第8話 うん、よく見える
* * * *
左胸。お腹。頭。もしかすると指先。
心臓の場所がわからなくなるほど、全身がドキドキしている。
最寄り駅から私の家までの道のりが、ジェットコースターの降下直前のなだらかな斜面のように思えた。
今日はご飯を一緒に食べるだけの予定だった。
二人とも、明日も講義があるからだ。木内くんにいたっては一限目から入っているらしい。
だから、昼食のあとは自然と解散になるんだろうなと思っていた。少しの寂しさも感じながら。
もしそのあとも一緒にいられるとしても、別のカフェに入るか、ウィンドウショッピングをするか、その程度しか考えていなかった。
でも、どうやら私は、何かしらのスイッチを押してしまったらしい。
「未涼」
「ふあっ」
……めちゃくちゃ変な声が出た。
くすくすと笑う木内くんの振動が、つないだ手を通して伝わってくる。
恥ずかしすぎて頭から火を噴きそうだ。
いたたまれなさとくすぎったさを同時に感じる。
心の置き場がわからなくて、さっきからずっと、もぞもぞと落ち着かない状態が続いていた。
「そんなに意識されると、やりにくい」
「ご、ごめん……」
「謝ることじゃないけど」
木内くんは、うっすらと苦い笑みを浮かべた。
いい加減、呆れられてしまっただろうか、と少し泣きそうな気持ちになってくる。
別に、付き合って三年目ともなれば、そういうことは初めてじゃない。
木内くんとの関係が深まったのは、付き合い始めて一年ほど経った頃だった。
それが早いのか遅いのか私にはわからなかったけれど、多恵ちゃんには大事にされてるねって優しく笑われた。
実際、大事にしてもらっていると思う。
木内くんの手はとても慎重に、丁寧に私に触れる。
少しずつ、少しずつ、私の戸惑いも羞恥心も全部そっとほどいてくれる。
「嫌がることは、しないから」
そんな、優しい言葉をかけてくれる。
だから私も、自然と首を横に振っていた。
「いやじゃ、ないよ」
手をつながれたときと同じようなことしか言えないのは、語彙力の少なさよりも単純に緊張のせいだろう。
それでも、私の気持ちはちゃんと木内くんに伝わったらしい。
微かにゆるまった表情と、瞳の奥に宿る熱がそれを教えてくれる。
それから家に着くまで、私はとてもがんばったと思う。
いつも通りをがんばった。なんでもないふりをがんばった。
まだ明るいし、もしかしたら木内くんはただ家でまったりしたいだけかもしれない。そんなふうに自分をごまかしながら。
考えてみると、私はいつもこんな感じだ。
違うかもしれない、なんて思いながら、心の奥底では望んでいる。予想して、期待している。
そう、森くんから聞いた話のことだって。
片思いの相手が私だったら、どれほどしあわせなことだろうと、考えずにはいられない。
「未涼」
部屋に入って、カバンを下ろして、冷房をつけて。
さてお茶でも淹れようかというところで、木内くんは静かに私を呼んだ。
「は、はい……」
思わず敬語で答えて、ゆっくり振り返る。
木内くんの瞳の奥底には、先ほどと変わらず炙られそうな熱が秘められていた。
違うかもしれない、なんて。本当はわかっていたのに。
いつも木内くんを見ているから。ほんのちょっとの表情の変化も読み取れるくらい見ていたから。
今さら、私が木内くんの遠回しなお誘いを取りこぼすわけがないのだ。
「あ、あの、ね」
「うん」
「外……まだ、あの、」
「うん」
「あかる、くて、カーテン、その……」
情けないほど声が震えて、うまく言葉が紡げない。
一目惚れして買った小花柄のカーテンは、あまり遮光性が高くない。
夏も近い今、おやつの時間を少し過ぎたくらいでは、窓の外はまだまだ昼と変わらない明るさだ。
これまで、夜にしかそういうことがなかったわけじゃない。それでも比率は圧倒的で、いつも以上の羞恥心が邪魔をする。
だんだんとうつむいていく私を、木内くんはすくい上げるように両手で頬を包んだ。
そうして、かすかに笑みまで浮かべてみせて。
「うん、よく見える」
その言葉通り、彼はまっすぐ私を映していた。
少しこわいくらい、おとこのひとの目で。
その瞳を向けられるたびに、心臓が壊れてしまうんじゃないかというほどドキドキする。
逃げられない、ととっさに思う。
逃げるつもりなんて、最初からないくせに。
観念するように瞳を閉じると、唇に優しい熱が降ってきた。
大好きな人のぬくもりは、ゆるやかに、確実に私を溶かしていく。
木内くんは私に不満はないのかな、といつも考えてしまう。
容姿はいたって平凡で、女性らしい身体つきでもないし、男の人が喜ぶようなことは何も知らない。
こういう行為に関して、私はすぐに照れが先行してしまう。木内くんに色々と我慢させてしまってないか、心配になる。
なのに、木内くんは最初から最後まで優しい。
いっそもどかしくなるほどに。
「きうち、く」
「……名前」
待って、と言うつもりでこぼれた呼び名に、すかさず訂正が入った。
動きの鈍い脳みそが咀嚼するより前に、また唇が重なる。
足の力が抜けていく私を支えながら、木内くんは自然にベッドへと誘導する。
気づけばいつのまにか彼を見上げる体勢になっていて。
私はぼんやりとした頭で、なまえ、と少し遅れて木内くんの要求を思い出した。
「りょう、くん……」
最初に知ったとき、いつか呼んでみたいと思った名前。
運命と呼ぶにはささやかすぎる縁を感じる名前は、いざ口にしようとすると妙に気恥ずかしくて。
それよりももっと恥ずかしいことをする、こういうときくらいしか呼べないんだと、木内くんが知ったら笑われてしまうだろうか。
木内くんは、付き合い始めてすぐに名前を呼んでくれるようになったのに。
それが、本当に本当にうれしかったのに。
「……うん」
ふわりと、木内くんはわたあめのように柔らかくて甘い笑みを浮かべた。
彼にしては珍しい、明らかな表情の変化。
言葉はなくても、たったそれだけで痛いほど胸はドキドキして、泣きたくなる。
指先から、表情から、私を呼ぶ声から。木内くんのすべてから感じる。
彼の優しさと……愛情を。
大事にしてもらっている。とても。
だから、きっと。
彼は、応えてくれるだろう。
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