第7話 俺も、放っておけなかったから

  * * * *



 お昼は、女性にも人気な居酒屋さんのランチにした。

 私も木内くんも、どちらかといえば洋食より和食のほうが好きだからだ。

 木内くんは天ぷら御膳と小うどんのセット、私はお刺身と日替わり小鉢二種のレディースセット。

 前から気になっていたお店だったけれど、お刺身は新鮮だったし小鉢は優しい味付けで、期待していた以上においしかった。

 店内の雰囲気もよかったと思う。こぢんまりとした二名用の個室はなんだか秘密基地のようで、親密でまったりとした時間を過ごせた。


「また、来たいね」


 お店を出たところで、私は木内くんにそう笑いかけた。

 さりげなさを装いながらも、実は心臓がバクバクと鳴っている。


「……そうだな」


 ふっ、と木内くんもやわらかな笑みをこぼす。

 それだけで、じんわりと胸に喜びが広がっていく。

 小さな小さな口約束だ。指輪みたいな拘束力はなくて、形に残るものでもない。

 でも、木内くんの未来に当たり前のように存在しているという事実が、うれしくて仕方ない。


「あ、」


 和やかに微笑み合っていたら、木内くんは何かに気づいたように目を見開いた。

 その視線は私の襟元に向けられていて。

 首を傾げる私に、木内くんは手を伸ばして、襟元のフリルを軽く引っ張って見せてくれた。


「あっ……こぼしちゃってる」


 下ろしたばかりの白い服に、じわりと広がっている薄墨のようなシミ。

 たぶん、正体はレディースセットの小鉢、がんもどきのひじき煮だろう。味がしみていておいしかったけれど、もっと注意しながら食べればよかった。

 カーディガンを羽織っても隠れない襟元にこぼすなんて、とことんついてない。

 少し泣きそうな気持ちになっていると、くっと木内くんは私の手を引いた。


「近くに公園があるから、そこでシミ抜きしよう」


 そう言って、私の返事を待たずに歩き出す。

 手を引かれるがままにおとなしくついて行くと、ものの数分で緑いっぱいの公園にたどり着いた。

 奥に美術館のある森林公園は、華美さはないもののこの近辺のデートスポットのひとつとして挙げられている。かく言う私たちもこれが初めてではなかった。

 青々とした芝生と、咲き始めの白い紫陽花が目に眩しい。以前、秋に来たときとはまったく違う光景に、少しだけ気分が浮上する。


 木内くんの足取りには迷いがなく、すぐに水飲み場にたどり着いた。

 正直、私はこの公園に水飲み場があったことすら覚えていなかったから、木内くんの記憶力はすごいと思う。

 デートのとき、それだけ私には木内くんしか見えていないということかもしれないけれど。


「ごめんね……ありがとう」

「いや、これくらい別に」


 ぼそぼそとお礼を言う私に、木内くんは視線を上げることなく答える。

 彼の手には水で濡らしたハンカチ。フリル部分を挟み込んで、ポンポンと軽く叩くようにしてシミを取っていく。

 男子学生とは思えない手際のよさに、尊敬やら情けなさやら恥ずかしさやらが入り交じって、どんな顔をしたらいいのかわからない。

 自分でやると言ったのに、未涼からじゃ見えにくいだろと却下されてしまった。

 たしかにその通りではあるけれど、彼氏にシミ抜きしてもらう彼女の気持ちを木内くんは考えてくれているんだろうか。

 さらに恥ずかしいのは、これが今に始まったことじゃないからだ。


「本当、木内くんには助けてもらってばっかりだね。折りたたみ傘貸してくれたり、上着貸してくれたり、絆創膏くれたり、酔い止め薬ももらったことあるし……」


 弟妹の面倒を見慣れている木内くんのカバンの中は、まるで四次元ポケットだ。

『意外としっかりしてるのに、妙なところが抜けてる』と多恵ちゃんに言われる私は、用意周到な道具の数々と木内くんの惜しみない優しさに、これまで何度も助けられてきた。

 ……お世話されてきた、とも言うかもしれない。


「多恵ちゃんに前、彼氏だか保護者だかわかんないねってからかわれたことあったけど、否定できないなぁ……」

「……さすがに、保護者までは」

「あ、変な意味じゃなくてね。それだけ私がいつもお世話になってるから」


 苦いものを食べたようにかすかに眉をひそめた木内くんに、私は慌てて弁解する。


「高校生のとき、ボタンつけてくれたこともあったよね」


 あれは三年の夏頃だったと思う。

 電車通学中、木内くんは私のワイシャツの第二ボタンが取れかけていることに気づいてくれた。

 もう糸が引っかかっているだけという感じで、完全に取れてしまえば肌着が見えてしまう位置だった。


 あとから考えれば、学校で体操着に着替えてから誰かに道具を借りてボタンをつけるとか、色々やりようはあった。

 でも、そのときの私は少しも冷静じゃない頭で、つい目の前の男子を頼ってしまった。

 木内くんの四次元ポケットの中にはソーイングセットが入っている。

 それを知っていた当時の私は、彼が天の助けのように見えてしまったのだ。


 他でもない片思いの相手に何をやっているんだろうと、今でも思い出すたび頭を抱えたくなる。

 必死に頼み込む私に面倒がることもなく、駅の片隅で器用にボタンを付け直してくれた木内くんの優しさと心の広さには本当に感謝しかない。


「あのときは、いろんな意味で緊張した」

「いろんな意味?」

「ボタンの位置的に。刺さらないかとか……手が、当たらないかとか」


 ためらいがちに告げられた言葉に、ぼっと顔から火を噴きそうになった。

 ワイシャツの第二ボタン。取れたら肌着が見える位置。

 つまりは当然、胸元ということで。

 着たままの状態で直してもらったんだから、木内くんの手がだいぶきわどい位置にあったことなんて考えるまでもない。

 今の今までそのことに思い至らなかった自分の馬鹿さ加減に本気で呆れてしまう。


 正直なところ、お願いするときはボタンが取れてしまったときの被害しか考えていなかった。

 直してもらっている最中は、危機を脱したことに安堵しながら木内くんの手際のよさに見惚れていた。

 そしてそのあとは、図々しすぎる頼み事をしてしまった後悔で頭がいっぱいだった。

 ……本当の本当に、何をやっているんだろう。


「ご、ごめんね……っ」

「いや……」


 木内くんの否定にも力がない。それが余計に羞恥心をあおる。

 何年も前の愚行を今になって目の前に突きつけられるなんて、想像もしていなかった。


 恥ずかしすぎて視界がぐるぐると回る感覚がする。

 ぎゅうっと目をつぶって、恥ずかしすぎる過去を頭から追い出そうと試みるものの、あまり効果はなかった。

 このまま気を失ってしまえたらどれだけいいだろうか。

 そんなことを考えていると、ぽんぽん、と優しく頭を撫でられた。


「……俺も、放っておけなかったから。未涼から頼まれなくても、きっとどうにかしただろうし。謝ることなんてない」


 目を開ければ、いつのまにかシミ抜きは終わっていたようだ。

 木内くんは心配そうな顔で私を見下ろしている。

 口下手な木内くんが、死ぬほど恥ずかしがっている私のために言葉を尽くしてくれたのがわかった。


 ずっと、ずっと。付き合う前から、付き合ってからも。

 木内くんは私に優しくて、私を大事にしてくれる。

 私に限らず、困っている人を放っておけない人だって知っている。

 だからこそ、好きだなぁ、と何度だって惚れ直してしまう。


「木内くんらしい。本当に面倒見がいいよね」

「まあ、慣れてるから」

「木内くんの弟くんと妹さんがうらやましいなぁ」

「うらやましい?」

「私、一人っ子だから。優しいお兄ちゃんが欲しかったなって」


 木内くんのような兄がいたら、私は間違いなくブラコンになっていただろう。

『お兄ちゃんと結婚する』なんて本気で言っていたかもしれない。

 意味のない妄想でしかないのに、なんだか楽しくてくすくすと笑ってしまう。


 そんなことを考えていたから、木内くんの気配に気づくのが遅れてしまった。

 私の肩に手を置いた木内くんは、そっと屈んで、


「お兄ちゃん、でいいの?」


 吐息のような声が、すぐ耳元で聞こえた。

 ざわりという感覚に私は肩を震わせる。

 それが、寒気だとか恐れだとか、そういった類のものじゃないことはもちろんわかっている。

 シミ抜きのために距離は元々近かったけれど、つい一瞬前までとはまったく空気が違う。

 いつもは涼やかな声に、たしかな甘さが含まれていたのは、私の気のせいではないはずだ。


「……よくない」


 私は心のままに、ふるふると首を横に振る。

 うらやましいと言いながら、少しもお兄ちゃんらしくない空気をまとう木内くんに心臓が早鐘を打つ。

 愚直な鼓動は彼にも聞こえてしまっているかもしれない。

 おそるおそる木内くんを見上げれば、私を映す瞳は少しも“涼やか”ではなかった。


「……家、行っていい?」


 その問いの意味がわからないほど、私も子どもじゃない。

 こくん、と小さく頷くことで応えた。



 熱を増した視線に、ひときわ大きく鼓動が跳ねた。

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