空谷の跫音

 今日は、そういう日か。とても静かな、静まりきった部屋で佐藤はため息をついた。この感覚を何と言おうか。定期的に来るこの虚脱感のような、単なる気だるさではない何か。細やかな絶望であって、不幸と呼ぶには少し違う。早い話、彼にはこの気持ちが分からないのだ。これを気持ちと言うのか、それさえ分からない。得体が知れない。病名も無い。故に対処できない。どうしていいのか全く分からないのだ。こんな時、今まではどうしていただろう。

 ある日は酒を飲んで意識を飛ばし、ある日は夜中に抜け出して散歩して、ある日は自分に痛みを与える。今までこうやってやり過ごしてきた。これらをすればきれいさっぱり消えていくような簡単なものでは無いが、恐らくは時間が解決するのではないだろうか。その時間が濃密であまりに長く感じるからもどかしいのだけれど。

 時計の指針の事は一度忘れるとして、自分の中の時間なんてものは遅く進むほど永遠に近付く。でも彼の知る永遠は必ず、苦痛でしかなかった。

 つまりはこの感覚は永遠の苦痛と名付けるのが適切なのかもしれない。何度か終えているのに、永遠。矛盾している。でもしっくりくる。

 さあ、考えも尽きてきた。佐藤は一度考えるのを止めた。おもむろにスマホに手を伸ばす。動画サイトを開いて、適当なものを再生した。…。数秒眺めてやはり一時停止した。つまらないんじゃない。こんな事でこの感覚は騙せない。

 最悪だ。死んでしまおうか。佐藤は自虐的に笑う。途端に一人きりの部屋でひとりでに笑う自分を想像して気持ちが悪くもなった。きっと酷い顔をしていただろう。

想像は安易にできた。そして想像して浮かんだそれはやはり気味が悪かった。

 佐藤はその後も色々試して、最終的には酒を飲んで寝てしまおうとした。

 したのだが、出来なかった。窓の方に誰かいる。佐藤はゆっくりと窓に近寄ったが、その間決して窓ガラスを直視はしなかった。夜中で部屋に明かりが点いているということは窓ガラスには自分が映る。見たくなかった。こんな時に更に気分が悪くなるだろうから。佐藤は斜めから窓の外を見ようとするが、外の様子は良く分からない。少なくとも人がいるようには見えない。

 ノックした。聞こえた。確かに、誰かいる。心臓が早く動く。音が喉の辺りで聞こえている気がしたくらいだ。自分は今、興奮しているのだと認めざる負えなかった。ただこの興奮がどういう種類のものかは定かではない。一つ分かるのは、危険を感じている事くらいだ。佐藤は慎重に考える。

 普通なら窓を開けないのが一番平和なのだろう。佐藤は怖がりで、それを自覚している。臆病な彼が、この窓を開けるはずないのだ。好奇心より恐怖が勝る。

 

 だが、今の彼は少し違った。自暴自棄。自害こそ出来ない彼だが、運命に身を任せてみることになんら抵抗が無かった。例えば窓越しの誰かが殺人犯でも、それはそれでいい。恐らくはその後、酷い後悔をして死ぬまでの痛みを知ることになるのだから。その時を考えれば恐怖感は凄まじい。でもそれさえ越えれば生きる必要が無くなるのだ。楽になれる。今の彼にはそれくらいしか考えることが無くなっていた。自分で死ねないから、運命が殺してくれないから生きていた。彼にとって、死ぬこと自体は目標地点でしかなかった。

 死ねないから生きるなんてのは、結構いかれた話だ。


 佐藤は再び自嘲的に笑う。なんの躊躇もなく窓を開けた。この先に居る誰かが殺人犯なんて事は無い。何故なら、彼は知っているからだ。

 自分が想像したことは全て起こらない。良い事も悪い事も。


 だから窓を開けた。その先には誰も居ないという結末だとばかり思っていた。彼は心底驚いた。瞬時に腕を掴まれ、何者か知らない男に噛まれたのだ。その男が吸血鬼だと直ぐに分かった。佐藤にはそれが面白かった。血を吸われて少し心地いいくらいの気分で、小さく笑った。意識が朦朧とする。でも自分が笑ってしまったことは分かる。

 吸血鬼なんて、想像も出来なかった。























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