005
今から2か月前。
冬馬は山で倒れていたところを近隣の住民たちに発見された。
冬馬はひと月の間、失踪していたということだった。駆けつけた両親は泣いて喜んでくれた。幼いころの彼らとの記憶が思い出されて、おれも声をあげて泣いた。
失踪していた間のことは何も憶えていなかったけれど、日常生活を再開するのに支障はなかった。
ただ、クラスメイトから送られる好奇の視線が少し煩わしかった。
彼らの間で、冬馬は鬼に食べられたと噂されていた。現場には右腕が残されていたらしく、それが噂のもとになっていた。
本当に冬馬の腕――だったのだろう。
でもおれが冬馬として発見されたことで、それは別の犠牲者の腕として処理された。
冬馬は3か月前に死んだ、と秋生は言った。
死因については教えてくれなかった。
冬馬としての日々は穏やかに過ぎていった。
おれが実は冬馬でないと思い出したところで、おれの体は冬馬のままだし、みんなはおれのことを冬馬だと思っている。冬馬でなかったころのおれの記憶はないのだから、冬馬でない生活など送りようがない。
毎朝6時。
目覚まし時計が鳴る直前に目が覚め、まだ部屋が暗くても寝ぼけていても、手探りで洗面所へとたどり着く。
短く切った艶やかな髪。白い肌。丸い輪郭。背丈は春歌や秋生より少しだけ高いくらい。低血圧。眠そうに細められた切れ長の目。鳶色の瞳。寝起きの顔の輪郭は昼間のそれと少し違って見える。
顔を洗い、歯を磨く。排泄を済ませ、手を洗い、食卓に向かう。
両親からは「おはよう、冬馬」と声をかけられ、おれも相応しい挨拶を返す。
学校では、控えめな子としてそれなりに親しまれていて、廊下ですれ違うたびに声をかけあう子もたくさんいる。
かつての「本当のおれ」として考える隙はない。
日常生活、またその中での思考や人格は、すべて冬馬の体と住む環境によって規定されていく。
秋生の家にいたとき、おれが冬馬でないということは切実な問題に感じられたものだが、日を経るに従いただの妄想と大差なくなっていく。
文芸部での生活が楽しかったせいもある。
放課後は春歌と秋生と話した。文字通り、我を忘れて話をした。
勉強のこと、休日のこと、共通の友人のこと、進路のこと、恋人との少し卑猥な話。
文芸の話も少しは話したと思う。
具体的な内容は憶えていない。
おれにも春歌にも秋生にも、何の関わりもない話だったから。
とにかく現実と関係のない話。もちろんおれたちは進路のために相応の勉強はするし、共通の友人がいて、恋人がいる人もいる。その事実はある。
けれど事実に即した話題としての切実さはない。
おれは、かつて冬馬でなかったことを忘れたのみならず、今のおれが冬馬であることさえ忘れた。
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