004

 夢の中の私は、長い廊下を這っていた。

 絨毯ではなく、軋む板張りの廊下だった。赤黒い液体が木目を伝っていく様子をやけに鮮明に憶えている。行く手にはガラスを通して歪んだ陽光が落ちていた。

 ガラスの向こうに中庭が見えた。

 庭には人がいた。きれいな人だった。艶やかな黒髪が腰まで伸びていた。大きな丸い眼が私を見ていた。力なく、何かを諦めたような目つきをして。

「お待たせ」

 向かいに座った秋生さんの声で我に返る。

 卓上にはすでに紅茶が並んでいる。

「……秋生さん」

「なに」

「春からこの家に来たって言ったよね」

「そうだね。もともと親戚のお家だったから」

「以前はどちらに?」

「なんでそんなこと聞くの?」

「きみが以前いた家は、この家と同じくらい大きな日本家屋だったのではなかった? 長い長い廊下と、中庭があって」

「そうだよ。やっと思い出した?」

 紅茶に口をつける。

 カップの縁には、赤黒い何かが口紅みたいにべったりとこびりついた。

 口元に手をやると、同色の液体が指先を伝う。

「……おれが体を失ってどれくらい経った?」

「2か月というところかな。安心して。鬼はまだ街から出ていないと思う」

「そう……」

「案外冷静だね」

 秋生は目を細めて笑う。

 確かに冷静だ。でも、冷静でいいのか。

 今日まで2か月ほど冬馬として生きてきた記憶と、自分は冬馬ではなかったという実感の両方がある。どちらかが間違っているとは判断できない。怒りとか戸惑いとか、現状に相応しいと思われる感情も湧いてこない。

 一方で、体は尋常でなく熱く、口や目からは赤黒い液体が絶え間なく溢れ出ており、制服が汚れるのはいいけれど部屋を汚すのは忍びない、などと自分の体の状態や他人にかける迷惑の方が気にかかっている。

 おれはとりあえず尋ねる。

「えっと……まずこの体は何?」

「何、とは失礼だな。その子はぼくの死んだ友人なんだ。きみに着けさせたあの面は死者を宿らせることができる。きみは死者の体を借りることで、ぼくといっしょに鬼を追うことができるというわけ」

「体を、借りる……」

 死者の宿った仮面を見につけることが、なぜ死者の体を借りることになるのか。

 まあ、今は突っ込むタイミングではあるまい。

「他に借りられる体はなかったの?」

「冬馬の体が不満だなんて。その子は結構人気があったんだよ。まあ、冗談はともかくとして、学校の中で行動するには冬馬の体が最適だったんだ」

「――鬼は学校にいるということ?」

「そう。今もきみの体で生活しているはず」

 なるほどおれは、冬馬になる以前も学生だった気がする。

 学生ならば行動範囲をかなり絞りこめるし、見つかるのも時間の問題だろう。少しだけど安堵感がある。

 しかし、鬼も学生になり代わって普通に生活しているとか、ほかにすることはないのだろうか。

「いや、待って――」

 鬼の目的なんてどうでもいい。

 学生だった気がする、とはどういうことだ。

「秋生さん。……おれは、誰だ」

「……それは、体を失う前のきみのことについて聞いているのだろうけど、そんなことは知らないよ。ぼくがきみを見つけたとき、きみはすでに体を失っていた」

 秋生はやはり表情ひとつ変えずに言う。

「やっぱり、憶えていないんだね。つまるところ鬼を追うには、きみが冬馬になる以前、誰であったかを思い出さなくちゃいけないってことかな」

 思わず立ち上がる。

 椅子が音を立てて転倒する。

「なぜそれを2か月前に教えてくれなかったんだ!」

「……何を教えろというんだ」

「何って、おれがおれでないと……おれが、冬馬でないと」

「きみは実は冬馬ではないんだよ、と言えと? 早いか遅いかの問題ではない。仮に、あの庭できみが冬馬になってすぐ伝えたとして、きみは信じたかな。信じたとしても、きみに実感がないのなら、ただ困っちゃうだけじゃないかな。自分が冬馬でないと、きみ自身で思い出す必要があったんだ」

 底が抜けるような恐怖を覚える。

 おれが思い出しさえしなければ、おれは冬馬のまま、鬼はおれの体のまま生きていくだけだった。そして、それでも何の問題もなかったと、冬馬として平気で2か月暮らしてきたおれにはわかる。

 傍から見れば、おれは自分がかつて違う誰かだったと言い張っているに過ぎない。

 今、おれはおれが冬馬でないことを「正しい」と信じてはいるが、その根拠となっているのは、今朝に見た夢と秋生の言葉だけなのだから。

 秋生は明るい声で言う。

「そんなに焦らなくても、まだ鬼に逃げる気配はない」

「おれが誰だかわからないのに、鬼が学校にいるとなぜわかる」

「そこは職業病のようなものかな。感じるんだ。鬼がいることがわからなくちゃ、仕事にならないじゃないか」

「……根拠ないんじゃないか」

「睨まないでくれよ。確かに根拠はないけど、何も策を考えていないわけじゃない。鬼には悪しき欲望があるものなんだ。……いや、悪しき欲望があるからこそ鬼なんだ。きみの体を奪ったからには、何かしら行動は起こす」

「とりあえず待てというのか? 欲望といっても曖昧過ぎるだろ。誰にとって悪なんだ」

「誰って――」

 神様、と秋生は言う。

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