黄金の月
遊星族
第1話
時に西暦1690年、今から330年前、月は突然、黄金になった。
魔神の仕業だったらしい。
もし魔神が月を黄金に変えなかったなら、アイザック・ニュートンは後半生を錬金術なんぞに捧げる事なく、科学の発展に更なる貢献をしてくれたはずだ。
数多の科学者はそう言って地団駄を踏んだ。
そう言えば月が黄金に変わった事を世界で初めて発表したのは、アイザック・ニュートンだった。
彼は運動方程式からその結論を導いた。
それ以前彼は、月の直径から導き出される月の体積と、月の運動から導き出される月の質量を既に算出していた。そして質量と体積が分かれば、その密度は簡単に割り出せる。
そしてある日突然、地球に異変が起き、月は
潮の満ち引きは今までと比べ物にならないほど大きくなった。
諸々の事情を勘案したアイザック・ニュートンは、こう結論付けた。
月の密度が黄金と同じ値になったと。
そして彼は悟った。
少なくとも以前の月と同じ物質なら、それを黄金に変える事は可能――すなわち、錬金術は可能である事を。
以来アイザック・ニュートンは錬金術に没頭するようになった。
時は少しばかり遡る。
ヨーロッパのとある国に一人の男がいた。
貧しく、いつも金に困っていたその男は、いつか大金持ちになる日が来る事を夢見ながら、毎日のように窓の外の夜空を眺めていた。
この日もいつものように窓を開け、夜空を眺めていた男は、金色に輝く満月と彼の手の上のくすんだ一枚の銅貨を見比べながら、もう片方の手を月に向かって伸ばした。そうすれば、あの光り輝く金貨のような満月が、その手の中に収まるような気がして。
「ちょっと、その手邪魔だから引っ込めて貰えませんかね?」
窓の外に突如見知らぬ大男が現れ男に注意した。男は慌てて伸ばした手を引っ込めると、すぐさま目を擦った。男の記憶に間違いが無ければここは3階のはずで、いくら目の前の大男が男の2倍ほどの身長だったとしても、とうてい地面に足が届くはずはないからだ。
そして事実大男は空中に浮いていた。大男の足元に視線を移した男は、そのまま口をぽっかり開け、暫く目を擦り続けているしかなかった。
「あっ、あっ、あの……あなた何者なのですか?」
男は大男に向けて質問をした。
「いや、なに、単なる通りすがりの魔神ですよ。それ以上でも以下でもなく」
大男は答えた。そしてついでにこう男に尋ねた。
「つかぬ事をお聞きしますが、この近くにロンドンって町はありますかね? 結構有名な町らしいんですが」
男の知るロンドンは唯一つ。それは海の向こう、イングランドの大都市の名だった。
「ロンドンならイングランドの大都市ですよ。まあ僕は生まれてこの方、一度も行った事はありませんが。しかし聞くところによると、それはそれはとても大きな町だそうですよ」
果たしてこの答えで本当に良かったのか。男は言い終えた後、少しばかり不安になった。
「イングランド!」
魔神は驚いたように叫び声を上げた。
すぐさま男の背中に緊張が走った。
自分は何かまずい事を言ったんじゃないのか?
そんな思いで頭がいっぱいになった。
「って、海の向こうじゃないですか!」
魔神の様子に男は些か面食らった。
魔神は何かに落胆したかのように、溜息まじりに背を丸めていた。
「実は私、海を渡るのは少しばかり苦手でしてね。いえね、私の能力を以ってすれば海を渡る事など造作もないのですが、何と言うか、得も言えない心理的抵抗感があるんですよ。分かります? やろうと思えば出来るんでしょうけど、何故かいまいち気が乗らないと言いますか。何故か心の奥底から叫び声が聞こえて来るんですよ。海を渡っちゃいけないとね。だから出来れば、海を渡らずにこの仕事をさっさと済ませたいところなんですよ」
男は魔神が何を言いたいのかさっぱり分からなかった。
「いやあ、正直言っちゃいましょう。実は私、ある方に召還されましてね。とてつもなく複雑な魔方陣使って。こう言うと物凄く自慢気に聞こえるかも知れませんが、私、どんな願いでも一つだけ叶える事が出来るんですよ。で、ついちょっと自慢気味に言ってしまったんですよ。私を召還した記念に、一つだけどんな願いでも叶えてやろうって。で、私を召喚した人なんですがね、それならってある人の存在をこの世から消し去ってくれって言い出しましてね。その人の名は残念ながらここではお教え出来ませんが。私、後悔しましたよ。そりゃあ私の力を以ってすれば、人間一人ぐらい存在を無かった事にするなんて朝飯前なんですがね……あっ、これ別に自分の能力を自慢してるわけじゃないですよ。あくまで客観的事実を述べてるだけですから……話を戻しますと、朝飯前ではあるんですが、まさか初対面の魔神に向かって、いきなりそんな物騒な願い事をするとは正直思ってませんでしたから。最初はやんわりした願い事から始まって、徐々にディープな願い事に発展して行くってのがマナーってもんでしょ? まあ、願い事は一つしか叶えませんがね。それでですね、私、私を召喚した人に言ってやったんですよ。おたくの願い事を叶えるには、まず相手の方がどんな人物なのか、実際この目で見なければいけないって。本当はそれ嘘なんですけど。その人の目の前で、相手の方の存在を無かった事に出来たんですけどね。でも、せめて本人に事情ぐらい説明しないと後味悪いじゃないですか。だからつい嘘をついちゃったんですよ。それでその人、それならその目で相手の方を見て来いって。その上でその方の存在をこの世から消し去ってくれって。いやあ、二人の間にどんな事情があったのかは全く想像も出来ませんがね、なんとも嫌な願い事を引き受けちゃったなと思いながら、その方の住むというロンドンという町を捜し歩いていたんですよ。そしたら丁度目の前に、あなたの手が伸びてまして」
男は何とも嫌な気分になった。そんな物騒な話を、この魔神は何で自分の胸にだけしまっておかずに、見ず知らずの自分に打ち明けてしまうのだと。男にとって、人様の間の込み入った事情など知った事ではないし、そのうちの一方の存在をこれから消しに行くんですよ、なんて事をさも不本意そうに打ち明けられたところで、男にそんな不幸を止められる術などありはしない。だからこれから世界のどこかで起きるであろう不幸を、男は知りたくなどなかった。
「それで一つ相談なんですがね、あなたが私に願いを言ってくれませんかね。勿論、誰かの存在を無かった事にしてくれなんてのは無しで。いえね、私って、一回の呼び出しで叶えられる願いは一つだけなんですよ。だから理論上は、私を召喚した人の願いを叶える前にあなたの願いを叶えてしまえば、最初の物騒な願いはキャンセル出来るって寸法なんですよ。だいたい私、ただでさえ海を渡るの苦手なんですよ。更に追い打ちを掛けるように、一人の人間の存在を無かった事にするだなんて、そんな仕事、とてもじゃないけど気が滅入ってやる気になるわけないじゃないですか。だからどうか、人助けだと思ってお願いしますよ。物騒な願いじゃ無けりゃ、何でも構いませんから。一つ、何か願って頂けませんかね? 悪いようにはしませんから」
男はポカンと口を開けていた。目の前の魔神が言った事が、暫くの間、理解できなかったからだ。やがて男の脳裏で魔神の言葉が意味を持ち始めて……
「ね、願いを! あなたが私の願いを叶えて下さると!」
それ以上何か言おうとしても、男には言葉が続かず、ただ口をパクパクさせていた。
「勿論ですとも! 但し物騒な願いは無しにしてくださいよ。だって仕事の後は、いい仕事したなって、うまい酒でも飲みたいじゃないですか。だからさあ、その辺を考慮してどうか願いを言ってください。何なりと願いを。あっ、繰り返し言いますが、物騒な願い事だけは無しですよ。あっ、それと海を渡れってのも」
どんな願いも叶えてくれる。目の前の魔神は確かにそう言った。男の願いは唯一つだった。あの、夜空に輝く満月のように光り輝く黄金を手に入れる事。男は今まで、何度も何度もその夢を見て来た。決して手に届かぬ夢を。しかし男の夢はついに叶う。満月のように光り輝く黄金は、ついに男の手に届くのである。
男は胸を高鳴らせ、絞り出すような声で願いを口にした。
「あ、あの、夜空に輝く満月のような黄金を僕にください」
そう言い終えた途端、男は不安になった。
急に自分のような貧しい身分の者には
しかし魔神は満面の笑みを湛えると
「何と素晴らしい願いでしょう! いえね、実は私、少しばかり不安だったんですよ。あなたが誰かを消してくれなんて願い事をしてしまうんじゃないかって。でも良かった! あなたは見事に私の期待に応えてくださいました! それなら私も、ここは奮発して、あなたの願いを盛大に叶える事といたしましょう。あなたの願いは夜空に輝く満月のような黄金でしたね。それならば、今の私に出来る限りの、超特大の黄金をあなたに差し上げましょう!」
そう言いながら、男の前で両手を大きく広げた。
次いで、精神統一するかのように目を閉じた。
すると周囲が霧に包まれたように真っ白になった。
暫くすると霧が晴れ、男が目の当たりにしたのは、先程より遥かに眩く輝く満月だった。
「さあ、あの夜空に輝く黄金は、これからはあなたの物です」
「へ?」
男は素っ頓狂な声を上げた。
「私、大奮発して、あの月を黄金に変えましてね。いやあ、大変でしたよ、色々と。何しろ質量が、今までの月のおよそ5.8倍になっちゃいましたから。宇宙の至る所から増えた質量に相当するエネルギーを掻き集めて、更に元素を変換して……って、まあ、こちらの話ですから、お気になさらずに。あとサービスで運動量も増やしておきました。地球に対する公転周期が今までと同じになるようね。その代わり、軌道長半径が少しばかり大きくなっちゃいましたが、まあそれはご
そう言い残すと、ポカンと口を開けたままの男の目の前で、魔神は霧のように消え去った。
男は莫大な黄金を手に入れた。
地球の質量の7%にも相当する莫大な量の黄金を。
それは有史以来、
しかしその黄金は、相変わらず男の手には届かなかった。
それから300年以上の時が流れた。
あの夜、世界一の大金持ちになった男は、間もなく財団を作った。
男の財産は全て財団の物になった。
世界一大金持ちの財団だった。
それも当然だ。何しろ地球の質量の7%にも相当する量の黄金の持ち主なのだから、世界一の大金持ちでないはずがなかった。
問題は、その黄金をどうやって地球に持ち込むかだった。
かつてロケットで月から黄金を持ち帰る計画が立てられた。
しかしその計画はとん挫した。
月に着陸して戻って来るのが著しく困難だったからだ。
月が黄金になった所為で、月面の重力が地球上の重力と同程度になってしまった。
おかげで月の重力を振り切るには、地球の重力を振り切るのと同じくらい莫大な燃料が必要だったのである。
その燃料を月面まで持ち込む為には、どれだけ巨大なロケットが必要なのか?
宇宙開発競争が過熱する中で、宇宙開発先進国と呼ばれるいくつかの国々がその課題に取り組んだ。
そして最後にはどの国も
それがあまりにも馬鹿げた挑戦だと悟ったからである。
もし月が黄金に変わらなかったなら、人類は今頃、月にその偉大な一歩を記していただろう。
数多の科学者はそう言って地団駄を踏んだ。
男が作った財団には、もう一つの称号があった。
世界一の借金王との称号が。
月が黄金に変わったおかげで、世界中に様々な異変が襲い掛かった。
最たるものは、干満の差が非常に大きくなった事だ。
1日2回水没し、1日2回干上がる。そんな場所が海岸付近に増えた。
中には海岸から遠く離れた内陸部でも、そんな現象が起こった。
更に夜、眩しくて眠れなくなる者が続出した。
全ては黄金の月の所有者の責任だという事で、財団は莫大な損害賠償を請求されたのである。
とは言え、手元に現金はなかったので、財団は月の黄金を担保に銀行から金を借りて賠償金を支払った。
そのような事が300年以上続き、財団の借金は積もりに積もった。
世界中の他の借金を全て集めても、その足元にも及ばぬほどの莫大な額の借金を財団は背負っていた。
しかし財団には地球の質量の7%にも相当する黄金があったから、借金などその価値に比べれば微々たるものだった。
21世紀現在、世界のGDPの殆どは財団の支払う賠償金と財団が銀行に支払う利息によって成り立っていた。
そしてその原資も月の黄金を担保にした新たな借り入れだった。
財団は結果的に莫大な量のお金を市場に供給した。
おかげで世界経済は数百年間不況知らずだった。
もし月が黄金に変わらなかったなら、デフレというものを目の当たりに出来たのにと言って、数多の経済学者は地団駄を踏んだ。
財団は今でも月から黄金を持ち帰る夢を諦めない。
借金などものともせず、ロケット開発に勤しんでいる。
しかし果たして、それが成功したとして、その先に何が待ち受けているのか?
地球上の黄金の量が増えれば、当然その価格は下落する。
仮にロケットの打ち上げ費用より、持ち帰る黄金の価格の方が高かったとしても、その価格が下がればいずれコスト割れを起こしてしまう。
更なる黄金を持ち帰ろうとするなら、より安いロケットを開発する必要がある。
しかし例えそれに成功したとしても、地球上の黄金が増えれば、更に黄金の価格は下落する。
だから更に安いロケットの開発が必要になる。
結局はそのいたちごっこが待ち受けているだけだ。
だから月から黄金を持ち帰るなんて夢は諦めよう。
地球上の黄金の価格が上がれば上がるほど、黄金の月の資産価値も高まるのだから。
かつて黄金を手に入れる前、男は夜空に輝く月をただ眺めていた。
届きそうで届かない、その金色の輝きを。
330年経った今でもそれは変わらない。
更に輝きを増した金色は、今も手に届かぬままだった。
そしていつか気付くだろう。
夜空に輝く黄金は、手に届かないからこそ最大の価値を保ち続けるのだと。
黄金の月 遊星族 @U_Star_Clan
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