朝日輝く

朝日輝く

 そのころ使っていた路線は、多摩川を渡るものでした。毎朝毎朝、彼女は朝日と輝く水面に目を焼かれながら通勤していたことになります。しかし彼女がそのことに初めて気づいたのは、就職してから二年ばかり経った、あの朝のことでした。

 昨日と同じ路線、昨日と同じ車両の、おそらくは昨日と同じ位置に立ち、彼女は携帯を見つめていました。NHKのニュースサイトを、指を止めずにスクロールし続けます。政治家の失言の、虐待死の、カワウソの赤ちゃんの誕生の、株価の降下の、見出しが現れては消えてゆきます。見出しの下に付けられた日付が昨日のものになったあたりで、彼女は指を止めました。首をこきんこきんと左右に倒します。昨日はいつもより長めの残業をしたので、ぼんやりした疲れが肩のまわりにつきまとっていました。目を細めて、今度はパズルゲームのアプリを開きます。パズルゲームをしている間は、今日も残業になるであろうことも、ストッキングの太もものあたりが伝線しかかっていることも忘れることができるのです。しかしパズルゲームのアプリは、アップデートしないとアプリが開けないというメッセージを表示してきました。彼女は隣の人に気づかれない程度に細い長いため息をつきました。通信制限のことを考えると、その場でダウンロードするわけにはいかなかったのです。

 電車のスピードが遅くなったかと思うと、がくんと停車しました。彼女がさっきついたため息とほとんど同じくらいの声量で、アナウンスが「……停止信号です……」と呟きます。車体が深呼吸するようにすこし沈みました。

 彼女はなんの考えもなしにつり革を掴み直し、窓の外に目を向けました。電車は橋の途中に止まっているのでした。幅広い川と、それよりさらに幅広い河川敷。川まで何メートルくらいなのかなあ、と彼女はぼんやり考えました。台風が来たら線路が水に浸かったりしないのかしら。当然そんなわけはなく、線路は左右に見える土手よりもずっと高いところを走っています。ジョギングをしている人が豆粒ほどに見えます。犬を連れた人と、野球場を歩いている人に視線をやり、川を渡って反対側の河原へ、そこで、ふと彼女は目を止めました。

 川と河原の間の、草むらの中です。夏の日差しにくすんだ色の草が、人間の背丈より高く生い茂っています。なぜ人間の背丈より高いと分かるかといえば、その草をかき分けながら、一人の男性が歩いているのでした。歩みはゆっくりで、頭痛でもするのか、しきりに頭を振っています。歩みが遅いのは、引きずっている大きな荷物のせいのようでした。鮮やかなオレンジ色のスーツケース。

 いや、スーツケースではありません。それは小柄な人間でした。オレンジ色のワンピースを着た短い髪の女性が、体を折りたたんで、地面を引きずられているのでした。

 彼女は左を見ました。ひげ面の男性がスマホをいじっています。右を見ました。中年女性がスマホをいじっています。その隣もスマホを見ています。その隣も。その隣は見えません。誰も彼女と同じものを見ていません。彼女の心臓が急に速く動きだし、肋骨を乱暴に叩きました。オレンジ色のワンピースの女性は、白い手足を投げ出して、男性に引きずられてゆきます。男性はまた頭を振っています。

 ダッ……タン、という音がして、彼女は内心飛び上がりましたが、体は特に動きませんでした。続いて頭上から「発車いたします……」と声がして、体が揺れました。電車が発車しているのだ、ということに彼女が気づいたころには、その二人は視界の外へ流れ去っていくところでした。

 到着した駅にはWi-Fiが飛んでいました。彼女はまだ心臓がどきどきしているのを感じながら、手に持ったままだった携帯に目をやりました。そして、パズルゲームのアプリを開き、アップデートボタンをタップしました。

 電車が再び動き出す頃には、彼女の心臓は何事もなかったかのように落ち着いていました。アップデートも完了していました。彼女の手はさらにいくつかタップを繰り返し、パズルゲームを開いていました。カラフルなアイコンを二個以上つなぐと消える、制限時間内に消した数を競う、シンプルなものです。見間違いに違いない、と彼女は思いました。だって、見たのはほんの数秒だったはずだし。本当にスーツケースだったかもしれないし。ボーナスステージに入り、彼女の手は熱っぽく動きました。遠くて小さかったし。たん、たたたん、と、画面と指がふれあう音がしっかりと聞こえ、指先に心地よい刺激を感じます。だいたい、あんな人目に付くところで……真上を走る電車から丸見えなところで、人が人を引きずって歩くことがあるはずがない。あったとしても、何か事情があるのだろう、たとえば……ええと、私には想像もつかないような。最後にオレンジ色のアイコンを三つ繋いで消し、「ハイスコア更新!」の文字が躍りました。

 そうこうしているうちに会社の最寄り駅につきました。人の流れに押し出されるようにホームに降りると、上司が前を歩いているのに気がつきました。彼女は慎重に距離を取り、改札内のコンビニに寄ることにしました。誰かが彼女のかかとを踏みました。誰かが彼女の鞄にわざとぶつかりました。そのどちらにも反応せず、彼女は歩き続けました。そうだ、会社に着いたら、シュレッダーのゴミ袋を替えておかなくちゃ。昨日の残業のとき、いっぱいになりかかっているのに気づきながら、替える時間がなかったのです。コンビニに入った彼女を、心底つまらなさそうな「いらっしゃいませ」の声が迎えました。


 そのニュースに接したのは、三日後の金曜日のことでした。残業がほんの少しで済んだことに気をよくした彼女は電車に軽い足取りで乗り込み、「車内中ほどまでお進みください……」というため息に従い、眠る男性が座る席の前に立ちました。ほとんど無意識に開いたツイッターのタイムラインに、友人の愚痴やアニメの画像に並んで、多摩川で女性の遺体が発見された、という文字が並んでいます。

 彼女はまだ何も考えないまま、そのニュースのURLをタップしました。本日午後四時ごろ、人が川に沈んでいるとの通報を受け、警察が駆けつけたところ。NHKのニュースサイトでしたから、読んでいるとアナウンサーの声が聞こえるようでした。遺体は大田区に住む川西沙都子さんと判明しました。また、午後五時頃、川西さんの交際相手の男性が自宅で首をつっているのが見つかり。警察は。彼女はそのあたりで読むのをやめました。午後五時頃、彼女は会議の資料を印刷しているところでした。半分ばかり印刷したところで会議の延期が伝えられ、彼女は印刷だけしておこうと思いましたが、上司にそんなのは後でいいと怒鳴られ、素直に取りやめました。そのおかげで残業はしなくて済みました。そのおかげで、外はまだ明るく、電車はいま、多摩川にさしかかっています。

 パトカーが見えました。彼女は自分が立っているのが、三日前の朝と同じ車両なのか確かめようとしましたが、何をどう考えてみれば確認できるのか分かりませんでした。ドラマで見るのと同じ、ニュースで見るのと同じ、立ち入り禁止の黄色いテープ。紺色の作業着を着た警察官たちが、腰まで水に浸かって川底をさらっています。隣に立っている男性が、少し身を乗り出すようにしてそれを見ているのが分かりました。電車は数秒で多摩川を渡りきり、パトカーも警察官も見えなくなりました。

 彼女は次の駅で降りました。

 ベンチに座って、去って行く電車を眺めていて初めて、さっきまで乗っていたのは最後尾の車両だったことが分かりました。毎日同じ位置に立って電車を待っているのに、それに気づいたことはありませんでした。

 不意に吐き気を覚えて、彼女は鞄を抱いてうずくまりました。彼女の頭をかすめるように、誰かが前を横切っていきます。彼女が少しだけ視線を上げると、濃い灰色のスーツを着た男性が早足で過ぎ去っていくところでした。左手にはスポーツ新聞、靴はぴかぴかに磨かれているのに鞄は傷だらけ、薬指には銀色の指輪。半分ほどが白くなった頭髪を短く刈り込んで、怒ったように肩を左右に揺らして歩いていきます。若い母親と未就学であろう女の子が手を繋いで歩いてきます。女の子は母親の手を振りながら、いやだいやだいやだいやだ、と繰り返していますが、母親は取り合いません。母親の耳にはシンプルな真珠のピアス、女の子の背負う鞄は昔ながらの高価な子供向けブランドのもの、外は晴れて、涼しく、背中に当たる陽光だけが熱く、彼女は、自分が東を向いているのに気がつきました。多摩川はもう見えません。

 彼女は頭の中で、乗り換え駅での自分の動作をゆっくり再生してみました。そして自分が毎日東南向きの窓に向かって立っていることを、きちんと考えて、理解しました。そしてあの日、あの男性を見たとき、自分が眩しくて目を細めていたことを、朝日にぎらぎら輝く水面を、眩しく見つめていたことを、思い出しました。そして今朝もそうして眩しく思ったはずなのに、それに気づかなかったことを。あれを見たのは自分の思い違いではなかったこと、それを自分は見て見ぬふりをしたということ、ニュースで言われていることはどこかで本当に起こったことなのだということ。自分が世界に生きているのだ、世界と自分は無関係ではないのだということを、彼女は二十五年ほどの人生の中で、生まれて初めて知ったのでした。



     *


 そこまで語り終えて、その人は薄く微笑んだ。私はしばらくまばたきだけを続けていたが、なんとか「……そして?」と尋ねた。

「そして、彼女は生まれ変わったんです。自分が世界のすべてに見て見ぬふりをしていたのに恥じて、自分がどっちを向いて立っているのかも知らなかったことを恥じて。次の週には会社に辞表を出して、児童虐待防止団体に飛び込みました。それから先は、あなたもご存知のとおりです。私は別人のように一生懸命働きました」

 目の前にいるその人は、私のもっとも尊敬する女性の一人だった。主に児童虐待、それも性的虐待の実態を暴き、その撲滅に尽力する一方、四人の子供を内縁のパートナーとともに育て上げた。その全員が様々な分野の第一線で活躍している。その小柄でかわいらしい外見からは想像もつかない力強い語り口が支持され、海外のスピーチ番組に呼ばれた時の映像は、その番組内でトップテンに入る再生回数を記録した。国からも長年の功績が認められ、褒章が授与されている。そして六十五歳で後進に道を譲ってから二十年近くが経ち、今、彼女はこの施設で体の痛みを取りながら残された時間を過ごしていた。

 最後のインタビューだと思っています、とその人は最初に言った。私はうなずき、彼女の最後のインタビュアーになれるなんて光栄だと、張り切って質問を投げかけた。彼女も車いすから半ば身を乗り出すようにして熱心に答えてくれた。

 そして、何度も聞かれたかもしれませんが、と前置きしてから、「二十代で団体に入るまではごくごく普通の会社員だった、と強調されていますよね。どうして変わることができたんでしょうか?」と投げかけると、彼女はふと遠くを見てから、「もう最後だし、あなたになら話してもいいかもしれません。今まで誰にも話したことはないのだけど」と静かに言い、そして、その話を始めたのだった。彼女が見た殺人のことを。

「ああ……その直後の話で言えば、もちろん警察に連絡して、見たままのことを話しました。正直に、自分が見たものに自信がなくて通報できなかったと告白したら、よくあることだと言われましたよ。でも自分を許すことはできなかった。私がすぐ通報していたら、被害者の女性は冷たい水の底で何日も沈んでいなかったかもしれない。加害者が自死を選ぶ前に警察が彼を説得できたかもしれない。そう思えばね」

「それでなぜ……児童虐待だったんでしょう?」

 我ながら間抜けな質問だったが、彼女は微笑んで答えた。「この世に見て見ぬふりをされているものたちはたくさんありますが、その中でももっとも他人の手助けを必要としているひとたちの味方になりたかったのです。でもまあ、何でもよかったのですよ。世界と自分が地続きであることに気づいたのなら、世界の抱える問題のすべてが自分の問題になるのですから。今でも私は、飢餓や環境汚染や人種差別に対して自分が何もしてこなかったことに、叫び出しそうなほど辛い気持ちになることがあります」

 私は黙り込んだ。自分が何を聞きたかったのか忘れかけていた。言葉が出てこない様子を悟って、彼女は車いすを動かして私に近づき、手を取った。「ごめんなさいね、こんなこと話して。今の話を書いてもいいし、書かなくてもいいんですよ。似たようなことは何度も聞かれていて、そのたびに違う話をしてきましたから。でも今のが本当、本当の話です。私の人生の中で最も重要な記憶です」

 それからしばらくの間、私と彼女は手を取り合ったまま、窓の外の新緑を眺めていた。「東向きのお部屋を選んだんですよ」と彼女は言った。「朝日が昇ってくるのを見るのが何より好きなんです。子供たちを育てている間、私はよく、夜明けが一番の救いのように感じていましたよ」

 気を取り直してインタビューの続きをして、もう一度握手をしてから、私と彼女は別れた。個室のドアを閉め、深呼吸をすると、オレンジ色のスカートの女性が歩み寄ってきた。インタビューの前に部屋に案内してくれた、彼女の孫の一人だ。

「お疲れさまでした。どうでしたか?」

「ええ、とても……興味深い話を聞けました」

 私が一瞬ためらうような仕草を見せたのを、その女性は感じ取ったようだった。女性は意味ありげに微笑んで、「入り口までご一緒しましょう」と私を促した。

「あのお話を聞かれたのでしょう?」

「……あの?」と私は慎重に答えた。女性はそんな私がおかしかったのかアハハと快活に笑って、「殺人の話ですよ。多摩川の話。あのひと、気に入った相手には結構よく話すんですよ。まあ、八十を過ぎてから急に話すようになったんですけど」

 私は拍子抜けした。誰にも言ったことがないというのは嘘だったのか。私が「それは……騙されちゃいましたね」とおどけて言うと、女性は笑みを浮かべたまま、「どう思います?」と聞いてきた。

「どう……まあ、驚きましたけど」

「そうじゃなくて、多摩川の話です。田園都市線から見えるようなところに、しかも早朝といったってせいぜい朝の七時に、死体を遺棄しますかね? それが三日も見つからないなんて?」

 それは私も同じ事を考えていた。しかし語り口があまりにも確信に満ちていたので、疑うというほどの気持ちにならなかったのだ。「数十年前のことでしょう。思い違いもあるんじゃないですか、もっとずっと早朝だとか、田園都市線じゃなくて……いや、多摩川じゃなくてもっと小さい川とか……」と私が言うと、女性は大きく首を振った。肩で切りそろえられた黒髪が私の二の腕をかすめる。

「調べてみたことがあるんです。それがね、確かにその年、多摩川で死体遺棄事件があったんですよ。たしかに二子玉川の駅のそばで、それなりに話題になったみたいです」

「へえ……」

 でもね、と女性は言葉を続けた。「見つかったのは高架よりいくらか上流です。上流ってことは、西側ですよ」

 私はしばらくそれについて考えてみた。私の中で、まばゆい朝日が水面に反射する光景は、思いの外強く焼き付けられていた。自分がどちらを向いて立っているのかも知らなかった、と彼女は言っていた。私の歩みは知らず遅くなった。女性は笑みを絶やさずに、「ねえ、どう思います?」と聞いてくる。

 私はその顔を見つめた。高めのヒールを履いている私と比べるとずいぶん背が低い。一重まぶたの目尻に赤っぽいアイシャドウを引いていて、それがよく映えていた。この女性は、次女の娘のはずだ。次女は国会議員で、次の選挙に向けて演説する姿をこの間テレビで見たばかりだ。発色のいい化粧は悪意にこそ似合う、と私は思った。

「……あなたは……どう思うんですか」

 尋ね返すと、女性は唇をちょっとつきだした。

「私が言いたいのはね」と女性は足を止めた。いつのまにか施設の入り口までやってきていた。広い庭に植えられたケヤキの葉が眩しく輝いていた。「誰が何を見たかなんて、誰にも分からないということですよ、何を……認識したかなんてね」

 私は会釈して建物を出た。数十年前のその日と同じ、強い日差しが私の首筋を焼いた。門のところで振り返ると、女性はまだ私を見ていた。あのオレンジ色のスカートは、わざと履いているに違いない、と私は思った。

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