第8話 さあ、変身よ!

 新川弟からは、日曜日の夜に連絡がきた。

 土曜日の時点で、

「明日の日曜日は古手川、一日中模試なんだ。多分、月曜日の夜になるかな」

と言っていたのだ。

 どうやらその模試のあと、二人で会ったらしい。月曜日の夜7時に、予備校から徒歩10分の緑地公園で会おう、ということになった。

 私の仕事上がりは5時だし、一度アパートに帰って着替えて戻れば、十分に間に合う時間だ。


 勿論、兄貴には内緒なんだよね? と念を押したら、ああ、と答えた。

 月曜日は、新川透は出張だとかで予備校に来ないそうだ。隣県で行われる入試説明会とやらに出かけるらしい。

「でも夕方には戻ってくるはずだぞ。予備校には顔を出さないと思うけど」

と言われた。

 いや別に、いなくて淋しい、とか思った訳じゃありません。そんな慰めチックなものは要らん。

 うーん、新川弟は私と兄の関係をどう思ってるんだろうか。山田さんみたいに、何か勘違いしてるんじゃないかな。


 ただ問題なのは、新川透の個人授業の方だった。いつも7時から9時でお願いしてるから、時間がぶつかってしまう。

 出張で時間が押して間に合わない……なーんてことはないだろうなあ。だったら事前に何か言っていただろうし。

 うーん、ちょっと遅れるって言えばいいかな。それとも、ナシにして、と言った方がいいのか……。

 いずれにしても、今ちょっと気まずいし……あまり前に言うといろいろと探られてバレてしまうかもしれない。

 ギリギリ……6時ぐらいなら大丈夫かな。


 ……って、こんな恐ろしい想像をしてしまうのは、なぜだろう。

 途方もない情報ネットワークを持っている気がして……何と言うか、気が抜けないんだよなぁ。



 そして月曜日。今日も古手川さんから『ミネルヴァの宿題』が来てて、これまたかなりキツーい問題だった。

 よく考えれば、今彼女の頭の中では

  『謎の少女』=『新川弟の彼女』=『ミネルヴァ』

という図式になってるんじゃないだろうか。だとすると、最初に感じた「ミネルヴァが嫌い」が正しいのかもしれない。そして今は「好きな人の彼女」というのが乗っかり、二重に嫌い、ということに……。

 つまり、この異常に難しい課題は、ひょっとしてミネルヴァに対する嫌がらせなんじゃないだろうか。

 だとすると、この古手川課題のために費やした時間が、非常に勿体ない。


「……あれ?」


 ちょっと待てよ。もしそうなら、新川透が「やめとけ」と言った理屈が通る気がするぞ?

 

 …………うっ。

 背筋がゾクッとしたけど……もう今さら考えても仕方がない。

 とりあえず新川弟の彼女役をしっかり全うせねば、と気を引き締めた。


   * * *


 夕方に仕事を上がり、アパートに急いで帰って、変装をする。

 古手川さんが諦められるように、きちんと念入りにメイクして、服やアクセサリーももうちょっと気を遣ってみよう。

 今度は予備校生じゃなくて、現役高校生の彼女。彼のために自分を可愛く見せるのに一生懸命、という役どころな訳だし。


 髪を編み込みなんかしてみたり、マニキュアも塗ってみたりして準備を整える。一通り終えて時計を見ると、6時だった。

 7時に会って、終わった後にアパートに戻ってメイクを落としていつもの格好に戻って……。

 うーん、冷静に考えてみると、遅れるだけじゃすまないなあ。今日は行けない、と言っておいた方がよさそうだ。


 はー、何だかドキドキするなー。何でだろ。

 彼女役をやる緊張、というのとは違う気がする。やっぱり、隠し事をしてるからかなあ。罪悪感、というやつだろうか。

 そうだ、行けない理由を考えよう。私が定時に上がったのは調べればすぐ分かることだし、「残業しました」は通用しない。

 やっぱり恵かな。急に相談があるって言われて、みたいな感じでいけばいいか。


 あー、嘘をつくのか……。ううっ、何か怖いなー。

 じゃあやらなきゃいいのにって? でもさぁ、私のせいで新川弟が困ってるのに、無視することなんてできなかったんだもん。


 私はタブレットを取り出すと、ヘッドセットをした。ドキドキしながら電話をかけると、コール2回ですぐに繋がった。


「もしもし?」

“莉子? どうした?”


 あ、良かった。多分、機嫌はごくごく普通だ。

 よく考えれば、喋るのは4日ぶりだった。気まずかったんだけど、気にしてるのは私だけだったのかな。


「あのね、今はアパートなんだけど……これから恵の家に行くことになったの」

“え?”

「何かね、相談したいことがあるんだって。だから……今日の個別、行けないと思う……」

“ふうん……”


 しばらく押し黙る気配がした。心臓の鼓動が異常に早い。自分の身体の中……耳の奥が、ガンガンする。これ、電話を通じて伝わるんじゃないかと思うくらいだ。

 お願い、神様! どうにかこの嘘が通じますように!!


“……わかった”


 しばしの沈黙のあと、思ったより淡々とした新川透の声が聞こえてきた。

 おお? これって……。


“一応、終わったら電話をくれないか?”

「あ……うん」


 ひゃっほー! やった、スルーだ!! 仁神谷莉子、今日一番のミッションをこなしましたよ!

 はい皆さん、拍手~~!!

 あー、良かった。ホッとした。

 用事が終わって変装さえ解けば、電話連絡なんてどれだけでもするよ。


「……ごめんね」

“いいや? じゃあ”


 意外にあっさりと電話が切れた。

 よーし、よしよし……。ここまでは順調。次は、恵だ。

 私はガラケーを取り出すと、恵に電話した。……でも、出ない。話し中?

 とりあえずもうアパートを出た方がいいし……メールだけ送っておこう。


『今日、恵の相談に乗る設定でアリバイよろしく』


 これでよし、と。

 タブレットとヘッドセット、それとガラケーを鞄にしまい、アパートを出る。

 自転車で……あ、そうか、恵の家に行く設定なら乗ってっちゃダメだ。いつも徒歩だもん。

 まぁ、時間もあるし……歩いても緑地公園までは30分もあれば行ける。

 気を落ち着けるためにも、のんびりと歩いていこう。


 今日はあまりかかとの高くない可愛いデザインの靴。古手川さんはどちらかというと綺麗系だったし、正反対のタイプ、可愛い妹系でまとめてみた。

 彼女が見た、という予備校生バージョンと違う人間に見えるとまずいからそんなに盛る訳にもいかなかったけど、やっぱり「可愛い、負けたわ!」と思ってもらえるようにはしたいしね。

 しかし、大丈夫かなあ。これでちゃんと諦めてくれるだろうか。


 アパートの前の道から左に曲がり、恵の家を通り過ぎる。そして次の角を右に曲がったところで、鞄の中のガラケーが震えた気がした。立ち止まって取り出してみると、確かにチカチカしている。

 恵にメールを送ってたから多分その返事だろう、と何気なく開いてみた。


『無理、手遅れ』


 一瞬、意味がわからなかった。差出人を見ると、確かに恵からだ。

 え? 無理? 手遅れ? どういうこと?


 ちょっと考えてみよう、と顎に手をやった瞬間、さっきからちょこちょこ感じていた『ぞわっ』が津波のように襲ってきた。

 それは――背後から、一気に襲い掛かるように。



「――莉ー子♪」

「ひいぃっ!」


 思わず叫び声が出てしまった。慌てて口元を押さえる。

 あれ? おかしいな? よーく知ってる誰かの声に似てるなー。

 まさかねぇ。だって、わかったって言ったもんねぇ。

 あは、あはは、あはははは……。


 無理矢理そんなことを考えてみたけど、この声と後ろから感じる気配は、間違いなく――。

 走って逃げたい気分だ。だけどやはり、確認せねばならんか……。

 ギギギ……と機械仕掛けの人形のような動きになってしまう。

 とにかく、首……首だけでもね。動かさないと……ね。


 振り返って、まず私の目に飛び込んだのは、強烈な西日だった。一瞬目が眩んだけど、何回もパチパチと瞬きをする。

 道路の脇に止まっている、白い車。オレンジ色の太陽とその車を背に、スマホを片手に持って腕を組み、足を交差させてオシャレに佇む、スーツ姿の一人の男性がいた。

 その足元からは長い影が伸びていて、私の方に向かっている。

 逆光で顔は全く見えない。だけど……この高身長、このバランス、そしてこの腕は……。


「恵ちゃんの家はとっくに通り過ぎたし……」

「は、は……」


 そのとき太陽が雲の向こうに隠れ、その立ちはだかる男の顔が見えた。

 聖人君子ではない、保護者でもない、飼い主でもない――最凶最悪、悪魔モードの新川透。

 うっとりするぐらい綺麗な顔で口の両端を上げてはいるけども……それはまさに、地獄の微笑み。


 ガラケーを持つ手が、ガタガタ震えた。


 いつ? いつからそこにいたの? これはいったいどういう状況?

 車の音なんて、全くしなかったよ。その角で、ずっと待ち構えていたってこと? 


 新川透は、震える私ににっこりと微笑みかける。


「――嘘、確定だよね」

「……っ!!」



 あああ、やっぱり嘘はよくないよねー!

 嫌な予感は、無視しちゃダメだよねー!

 そうだよね、それはよくわかってたんだけどぉ……今日だけは、知りたくなかったなあ!!

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