第9話 きっと、後悔するよ
* * * *
明日は一限からだから、と木内くんはいつもより少し早めに私の家を出た。
外はすっかり日が落ちて、ほてった頬を風が撫でていく。
普通に歩けば十分もかからない最寄り駅までの距離を、木内くんと並んでゆっくり進む。
駅まで木内くんを送るのは、私の家に遊びに来たときの決まりだ。
立場が逆だとか帰りは一人になるから危険だとか色々と言われたけれど、少しでも一緒にいたかった私はこれだけは譲らなかった。
普段、あまり意地を張らない私のわがままに、木内くんはいくつか注文をつけつつも最終的に折れてくれた。
木内くんと別れたらまっすぐ帰ること。必ず明るい大通りを通ること。帰ったらすぐに連絡を入れること。
多少の誤差や万一の充電切れなども考慮に入れて、二十分以上経っても連絡がなければ引き返してくるからと。
年の離れた妹弟がいる木内くんは、私相手でも面倒見がよくて、とても心配性だ。
そうやって心配されることも、大事にされているようでうれしい。
元はといえば私のわがままだから、申し訳なくも思うけれど。
こういう性分だから、と言われてしまえば、あとに残るのは甘やかなくすぐったさだけだった。
「あ、のね……」
次の角を曲がって少し行けば、もう駅が見えてきてしまう。
このままではいけないと口を開くと、馬鹿みたいに声が震えた。
『あいつずっと片思いしてたんだよ』
『みーさん以外に仲のいい女子なんていなかったよ』
今日、木内くんとデートしながら。
何度も、何度も、脳内で繰り返し再生された森くんの声。
森くんの勘違いかもしれない。相手は私じゃないかもしれない。
それでも、聞いてしまった話をなかったことにはどうしてもできなくて。
疑問を疑問のままにしておくことも、やっぱりできそうになくて。
「……高校生のときに」
木内くんは、優しいから。
唐突の質問にも、きっと答えてくれるだろうと。
顔を見て話すほどの勇気は持てず、半歩先を歩く木内くんの足を目で追いながら、私は続ける。
「木内くんに好きな人がいたって、森くんが、言ってて」
ピタリと、視線の先の木内くんの足が動きを止めた。
自然と私も立ち止まって、うつむいたまま深呼吸をする。
「それ、あのっ、だ、誰か……聞いても、いい……?」
答えを聞くのが怖いけれど、それと同じくらい期待もしている。
今、木内くんはどんな顔をしているだろう。
知りたいような、知りたくないような。
爆発しそうな音を立てている胸を押さえながら、ぎゅうっと目をつぶった。
「きっと、後悔するよ」
その声は、とても静かで。
涼やかなものだった。
「……え」
思わず、私は顔を上げた。
まっすぐに私を映す瞳と正面からぶつかって、反射的に腰が引ける。
木内くんは感情をどこかに忘れてきてしまったかのように真顔で、妙な緊迫感を身にまとっていた。
「あの、別に、私のことだったらいいなって思ってたわけじゃないし……」
気まずい空気をどうにかしたくて、私はへらりと笑ってみせた。
後悔する、と木内くんは言った。
それなら木内くんの答えはまず間違いなく私のことではないんだろう。
ほら、やっぱり。
そんな諦めとはまた別に、落胆している自分に気づいてしまう。
「ううん、ごめん……ほんとはちょっと、思ってた。……自惚れちゃって、恥ずかしいな」
本当に、恥ずかしい。
同じくらいの期待だなんて、嘘八百もいいところ。
もちろん、不安もあった。でも、それ以上に期待していた。
だって、森くんの言う通りだったから。
高校生時代の木内くんに、私よりも仲のいい女友だちはいなかった。少なくとも、学校内では。
だから……厚かましくも、思い上がってしまった。
木内くんは、ずっと前から私と同じ気持ちだったんだって。
そんな、ありえない夢を見てしまったんだ。
「ご、ごめ、あの、今日は……わたし、ここで……」
ちょうど駅もすぐそこだ。私は来た道を戻ろうと、半歩後ろへ下がる。
木内くんの顔をまっすぐ見られない。
いつもなら一分一秒でも引き延ばしたい木内くんとの時間を、今は一刻も早く終わらせたくて仕方ない。
これ以上一緒にいたら、もっとみっともない姿を晒してしまいそうだった。
「小川さんだよ」
「? 多恵ちゃんが、何……」
さらりと。
まるで、昨日の夕食を告げるように。
木内くんが告げた名前は私もよく知っているもので、文脈を読み取れずに小首を傾げる。
「俺の、好きだった人」
彼はあくまでいつも通りだった。
表情のない顔も、色のない声も、私を見下ろす淡く優しい瞳も。
本当に、いつも通りだったからこそ。
その声を、言葉として飲み込むまでに、どれだけの時間を要したか。
木内くんは、多恵ちゃんを……私の親友を、好きだった。
それは、つまり――。
理解した瞬間、氷のような沈黙は弾けるように砕け散って、私の口からは妙な声がもれた。
声になり損なった、嗚咽のようなひしゃげた音だった。
ああ、そうか。そう、かぁ……。
ほろほろと冷たいものが頬を伝い落ちていく。
それは涙としか呼べない代物で、けれど私にとっては何年も大事に抱えて磨いてきた恋の欠片のように思えた。
好きな人の友だちと仲良くなる理由はなんだろう。
告白を受ける理由は、今までお付き合いを続けていた理由はなんだろう。
もちろん、木内くんがそんな打算で動くような人じゃないことは知っている。
自分の欲のために平気で他人を傷つけられるような人じゃない。
もしそんな人だったら、最初から好きになっていない。
何かしら事情があることくらい、言われなくてもわかっている。
でも、だからって全部が全部偶然だったと思えるほど、盲目にもなれなかった。
こんなの、ばかみたいだ。
ばかみたいに浮かれて、期待して。
ばかみたいに、ずっと、ずっと。
ずっと――ひとり相撲みたいな恋をしていた、なんて。
「未涼……」
涼やかな声が、どこかうかがうように私の名前を紡ぐ。
涙で歪んだ視界では彼の表情は見えないけれど、心配しているときと同じ響きを持っている気がした。
傷つけてしまったことを、気遣ってくれているんだろうか。
木内くんは、とても優しくて、あたたかい人だから。
……それなら、ずっと、永遠に。
優しい嘘をつき通してくれればよかったのに、と。
そんなことを考えてしまう自分が、最高にみじめだった。
「……ごめん」
木内くんは小さな声で謝って、そっと、私の頬に指をすべらせた。
涼やかな、それでいて、一等やさしい声。
大事に大事に、少しでも力を入れたら壊れてしまう宝物を扱うように触れてくれる手。
でも、それは――私のためのものじゃなかった。
優しいてのひらから逃げるように、私はさっと身を引く。
そのまま背を向けて、彼の口から何か発せられる前に駆けだした。
これ以上、傷を深めたくはなかったから。
……そんなの、もう手遅れでしかないかもしれないけれど。
ふと、私はなぜか、多恵ちゃんのしあわせそうな笑顔を思い出した。
彼女の左手の薬指で輝く、きれいな指輪の存在も。
アクセサリーを贈ってくれなかったのは、かたちに残したくなかったから?
そんなことに思い至ってしまって、私はますます涙が止まらなくなった。
そうして、気づけばひとりの家に帰り着いていて。
その日、私は初めて木内くんに帰宅連絡をしなかった。
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