第4話 何かモヤッとする

 預かってしまった今年の記述問題のコピーは、そのまま新川透に没収された。まぁ、それには異存はないです。私だってそんなズルはしたくないし。

 予備校の他の先生に言うのか聞いたところ、

「それはやめておく」

と言われた。


「まだ予備校生の仕業とも不正行為とも決まった訳じゃない」

「え……」

「何かの事情で前倒しで受けた高校生が解答冊子を貰う前に復習したかった、とかね。もう少し様子を見よう」

「うん……」

「これからは冠模試もあるし、とにかく毎週のように模試が行われる。だから莉子は、念のためその場で解答せずに持ち帰ること。できれば俺に見せて欲しい」

「わかった」


 その後、簡単に新川透と打ち合わせをした。

 トイレに置かれた『ミネルヴァへのお願い』はすべて必ず持ち帰り、コピーを新川透のマンションのポストに投げ込む。そのあと、新川透のOKが出てから取り組む。

 ちょっと面倒だけど、そういうことになった。

 返却するのがどうしても遅くなるけれど、模試が多いこの時期に疑われるようなことはしたくないし、悪事の片棒も担ぎたくない。


 それにしても、こういうカンニングする人の心理はよくわからないなあ。

 仮に模試の結果が良かったって、本番の大学入試には関係ないのに。嘘の成績で家族に褒められ、先生に「これならイケるんじゃないか」と励ましてもらったって、何もならないじゃない。

 

 私にとってはかなり気分の悪い出来事ではあったんだけど、模試に関しては私も生徒の立場だし、あまり深入りする訳にはいかない。

 仕方なく、新川透の言う通りにすることにした。不審な動きをしている生徒には気をつけるけどさ。


 しかし金曜日、土曜日は特に何事もなく、不審者を目撃することもなく……日曜日の模試を迎えた。

 私の試験会場は、7階大ホールに併設されている控室。出入口は二つあり、一方は大ホールと、もう一方は職員用通路に繋がっている。だから大ホールに通じている扉を閉めてしまえば、他の受験生たちに会うことはない。

 控室は6畳ぐらいで、長机が1台と椅子が2台あった。出入口付近に置かれているもう1つの椅子は、試験監督をする新川透用だろう。


 今日は一日ここで二人っきりか……。

 ドキドキ? しない、しない。

 私は試験を受けるだけなので、なーんにも起こりはしませんよ?


   * * *


「新川センセー、あれから何か分かった?」


 昼食時、私は控室で弁当を食べていた。いつものおにぎり……だけじゃなく、新川透が作ってきてくれたおかずやサラダと共に。

 うぅむ、着実に餌付けされているけれど、実際に美味しいので拒絶することもできない。

 あ、唐揚げやわらかーい。


「……いや、特には」

「ふうん……」

「それより、莉子。仕事はいつまで続けるんだ?」

「新聞配達は11月末でやめる。掃除婦は……どうしよう。ちょっと悩んでる」


 掃除婦をやめると、もう予備校に来ることはなくなる。当然ミネルヴァだってやめないといけない。

 そうして丸一日体を開けたとして、じゃあはたして一日中勉強できるだろうか。


「悩んでる間は、続けた方がいいかもな」

「えっ!?」


 あまりにも意外で、ちょっと面食らう。新川透のことだから、さっさとやめろって言うと思った。


「例えば……高校生だと、両立が難しくなって部活を辞める奴がいるだろ」

「うん」

「そのあと成績が下がるケース、意外にあるんだよ」

「えー、何で? 時間ができるのに?」

「んー……」


 自分で作ってきた卵焼きをモグモグしながら、新川透は少し考え込んだ。


「人の物事をこなす限界っていうのは……実は皮袋のようなもので」

「皮袋?」

「そう。使い方次第で伸び縮みするんだ。荷物をどんどん詰めていってもう入らないとなったときに、『じゃあここは削ってしまえ』という人間と『ここを詰めて少し無理をしてでも入れよう』という人間に分かれる」

「うん」

「削った人間は、次にその皮袋に荷物を入れようとしたとき、削った分だけ袋が小さくなっている。前と同じ量なのにいっぱいいっぱいに感じてしまう。だけど、無理して入れた人間は、その分だけ皮袋が伸びている。前と同じ量でも今度は少し余裕が感じられるから、じゃあ今度はもう少し入れてみよう、となる」


 おお、何か新川透がマトモなことを言っている。さすが予備校講師だ。


「……つまり、余力がある間は諦めずに自分のできることを目一杯やった方がいいってこと?」

「そういうこと。勿論、自分の力量も考えずに無理に詰め込んで破裂してしまったら元も子もないし、無計画に詰め込んでいっても隙間だらけで容量は増えないけど。ただそうやって自分がこなせる量を少しずつでも増やすことが、将来仕事をする上でも役に立つ」

「ふうん。そっか、受験勉強にも同じことが言えるってことか」

「そう。さすが飲み込みが早いな、莉子はー」


 新川透はそういうと、私の頭をわしゃわしゃとした。

 だからペットではないっつーのに……。いや、子供扱い? おにぎりと箸で両手を塞がれてたから、払いのけられなかったよ。

 むうう、とした顔をすると、何を勘違いしたのか新川透は妙に困ったような顔をした。

 何だ、その「やれやれ、困った子だ」みたいなテイは。


「莉子は言われなくても頑張る方だし、心配は心配だけどね」

「大丈夫ですっ。シフトのことは桜木社長に相談してみるし」


 自分のことなんだからちゃんと自分で考えます。お前は私の保護者かっつーの。

 何か妙にモヤモヤして、私はプイッと顔を横に向けた。はぐはぐと急いでおにぎりを食べる。


「そうだな。それに……莉子がいなくなると、俺は寂しい」

「へっ!?」


 ゴクンとご飯の塊を飲み込む。

 振り返ると、いつの間にか妙に近くまでにじり寄っていた。


「莉子、やっぱり一緒に暮らさない?」

「だから何がやっぱりなの?」

「そうしたら週2と言わずいつでも勉強を見てあげられるし」

「本当にそれだけ?」

「そんな訳ないけど」

「だ、か、ら、隠してよ、そういうのは!」


 模試の合間の休み時間に訳のわからんことを言うんじゃない! 予備校講師の職務を全うしろ!

 だいたい……受験が終わるまでの、ほんの何か月かのことじゃない。終わったらどうするつもりなのさ? 私、確実にいなくなるんだよ?


「……ご馳走様でした! ちょっとお手洗い!」


 パンと両手を合わせて大きめの声で切り上げ、私は急いで立ち上がった。

 うっかり考えてしまった、そして喉まで出かかったその言葉を、かろうじて飲み込む。


 だって、それは――未来を問う言葉。

 私のことをどういう風に考えてるの、と――まるで私が、新川透に必要とされたがってるみたいだったから。

 バカなことを考えたものだ。新川透がどうするつもりなのか、なんて、気にしたってどうしようもないじゃない。


   * * *


 職員用通路に出て、階段を降りる。やっぱり普段は地下一階のトイレを使っているし、他の階のトイレは知っている生徒に会う可能性もあるから安心できない。

 五階に差し掛かったところで、男の子の話し声が聞こえてきた。私の足音に驚いたのか、それはだんだん遠ざかっていく。

 どうやら生徒が勝手に職員用階段で携帯電話を使っていたようだ。「ヤベぇ」とでも思ったのだろう。

 でも、模試の最中は携帯電話って回収されてるんじゃなかったっけな。

 あ、そうか。もう終わったのかもしれない。私立文系だと英語と国語しか受けないから、記述模試は午前中で終わってしまう。


「だから。ちゃんと話をさせろ。……いや、そうじゃなくて……」


 何か揉めてるっぽいなあ……。

 ひょいと廊下を覗くと、エレベーターホールの手前の細い廊下で男の子が話し込んでいた。後ろ姿しか見えないけど、赤いメッシュが入った髪、派手なバックプリントのスカジャンに、ダメージジーンズ。

 何か怖そうな男の子だなぁ……。


「いや、お前が授業に来る時間にはいないからさ、俺は。だから……あっ」


 男の子が小さく叫び、スマホから耳を離す。チッと小さく舌打ちしたのがわかった。どうやら一方的に電話を切られたようだ。

 ふうん、高校生の彼女でもいるのかなあ。夜に授業に来るってなるとそういうことだよね。何だよ、ケンカしたのー?


 そう言えば、私と新川透はケンカにもならない。私が一方的に怒って「はいはい」と宥められるか、新川透が一方的に怒って「ごめんなさい!」と私が平謝りするか。

 むうう、こうして考えてみると、対等じゃないよね。そこがちょっと不満。

 ……ん、不満?


 何をバカなことを……と思いながら今日何度目かの溜息をつきつつ、私は階段を降りた。

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