第3話 浮かれてる場合じゃない!
玲香さんと別れた後、私はアパートに戻って予備校に行く準備をした。
新川透に渡された鍵は……悩んだ挙句、一応アパートやロッカーの鍵と一緒にキーホルダーに付けておく。
何か、これ1つ増えただけでずーんと重みが増したというか、ドキドキするというか、変な感じだ。
その日は一日、ソワソワしつつ掃除をしていた。
その後、自転車でアパートに戻ってから徒歩で新川透のマンションへ。
ドキドキしながらエントランスを抜け、階段で三階に上がり、扉の前に立つ。
この鍵がハマらない、とかねー、ははっ。
と乾いた笑いをしながら鍵穴に差してみたけれど、するっと入ってするっと回ってしまう。
しばらくの間、私はドアの前で立ちすくんでしまった。
ほ、本当にマンションの鍵だったよ……。あの人、何を考えているんだろう。
私の事を信用し過ぎじゃないかなあ……。
いや、お金を取ったりはしませんよ? だけどさぁ、男の一人暮らしって見られて困るものとかイロイロあったりするんじゃないのかなあ。
いやいや、探したりはしないけどね?(でもあるのかなあ、やっぱり)
一応、自分の中のルールとして、新川透のマンションに来た時も寝室には足を踏み入れないようにしている。行動範囲は、玄関から廊下を通ってすぐにある台所と、その奥のリビングだけ。
寝室に入ったのは、前にお泊りした時だけだ。
そのときのことを思い出して、顔がぼうっと熱くなった。あのときはものすごく怒られてパニクってたし、朝はまだ寝ぼけてたしでボケーッとしている間にイベントが終わってしまったけど、よく考えたら結構スゴいことだったよね、と何回も思い出し赤面をしていたのだ。
いやだって、一つのお布団でぎゅー、よ? どうやったって逃げられない状況なのよ?
何もなかったけどね? なかったけど、あってもおかしくない感じではあったというのが、こう、何とも……。
ふと、少し遠くからガチャッと扉の鍵を開ける音がした。
こんなところでいつまでも突っ立っていたら怪しまれてしまう、と、私は慌てて扉を開けて中に入った。
赤くなった顔をパンパンと叩きつつ、落ち着けー、こんなことは何でもない、と何回も唱えながら。
* * *
リビングで勉強をしつつ待っていると、七時半頃に玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
新川透が帰って来たに違いない、と私は手にしていたシャーペンを置いて立ち上がった。
玄関に靴があるから気づいただろうけど、勝手に入ったのだからちゃんと「お邪魔してますー」ぐらいは言わないと。
たたたっとリビングから台所を抜け、玄関に繋がる廊下に顔を出す。
「あ、お帰りなさい」
「……」
お邪魔してますー、と言おうとしたら、口を開けてポカンとした顔をしている新川透と目が合った。
おいこら、先に入っとけと言ったのはお前だろうが。なぜ驚く?
「莉子……ちょっと」
「何?」
手招きされたので仕方なくトコトコと歩いて行くと、新川透が
「もう1回言って」
と異常なくらいキラキラした目で訴えてきた。
何で……と思ったけど、よく考えたら私も「お帰りなさい」なんて言うのはお母さんが死んでから初めてのような気がした。
ちょっとじわんとしたものを感じて
「お帰りなさい」
と照れ笑いしながら言ってみた。
「ただいま、莉子ー!」
「ぎゃー!!」
例によってハグを食らい、思わず叫ぶ。
あああ、バカだ、正真正銘のおバカでしょ、莉子! ナゼにこの展開に思い至らなかったのかね、本当に!
「何するんだ―!」
「イイ! すごくイイ! やっぱり一緒に暮らそう、莉子!」
「何がやっぱりだー!!」
今回に関しては両腕でがんじがらめにされちゃってるし、異常に密着してるし、両足も宙に浮き気味。
これじゃ蹴りが繰り出せない!!
いやあ、何か身体が熱いし! 力もハンパないし!
「は、な、し、てー!」
「ヤダ」
「ヤダじゃないわー!」
顔を横に振ると、目の前に新川透の左腕が。思わずガブッと噛みついた。
「痛っ!」
という声と共に腕の力が緩んだので、咄嗟に振り払って距離を取る。
いやあ、もう、心臓バクバクだよ! 絶対今、顔が真っ赤だし!
思わず胸元を右手で押さえ、左腕は自分を抱きしめるように体に回し防御態勢をとる。
「何でいちいちハグすんのさー!」
「それぐらい可愛いからでしょうが。……ってー……あ、歯型」
新川透はワイシャツの袖をめくると、左腕に付いた歯型をそっと撫ぜた。そして「ふふふっ」と変な笑い声を漏らす。
「どうしよう、ドキドキする……」
「はっ!?」
「甘噛みってやつだよね、コレ」
「バカでしょ!」
お前は今、何を妄想したー!
噛まれて悦ぶって何なの。いったい、どういう対応をすれば正解なの。
誰か教えてください、マジで!
その後、
「追い込み時期なんで真面目にお願いします、新川センセー!」
と強く訴えたところ、そこは予備校講師として思うところがあったのか、それ以上はゴリ押ししてくることはなかった。
途中で休憩も挟みつつ2時間の個別補習が終わったところで、「あ、そうだ」と新川透がコーヒーを片手に声を上げた。
「今日の夕方、臨時職員会議があってね。日曜日の模試の打ち合わせがあったんだけど」
「それで遅くなったんだ」
「そう。それで、莉子は7階の大ホール脇の控室で受けることになったからね」
「えっ!」
あれっ、確かに記述模試の申し込みはしたけどさ。明日、明後日ぐらいで自宅受験して答案を預ければいいかと思ってたのに。
「予備校に来いってこと? 何で?」
「今回の模試は、事前実施に関して厳しいんだよ。予備校としても自宅受験はちょっと、となってね。大丈夫、俺が試験監督に付くから」
「えーと……ちょっと待って、予備校の他の先生も私の事を知ってるの?」
「そりゃそうだよ。9月のマーク模試のときに説明しておいた」
「え――!」
どういうことだ!? そういや最近、廊下ですれ違った先生から妙に生温かい視線を感じたり、「頑張って」とか声をかけられるな、とは思ってたけど……。
「俺の一存で得体の知れない生徒の答案を紛れ込ませる訳ないだろ。外部受付だってちゃんと名簿は作るんだからな」
「そ、そうだけど、説明って……」
「んー?」
んー?じゃないです。何だ、そのニヤニヤは。
どれぐらいの範囲で説明したのよ? 気になるじゃん!
「いじらしいぐらい真っすぐに頑張っている俺の恋人です」
「んぐっ!」
「――なーんて言う訳ないだろ」
「ぐはっ!」
一気に頬が熱くなった瞬間、新川透がペロッと舌を出しておどける。しかも、妙に楽しそうに。
く、悔しい! 完全に遊ばれている!!
「だから、恋人じゃないし!」
「えー、まだそこ粘る? そろそろ認めてほしいなあ」
「うるさい! で、何て説明したのよ?」
「高校をやめた関係で大っぴらに受けることはできないけど、真面目に大学受験を考えて勉強してるから便宜を図ってもらえないか、と」
「ふうん……」
つまり、当たり障りのない私の事情だけ説明したってことね。
どういう関係とか聞かれなかったのかな、とは思うけど、もうそこは流しておこう。
「……あ、そうだ」
模試で思い出した。『ミネルヴァへのお願い』があったんだった。
気を取り直して、私は鞄からプリントの束を取り出した。
盗撮事件のこともあってか以前よりは数が減ったけど、それでも定期的には7階女子トイレにプリントが置いてある。いつもはせいぜい1、2枚といったところなんだけど、今日は珍しく大量のプリントが置いてあったのだ。
広げて見ると、英語と国語の模試のコピーのようだった。それぞれ丸々1回分ずつ。今度の記述模試対策として配られた去年の問題かな、と思ったんだけどね。
どう考えてもその場で解答できる量じゃなかったから、背中のファイルにしまって持ち帰ってきたのだ。
「ねぇ、これ、去年の記述模試?」
「え? ちょっと見せて」
私の台詞に、新川透がちょっとギョッとしたような顔をした。ひったくるようにして私からプリントを奪う。
そして眺めていくうちに……みるみる表情が険しくなるのがわかった。
何? 何かマズいの?
「……どうしたの?」
「莉子、コレ、どこにあった?」
「どこって……いつもの通り、7階の女子トイレだよ。だから『ミネルヴァへのお願い』だと思って……」
「違う、と思いたいけど」
「へ?」
新川透は「うーん……」と大きな溜息と共に唸り声をあげた。珍しく、大真面目な顔をしている。
「これ、日曜日にやる記述模試の問題だな」
「え?」
「今日、冊数チェックをしたときに見た。間違いない」
日曜日にやる? つまり、今年の?
まだ予備校では当然、公開されていない……。
「――えっ!!」
「おかしいな……今回の模試は事前実施に関して厳しいから、どの高校も前倒しではやってないはずなのに」
「えーと……」
「前倒しの場合は解答冊子は配られないしね」
「え、つまり? どういうこと?」
頭が混乱する。素直に尋ねると、新川透が簡単に説明してくれた。
予備校では模試の問題は厳重に管理されているし、事前チェックした先生がそんな大事なものを、ましてやコピーを取ってトイレに置きっぱなしにする訳がない。
そして予備校生は当然問題の在りかなんて知らないし、知ってたって鍵がかかる倉庫に置いてあるから手に入れる事なんてできない。
ということは、それをトイレに置いたのは夜に授業を受けに来ている高校生……?
いやいや、あるいは前倒しで受けた高校生から問題を入手した予備校生が、『ミネルヴァ』に解答を依頼して、日曜日に点数を取るために……とか?
そこまで考えてハッとして顔を上げると、新川透も眉間に皺を寄せて厳しい顔をしていた。どうやら同じようなことを考えていたようだ。
「ど……どうしよう?」
「……うーん……」
本当に珍しく、新川透が真面目に考え込んでいる。
こんな悪事に『ミネルヴァ』を利用するなんて、冗談じゃない。
まったく……どういうつもりか知らないけど、絶対に犯人を見つけなきゃ!
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