第7話 お助け女神、降臨

 あれから……まぁ要するにだね、新川透とちょっと気まずくなってから、2日経った。今日は土曜日。

 私の予想通り、『ミネルヴァへのお願い』はちょっとずつ復活してきた。

 ただ、古手川さんの難しい問題も毎日あって、数学と理科は本当に訳がわからなかった。


 古手川さんの『ミネルヴァへのお願い』には、いつも小さくコメントがある。

「いつもありがとうございます」

「本当にごめんなさい」

「やらなくてもいいのかもしれないけど気になって」

……と、勉強熱心だけど内気な女の子が、大っぴらには先生に質問できずミネルヴァを頼っている、という感じなのだ。

 

 私には、やっぱりあの

「私なら、あんな簡単な数学の問題、間違えないもの」

と言い放ったときの印象が強かった。だからプリントの彼女とあまりにもイメージが違い過ぎて、ちょっと混乱した。


 前に見たときの感じだと「古手川さんは頭イイ」「さすがだね!」「これ教えてー」とかなり皆に崇められ、そしてあてにされているみたいだった。

 そして彼女もそれを誇りに思っているようだった。皆に「スゴーい」と言われたい、という欲が強いのかもしれない。承認欲求ってやつだ。

 だから本当は勉強がキツくなってきてるんだけど「わからない」「できない」って言い辛くなってるのかな。そんな中『ミネルヴァ』の話題を出されて動揺したというか、その話はしないでよ、という気持ちが出ちゃったのかな。

 

 多分そんな感じかなあ、とひとまず自分を納得させることにした。あれ以来、友人と一緒にいる彼女を見ていないし、彼女の個人的事情をそこまで気にしても仕方がない。『トイレのミネルヴァ』は聞かれた問題に答えるのみ、なのだ。


 だから彼女の分も持ち帰るだけは持ち帰って、調べられるだけは調べて頑張った。新川透の顔がちらりとよぎったけど……頼らないって約束したし、意地でも質問しなかった。個別補習もなかったしね。

 じゃあ英語や国語はどうかというと、彼女1人分だけでかなりの時間が取られるのは確かだった。他の人の課題が増えるにつれ、『ミネルヴァの宿題』にかかる時間は相当なものになった。


 やっぱり、冷静になってみると新川透は

「『ミネルヴァへのお願い』に時間を取られるようならやめろ」

ということを普通に言いたかっただけかな、とも思うけど……それでも、今となっては後に引けなかった。


 今日、この土曜日の午後に至るまで、新川透とは予備校でも口を利かず、電話もしなかった。

 よく考えたら、8月に知り合ってから初めてのような気がする。でもさ、ごめんなさいって言うのも変じゃない? 私、悪いとは思ってないし。そりゃ、気まずいのは嫌だけどさ。


 そんなことを鬱々と考えながら、黙々とトイレ掃除をしていた。

 職員用の裏階段から7階に上がり、廊下に出ると……遠くで人の気配と微かな話し声が聞こえてきた。


「……えっ!」


 急に、驚いたような男の声が響いた。

 これ……新川弟じゃないのかな? このビビリ声、聞き覚えあるし。 

 うーん、彼は数多のトラブルに見舞われる星の下にでも生まれたのだろうか。気になるな。


 私はそーっとトイレ前の廊下を抜き足差し足で進んだ。そして、話し声の主と思われる二人がいるホール手前で、ピタリと止まる。

 新川弟の話し相手は……古手川さんだった。


「だ、か、ら。私、ちゃんと見たんだから!」

「見間違いだよ……」

「絶対に、違う!」


 そう言うと、彼女はスマホを何やら操作し……水戸黄門の印籠みたいに新川弟の目の前に突き付けた。


「この前の、あの女の子……前に新川くんを追いかけてた女の子じゃない!」


 いっ!? 何だ!? 何が起こってんだ!?

 彼女がどういう写真を新川弟に見せているのかは分からない。でも、まさか……彼女の言う「女の子」って変装した私のことだろうか? だって……新川弟の目が泳ぎまくっている。

 彼の予備校での様子は、普通にクールな落ち着いた青年だ。彼を好きなんだろうねぇ、という女子の取り巻きもいる。

 そんな彼があんな風にキョドるのって、新川透がらみなんだよなあ、絶対……。

 ってことは、それに絡む女の子となると私しか考えられない。


 ……え? いやいや、これは新川透なら相手は私でしょ、とか言ってるんじゃないよ? 現実問題として、多分彼に絡む女は私しかいないだろ、と……。

 あれ? これって同じ意味? いや、違うんだけどなぁ……。


「これって……!」


 彼女のスマホを見るなり、新川弟の顔色が明らかに変わる。

 あああ、古手川さん、勘弁してあげて……。彼は嘘はつけないんです。実はかなりビビリなんです。兄の奴隷なので。


「お前、あのときいたのかよ。盗撮魔がいる、怖いって呼びつけるから、俺……」

「だから陰に隠れてたのよ」

「いや、それ何かおかしいだろ」

「とーにーかーく!」


 古手川さんが痺れを切らしたように大声を出した。


「この女の子、誰!? 8月に初めて見て……あれからどれだけ探しても、この予備校のどこにもいない」

「お前……」

「そしたら急に、現れて。……ねぇ、この子が『ミネルヴァ』なんでしょ!」

「知らねぇよ!」

「知らない訳ないわよ! 最初に『ミネルヴァ』の話をしたの、新川くんじゃない!」


 うわっちゃー! やっぱ古手川さん、賢いわー。数少ない情報で、ちゃんと正解に辿り着いてるもんなー。

 うーん、あのとき、皆が新川透を見てゴタついてる中、彼女だけは新川弟を見てたのか。だから私に気が付いた。

 そういや掲示板の前でも、新川弟に話しかけた時の口調、随分違ったっけ。

 古手川さん、新川弟が好きなのかな。

 で、この『ミネルヴァ』と思われる女の子と新川弟が親しそうだから、嫉妬してる、とか?

 新川弟、どこまでわかって……いや、全然わかってなさそう。


「違うって!」


 どうやら、新川弟は『少女』=『ミネルヴァ』は全否定する作戦のようだ。やっぱり、新川透が怖いんだろうか。

 だよねぇ。どんなお仕置きされるかわからないもんねぇ。心中お察しします。

 この際、それが全部私がらみだってことは横に置いておくけども。


「そいつは……俺の、彼女! まだ高校生なんだよ」

「えっ……」


 ぎょえ――!! ……と叫びそうになるのを、慌てて堪える。

 ちょっとアンタ、自分のことが好きな女の子に対して、そのチョイス!

 多分、一番マズいやつだよ、それ! やっぱわかってないなー、弟よ!!


「……嘘」

「ほんとだって。部外者なのにここに来たからさ。だから絶対にバレたくなくて」


 うわ、『すごく大事な子なんだ』アピールしてます。最悪の方向に向かってるとも知らずに。

 駄目だねぇ、新川弟よ。女の子検定初級、落第。

 それともあれかな、兄がアレだから自己評価がとんでもなく低い、とかなのかな。自分を好きな女子がいる訳ない、とか思っているのかも。

 うんうん、そっちならちょっと気持ちがわかるよー。新川透が私に構う理由、いまだに全然わかんないもんね。

 私はその細っちい腕じゃ全くトキメかないけど、一般的には十分カッコいいと思うよ、新川弟。自信を持って!!


「……じゃあ、会わせてよ」

「え?」

「この子と会わせてよ。何か、おかしいもの!」

「……うーん……」


 あらら……困ってる。困ってるねぇ。

 そうだよねぇ、私に頼むにしたって新川透の許可なしには動けないだろうし。

 うーん、私の勝手な行動でかなり迷惑をかけたみたいだし、ここは一肌、脱いでやるか。


 私はいったん息を潜めて裏階段まで戻ると、今度は大きく鼻歌を歌いながら掃除道具を持ち、廊下をずんずん突き進んだ。

 道具と立札をいったんトイレの前に置き、「あら何か声がしたような……」という体で二人の前に姿を現す。

 新川弟は「げっ」という顔をし、古手川さんは「邪魔が入った」とばかりに舌打ちをした。

 うーん、古手川さん、女の子が舌打ちは止めようよ。可愛くないし、怖いです。


 私は「あら、失礼」と言わんばかりに会釈をすると、そのまま回れ右をした。古手川さんの「必ず連絡してね」と新川弟に強く念を押す声が聞こえた。

 こそっと振り返ると、彼女はそのまま表階段を下りて行ったようだ。新川弟が呆然とした様子で彼女の背中を見送っていた。


 ふむ、とにかく彼女を引き下がらせることには成功したね。

 やれやれ、と安堵の吐息を漏らすと、新川弟がとても嫌そうな顔をしながら私の方に振り返った。

 何なの、その顔。助けてあげたっていうのにさ。


「……またお前か……」

「えーと、お疲れ様です」

「誰のせいだと思ってるんだよ……」

「うーん、私だよねぇ」


 正確には新川透のせいだと思うんだけどね。身内を悪く言うのもどうかと思うしね。

 とにかく、私がどうにかしてあげましょう!


「実は、話はすべて聞かせてもらいました!」

「ええっ!」


 うふふ、この台詞ちょっと言ってみたかった。……って場合じゃないか。

 でも新川弟、ナイスリアクションだぞ。


「彼女設定なんでしょ? 会えばいいんだよね?」

「マジで!? 会うの!?」

「自分で言ったんじゃん……」

「そうだけど……あれ、でも、いいのかな……」


 新川弟はかなり悩んでいるようだ。唸りながら、目がキョロキョロと激しく泳いでいる。

 私、この人のこんな顔ばっかり見てるな。普通にしていれば普通にカッコいいのに。私に関わったせいでそんな顔ばかりさせてごめんね、と申し訳ない気持ちになる。

 いや、そもそもは新川透が諸悪の根源なんだけどね。とは言えやっぱりね。


「透兄に殺される気がするんだよね……」

「ええー? オーバーな!」


 もう、骨の髄まで兄貴の奴隷だなあ、とおかしくなり、私はあっはっはーと笑い飛ばした。しかし肝心の新川弟は、ぷるぷると激しく首を横に振っている。


「お前は知らないだけだよ」

「まぁ、何考えてるかよくわかんないけどね、確かに」

「そういうことじゃなくてさぁ……」

「とにかく」


 まだ何だかモゴモゴ言っている新川弟の言葉を、私はぴしゃっと遮った。

 私も仕事中だしね、これ以上結論の出ない話を繰り返していても時間の無駄。本題に戻りましょう。


「古手川さんの件だけど。私が会う以外に、何かいい案があるの?」

「そりゃ、何も浮かばないけど……」

「じゃあ、決まりね」


 私は胸ポケットから油性マジックを取り出すと、きゅっきゅっと彼の左手の手の平に自分のガラケーの電話番号を書いた。


「な、おい、これ、まさか……」

「私のガラケーの番号。だからショートで連絡……」

「終わった。詰んだ、マジで。死の刻印だ……」

「はあ?」


 何でこう、いちいちオーバーなのかな、新川弟は。本当にハートが弱いったらないわ。

 兄のあの図太さを、少しは見習いなさい。


「とにかく、早めに片を付けたいでしょ? 私は基本、夜6時以降なら大丈夫だから……決まったら連絡して」

「わ、わかった……」


 新川弟は自分の手の平と私の顔を代わる代わる見ると、プルプルしながらも一応首を縦に振った。


 何だか知らないけど、変なことになってきちゃったなあ。

 でも、これもすべて『トイレのミネルヴァ』のせいで、『ミネルヴァ』は私なんだから、やっぱり私が責任を取らないとね、と思う訳です。

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