第10話 ばか、だなぁ……

  * * * *



 次の日、私は生まれて初めて授業をサボった。

 泣きすぎで体調も絶不調だったことを思えば、単純なサボりとも少し違うかもしれないけれど、小心者の私にとっては大事件だ。

 それでも、外に出るどころかベッドから出る気にもなれなかった。

 何もしたくない、と心の底から思ったのも生まれて初めての経験だ。

 指一本動かすのもおっくうで、私は泣き虫な芋虫になっていた。


 夜になって、ようやくもそもそと動き出したのは、単純にお腹がすいたからだった。

 朝から何も口にすることなくぐずぐずと泣き続けていたから、水分も取らないと倒れてしまうだろう。

 自分で自分を管理しないといけない一人暮らしは、満足に傷心に浸ることもできない。

 実家は気軽に帰れる距離とはいえ、失恋で親を頼るのはさすがに恥ずかしいし情けなさすぎる。


 キッチンに立って、冷凍ごはんを解凍する。何を作る気にもなれなかったから、棚の奥からお茶漬けの素を発掘した。

 お湯を沸かすならと、気分転換にノンカフェインのハーブティーでも淹れようと茶葉を選ぶ。

 食べ合わせがひどいのは気にしないことにする。

 ……どうせ、誰のために淹れるわけでもないんだから。

 そんなことを考えてしまって、またじわりと目に涙が浮かんでくる。

 どれだけ泣いたところで、木内くんのことを頭から追い出すことはできないようだ。


 お茶の準備をしていたら、キッチンに持ってきていたスマホが震えだした。

 茶葉の袋を取り落とす勢いで、バッとスマホに飛びつく。

 ついで、表示されている名前に肩を落とした。


「ごめん、多恵ちゃん。どうかした?」


 少し気持ちを落ち着けてから、電話を取る。

 この『ごめん』は遅くなったことだけじゃなく、がっかりしてしまったことへの謝罪もこっそり含めた。


『どうかした? はこっちの台詞。今日、講義出なかったって聞いたんだけど、何かあった?』

「あ、う、うん……ちょっと調子が悪くて」


 私は慌てて適当な言い訳を口にする。

 多恵ちゃんの出る講義がない日だからと油断していたけれど、共通の知人から話が伝わる可能性にまでは考えが及んでいなかった。


『……風邪? 声もひどいね。看病に行こっか?』

「だ、大丈夫! 一日寝ればよくなると思う」

『ならいいんだけど……悪化したら、遠慮なんてしないでちゃんと言いなさいよね。みぃほど料理上手じゃないけど、私だってお粥くらいなら作れるから』

「あ、あり、がとう……」


 そうすることが当然のように向けられた優しさに、声が詰まってしまった。

 多恵ちゃんはいつだって与える側の人間だ。

 周りを笑顔にするのが得意で、困っている人は放っておけない。

 少しお節介なくらいあたたかい、自慢の親友。

 そんな多恵ちゃんだから、きっと……木内くんも。


『……みぃ。本当に、大丈夫?』


 多恵ちゃんは声のトーンを落として、慎重に問いかけてきた。

 私の反応で何かを察知してしまったようだ。


「えっと、あの。だいじょうぶ、じゃない部分も、あるんだけど」

『何それ』

「まだ……うまく言えないから。ごめん」


 心配はかけたくない。でも、嘘も言いたくない。

 何より、まだ言葉にできるほど私の中でも整理ができていない。

 ぐちゃぐちゃな感情をそのまま多恵ちゃんにぶつけたところで、きっと死ぬほど後悔するだけだ。


『ん、わかった。みぃが言いたくなったら聞くから』

「ありがと、たえちゃん……」

『まあ、あんまり考えすぎないようにね』


 多恵ちゃんは軽い調子でそう告げて、通話は終了した。

 あっさりと引いてくれたのは、私の混乱具合を察してのことだろう。

 心から、本当に心から感謝している。

 でも。


「……私、多恵ちゃんになりたかった」


 ぽつりとこぼした声は、思っていたよりもキッチンに大きく響く。

 多恵ちゃんは自慢の親友だ。きっと誰よりも私が多恵ちゃんの魅力を知っている。

 木内くんが好きになるのも当然だと思う自分もいる。

 だからって、心は簡単に納得してはくれなくて。今まで憧れと誇らしさしか感じたことのなかった親友に、初めて嫉妬してしまった。

 大事な親友に対して、こんな醜い感情を抱いてしまう自分に嫌悪を覚える。

 それでも、考えずにはいられない。


 多恵ちゃんになりたかった。

 木内くんに、好きになってもらえる人になりたかった。


――指輪、欲しい?


 ふいに木内くんの声がよみがえってきて、またじわりと涙がにじむ。

 あの言葉にも、きっと深い意味なんてなかった。

 木内くんなりの、同情に似た優しさだったのかもしれない。

 もしかしたら、多恵ちゃんの彼氏さんへの対抗心も含まれていたのかもしれない。


 指輪が欲しかったわけじゃない。

 ただ、確かなかたちが羨ましかった。

 一緒にいられるだけでしあわせで、木内くんの優しさもちゃんと感じていた。

 それでも、愛されているという、実感が欲しかった。

 ……今思えば、なんて的外れな望みを抱いていたんだろう。


「ばか、だなぁ……」


 通話が切れて暗くなった画面に、泣きそうな顔が映り込んでいる。

 今日一日、ベッドで芋虫になりながら、それでも未練がましく手元に携帯を置いていた。

 けれど……電話もメッセージも、木内くんからは何も届かない。

 それが、きっと彼の無言の答えなんだろう。


 何も言い訳しない潔さはとても木内くんらしい。

 それでも私は、どんな理由でもいいから聞きたかった。

 そうすれば自分をごまかすことができるのに、なんて浅ましいことを考えてしまう。

 今だって、彼と変わらず一緒にいられる理由を探している。


 ピーーーッ!! と甲高い音が響いて、私ははっと我に返った。

 たっぷりと水を入れていたヤカンが沸騰を知らせる音だ。

 お湯であたためたティーポットに、レモンバームの茶葉を適量入れる。沸騰したお湯を勢いよく注いで、躍る茶葉を確認してから、蒸らし時間でお茶漬けの準備も終わらせる。

 お湯は食べる直前にかけることにして、食器棚からカップを持ってくる。

 無意識に手に取ったマグカップは、丸みを帯びた、よく手になじむもので。


――……大事に、してくれてるんだな、って。


 オレンジ色の、シンプルなマグカップ。

 お付き合いを初めてすぐ、木内くんが買ってくれた、色違いでお揃いのもの。

 うんうんと悩む私を、優しく見守ってくれていた。

 それでも決められずにいたら、選ぶのを手伝ってくれた。

 やさしくてあたたかい、ふたりだけの思い出。


 私はゆっくりと家の中を見渡す。

 キッチンには、誕生日に贈ってくれたかわいいデザインのオーブントースター。

 部屋の片隅の本棚に、一緒に見た感動映画のパンフレット。

 ベッドの端に横たわっている、手触りのいい恐竜のクッション。

 木内くんからもらった、かたちのあるもの。

 指輪じゃなくても、身につけるものではなくても。

 いっぱい、いっぱい残っていた。


 たまらない気持ちがわき上がってきて、胸がぎゅうっと苦しくなる。

 昨夜の、ごめん、という小さな声。頬に触れたただただ優しいぬくもり。

 あのときはこれ以上傷つきたくなくて逃げてしまったけれど。

 何か、とても大事なことを見落としている気がしてきた。 


 目の前には、淹れたばかりのハーブティーと、お湯をかける前のお茶漬けがある。

 昨日のままの服はベッドでしわだらけになっていたし、一日中泣いていたから顔はぐちゃぐちゃだ。

 ご飯を食べて、お風呂に入って、ちゃんと着替えなければと理性は告げる。

 それでも、私はカバンと携帯を持って家を飛び出した。



 今すぐ、木内くんに会いたかった。


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