008

 目的地には正午になる前に到着した。

 駅舎からすぐ近くに海が見えた。

 駅前の定食屋で昼食を済ませ、あてもなく街を歩く。

 脇道に入った途端、圧迫感を感じる。

 道は狭く、背の低い建物は一様にくすんでいる。海が見えなくなった代わり、建物の背後に鬱蒼とした木々の深緑が見え隠れする。山が近い。

 無人に見える家々の中に、博物館と書かれた建物を見つける。

 ひと昔前に流行したある作家の原稿や遺品を展示しているらしい。

 ほかの建物と同じく背の低い館の外観は、作家が生きていた時代のけばけばしい扇情的なポスターで飾りつけられている。装われた古臭さのせいで、寂れた街並みから少しだけ浮いて見える。

 おれと春歌のどちらから言い出すでもなく、館内に入っていく。

 数百円の入館料を老いた管理人に支払う。

 おれたちの他に来館者はいない。

 作家は典型的な商業作家だった。館の外観に貼られたポスターが象徴するような、人の恐怖や情欲を直接的に煽る物語が彼の売りだった。活躍の中心は首都で、この街は出身地というわけではなく、デビューする以前に働いていた職場があったのだという。作品の舞台としても扱われているが、それは殺人鬼や変態たちが棲む、おどろおどろしい虚構の街としてだ。彼の作品は現実から遊離していた。彼は土地や人間関係、歴史から切り離されていく大衆の欲望とつきあい続けた。登場人物たちは皆、この世と関わりのない執着に身を滅ぼした。


 沿岸の遊歩道から眺めた海は凪いでいる。

 途方もない体積の水の塊。水面の下では、おれたちとまったく違う形状のものが蠢いている。

 ある学者は、海の向こうに祖先の故郷があると述べたらしい。

 ふと、おれたちがやってきた方を振り返る。

 もちろん、おれたちが住んでいる街の、あの山はとても見えない。

 山には死者の魂が昇っていき、ひとつになるのだと聞く。山は聖域なのだ。それだけではただの空虚な幻想だ。あの山は柴を得るための場所だった。銀や銅、石灰石が採れる鉱山でもあったらしい。つまり周辺の居住民にとってのエネルギー源だった。人々の生活に資するからこそ強い宗教性を有していた。

 唐突に春歌が振り返る。

「冬馬くん。ずっと昔、ある貴族が鬼とすごろくをして、勝利と引き換えに美しいお嫁さんを貰いましたって話、知ってる?」

「知ってる。その女は鬼の魔法でつくられていて、未完成ということで一定期間は触ることを禁止されていた。けれど、その貴族は我慢できずにその禁を破り、女は水になって流れてしまった……」

「お坊さんが、魔法で人をつくった話は?」

「知ってるよ。遠くに離れた友だちを、山に籠ってつくったんだ。だけれど失敗した。あんまり醜いものだから捨てた」

「その友達をつくるのに使ったのも、鬼の魔法だったんだって」

「へえ……鬼は人をつくることができるんだ」

 食べるだけではなく。

「なんで、また鬼の話?」

「わたしね……冬馬くんが戻ってきてくれて、すごく嬉しかった。でもたまに、今の冬馬くんは、鬼がつくった別の冬馬くんなんじゃないかって、思うときがある」

 春歌の声音は相変わらずそっけないままだ。

 おれは秋生に伝えた答えをそのまま返す。

「おれは冬馬なんだ……冬馬の体で、冬馬の生きた環境にいるからには、おれは間違いなく冬馬なんだよ」

「そうかな……確かにここ数か月、いっしょにいてみて、冬馬は失踪する前と何も変わってなかったと思う。変化があったとしても、みんなの噂にちょっと疲れていただけだったのかもしれない。こんなこと言うの、意味ないし、迷惑でしかないってわかる」

「根拠はないと認めるのか」

「ない。だけど、言わなくちゃいけない気がする」

 きみは本当の体を探さなくちゃいけない――。

 春歌はきっぱりと言う。

 その眼差しは静かな熱を帯びている。

 右腕が痛む。口中にどろどろしたものが充満していく。おれは左手で口元を押さえて、春歌に背を向ける。心配そうに冬馬の名を呼ぶ春歌の声を無視して走る。

 右腕が焼けるように痛い。

 口元から赤黒い液体が垂れる。

 おれの体は死者のものだ。この世にいないはずのものは、やはりいてはいけなかったのだろう。

 この数か月は本当に楽しかった。けれどそれは間違っていたのか。

 街へ入る。

 路地に座り込む。口中から液体が吐き出される。

 汗と涙とともに、路地の埃や土と同化したような感じがする。右腕が落ちて、ばしゃりと水音を立てる。

 鬼は冬馬だったんだと、ぼんやりと思う。

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