売狙いでスーパーにやってきた。
せっかく来たので、ゆっくりと回ることにした。冷蔵庫の中身を思い出しながら、必要なものがなかったか考えてみる。
え、料理もできないのに何でゆっくり回る必要があるのかって?
実はね、新川透は時々
「これ、明日の弁当とか夕飯に食べろよ」
と言って作ったおかずを持たせてくれることがあるのです。だから、ドレッシングだとかケチャップだとか、そういう調味料は置くようになったんだよ。
あと! インスタントラーメンぐらいは作ったりするしね!
……うーん、やっぱりこうして考えてみると、本当に餌付けされてるよね。やっぱりペット扱いじゃないのかなあ……。
何かそれって、ちょっとモヤッとするんだよね。いや勿論、すごく感謝はしてるんだけどさあ……。
「きゃっ!」
「あ、ごめんなさい!」
誰かにぶつかった感触がして、反射的に謝る。その『誰か』の向こうでガシャガシャガシャと、積んであった缶詰が転がるのが見えた。
「本当にすみません!」
慌てて転がっていく缶詰を拾い集める。私がぶつかってしまった人も「あらあら」と言いながら拾ってくれた。
どうにか元の通りに積み直したところで、その人の方に振り返る。四十代ぐらいのおばさんだった。
おばさんと言っても、すらりと背が高い、ショートカットの髪が決まっているカッコいい女性だ。薄化粧で品がよく、背筋がピンとしていて着ている服もシャキッとしている。
「すみません、私の不注意でした。あの、ありがとうございます」
慌てて頭を下げると、そのおばさんは「いいのよ」と言ってふふふ、と笑った。美人だけどキツそうな見た目だな、と思ったのが失礼に感じた。笑顔になった途端、どこか優しい雰囲気に変わる。
「私もちょっと考え事をしていたの。あのね、昆布は利尻と日高と羅臼、どれがいいかしら?とか」
「え?」
「あとはね、三杯酢は作ろうかしら、それとも買った方が早いかしら、とか……」
昆布の違いなんか私には分かりようもないけれど、三杯酢が置いてある場所は知っていたので案内してあげた。
おばさんは瓶を取り出しラベルを真剣に眺め、「うーん」と首を傾げながら唸っている。
てっきり外で仕事をしている人かな、と思ったけど、専業主婦なのかな。
「あの、じゃあ私はこれで……」
もういいかな、と思い会釈をすると、おばさんは「どうもありがとう」と言って丁寧に頭を下げた。
その後、安売りしていたクッキーとスナックを買い、自転車のカゴに袋を入れたところで、新川透が
「羅臼は旨味が強いからちょっと少なめにしないと駄目なんだよ。日高は逆に少し薄いんだよなー」
と言っていたことを思い出した。
さっき思い出せたら、おばさんに教えてあげられたのに……とは思ったけど、わざわざ戻って言うほどのことでもないかな、と諦めてペダルを漕ぎだした。
料理に興味なさ過ぎて右から左だったけど、何でも聞いておいて損はないよねー。
それにやっぱり、ちょっとはできた方がいいのかな。無事大学に合格した暁には、新川透に教えてもらうか。
でも、大学に合格したらもうそれまで、かもしれないよね。
もう、それまで……。
自分の言葉に、凹みそうになる。
振り切るように、私はペダルを漕ぐ足に力を込めた。
くだらないことを考えてる場合じゃない!
受験に向かって、一直線なんだから!
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