第11話 すごく、すごく好き

  * * * *



 幸いというか、なんというか。

 ぐちゃぐちゃの姿で電車に乗る必要は、マンションを出てすぐになくなった。


「え……」


 それに気づけたのは、奇跡に近いかもしれない。

 私の部屋からでも見える、公園とは名ばかりのこぢんまりとした休憩スペース。

 ひとつだけ置いてあるベンチには人が座っていて。

 自動販売機の光に照らし出された顔は、とても、よく見知ったもので。


 人違いなはずがない。見間違えるわけがない。

 だって、ずっとずっと、好きで、好きで。

 こんなにも、会いたいという思いで胸がいっぱいになってしまう人だから。


「きうち、くん……?」


 独り言にも近い呟きに、彼は身じろぎひとつしなかった。

 ただ、静かにこちらを見ていた。


「どうして、ここに?」


 漠然とした不安を覚えつつ、ひとまずは一番の疑問を投げかける。

 この周辺は住宅地で、私以外に木内くんの知り合いが住んでいるという話も聞いたことはない。

 私に用があったと考えるのが一般的だろうけれど、それなら家は目と鼻の先。こんなところにいる理由にはならない。


「……連絡、なかったから」


 ぽつり、と木内くんは抑揚のない声でそう呟いて。

 小さく息をついてから、顔をうつむけて片手で覆い隠してしまった。


「いや、当然なんだけど、わかっては、いたんだけど。でも、万一何かあったらって、思って、気づいたら……引き返してて」


 淡々と。切々と。

 真逆の印象を覚える不安定な声音は、彼自身の揺らぎを感じさせた。

 木内くんという人の輪郭があやふやになって、夜の闇に溶けていってしまいそうだ。


「電気が、ついてなかったから、家に帰ったのかもわからなくて。あんな話のあとに、連絡とかも、できなくて。心配なんて、する資格ないんだけど、でも……なんか、動けなくて」


 力ない声が、かすかに震えているように聞こえた。

 嘘でも聞き取りやすいとは言えない声をすべてもらさないように、私はゆっくり距離を詰めていく。

 今、彼はどんな表情をしているんだろうか。

 どうしたら、彼は顔を上げてくれるだろうか。


「もしかして……一日中?」

「……ごめん」


 答えになっていないけれど、その謝罪は紛れもない答えだった。

 よく見れば、木内くんは昨日と同じ服装で、あごにはうっすらヒゲも生えていた。

 以前、お泊まりをした朝に興味本位で触れた、ザラリとしたヒゲの感触。

 こんなときだというのに不意に思い出してしまって、妙にいたたまれない気持ちになる。


「ごめんっていうか、えっと」

「こんな、ストーカーみたいな……」


 木内くんはさらにうつむいて身を縮こまらせる。見ないでくれ、と弱々しく拒絶するように。

 対して、私の頭の中は疑問符でいっぱいだ。

 ストーカー? 木内くんが、私の?

 たしかに、よく知らない人が同じ行動をしたなら、気味が悪いし警戒もするだろう。

 それでも、逆ならともかく、木内くんとストーカーという言葉がまったく結びつかない。


 連絡とは、いつも木内くんを駅まで送るときの条件だった帰宅連絡のことだろう。

 昨日の状況で連絡できる人間がいたら驚きだけれど、それのせいで心配させてしまったなら申し訳なくも思う。

 だからといって、丸一日こんなところにいたのは、さすがに心配性の度を越している気もした。


「心配してくれたの?」

「……うん」


 あんな状況で。

 連絡しなくても当然だとわかっていながら。

 それでも、万一があったらと思って。

 丸一日、私の無事を確認するためだけに、こんな何もないところで。


「それは、友だちとして? 妹みたいな存在として? 傷つけてしまった人として?」


 木内くんは答えなかった。

 答えなかったから、私の心は性懲りもなく夢を見ようとしている。

 今度は、ありえないものでなければいいと思いながら。


「私、期待してもいい……?」


 家を飛び出す直前。

 お揃いのマグカップに、木内くんからの贈り物の数々にもらった、希望の種。

 初めて見る弱りきった姿が、それになみなみと水を注いでくれる。


「あ、あの、私ね!」


 残りの距離を詰めて、木内くんの手を取る。

 かさついた手がビクッと跳ねても、構わずぎゅっと握りしめた。

 顔を上げた木内くんとしっかり目を合わせて。


「私……木内くんが好きなの」


 震える声で、変わらない気持ちを告げた。


「すごく、すごく好きで……だから、私にもまだ、少しでも望みがあるなら……一緒に、いたい」


 緊張で喉がつっかえて、途切れ途切れになりながらもどうにか言い切った。

 木内くんがどうして私と付き合っていたのかはわからない。

 それでも、木内くんは最初からずっと私に優しかった。

 私の知っている木内くんは、理由もなく嘘をついたり、人の気持ちをもてあそんだりする人じゃない。

 だから……これまで積み重ねてきたものすべてが偽りだったなんて、どうしても思えなかった。


「少しでも望みがあるなら、って。そんなの、俺の……」


 くしゃり、と木内くんの表情が歪む。

 言葉にできない感情がそのまま表に出たような複雑な顔は、当然今まで見たことのないもので。

 どこか、泣き出す一瞬前の赤ん坊みたいだと思った。


「俺は、ずっと未涼を騙してたんだ」

「私の知ってる木内くんは、人を騙して平然としてるような人じゃない」

「未涼が知らないだけだ」


 たしかに私は、木内くんのことを全然知らなかったのかもしれない。

 木内くんが私に見せようとしているものしか、見ようとしていなかった。

 でも、もしこれからも一緒にいたいと望むなら、それだけじゃダメなんだろう。

 私のためにも、彼のためにも。


「それなら、教えて? 私の知らない木内くんを知りたい」

「……ただの、言い訳になる」

「うん。言い訳でもなんでも、木内くんの言葉なら聞きたい」


 自然と、私はそう告げていた。

 ついさっきまで家で悶々と考えていたような、自分をごまかすため、ではなくて。

 何を聞いても、私の気持ちは変わらないという確信があるから。


「……最初は、本当に偶然だったんだ」


 観念するように息をついて、木内くんは語り始めた。

 出会ったのは多恵ちゃんよりも私のほうが早かったんだと。

 私と同じ電車に乗っていたのも、しつけ糸に気づいたのも、そこから始まった友人関係も多恵ちゃんとはまったく関係なかったらしい。

 多恵ちゃんのことは、私と話すようになって少しした頃、学校で見かけたときに一目惚れをして。

 名前も知らなかったから、私の話に出てくる『幼なじみで親友の多恵ちゃん』と同一人物だとは思いもしなくて、後日一緒にいるところを見てすごく驚いたんだとか。


 多恵ちゃんとは私以外の接点はなくて、ただ見ているだけの恋。

 何も知らない私の話に多恵ちゃんが登場するのを、後ろめたさを覚えながらも密かに楽しみにしていたらしい。

 そうしてある日、私の口から多恵ちゃんと幸太さんが付き合い始めたことを聞いて……。

 何も始まらないうちに、木内くんは失恋した。


 ぽつりぽつりと語られる過去の話を、木内くんの隣に座ってじっくりと聞く。

 多恵ちゃんへの想いを聞けば、やっぱり嫉妬で少し胸が苦しくなる。

 それでも、嘘偽りない彼の本心であるなら、ひとつだって取りこぼしたくなかった。


「私のお友だちだって知って、紹介してもらおうとは思わなかった?」

「……友だちを利用するのは嫌だった」


 顔をしかめながら答える木内くんとは対照的に、ついつい私の頬はゆるんでしまう。

 友だちとしてでも、ちゃんと大事にしてくれていたことがうれしい。

 そして、やっぱりなぁ、と私は確信を深める。

 やっぱり木内くんは優しくて、誠実で、私の知っているとおりの人で。

 もちろん、それが彼のすべてではないだろうけれど。

 そんな木内くんだから、好きになった。


「なのに、結局俺は未涼を利用したんだ。告白されたとき、考えてしまった。未涼は大事な友だちだったから……付き合ったら、小川さんよりも好きになれるかもしれないって。苦しいだけの恋を、終わらせられるんじゃないか、って……」


 木内くんはさらに背を丸めて、また顔を隠してしまった。

 どこか吐き捨てるような口振りは、心底自分を軽蔑しているように聞こえた。

 彼にとって私の告白は、溺れているところに垂らされた一本の藁だったんだろう。手を伸ばさずにはいられなかったんだろう。

 それを利己的だと突っぱねられるほど、私も正しい選択ばかりしてきたわけじゃない。

 好きになれるかも、と思ってもらえたのはむしろ光栄なことだと思う。

 私のために自分を責める彼が痛ましくて、いとおしい。 


「未涼の傍は心地よかった。一緒にいると呼吸が楽だった。未涼が笑ってくれるから、未涼が幸せそうだから、勝手に許されてるような気持ちになったりして……そんなわけ、ないのに」


 声の震えはひどくなるばかりで、泣いていないだろうかと心配になる。

 もし、私が今、許すよと言ったなら。

 木内くんは顔を上げてくれるんだろうか。


「未涼が、大事になればなるほど、怖くなった。俺の小川さんへの気持ちを知ったらどう思われるだろうって。きっと軽蔑されるだろうって。嫌われたくない、ずっと傍にいてほしい、未涼の……すべてが欲しい。とか、身勝手な願望ばかりで」


 はあ、と木内くんは一度大きく息をつく。

 そして。


「そんな自分に……ようやく、小川さんよりも未涼のことを好きになっていることに気づいた」

「え……」


 ぱちり、と私は目をまたたかせた。


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