001

 目覚めたのは、冷たいタイルの上。

 浴槽の中だ、と思う。

 周囲は赤黒い液体でしっとりと濡れている。視界の端には、何か、ぶよぶよした不定形のものが見える。

 それがおれの体だと直感的にわかる。

 自分の手や足を見るみたいに。

 ぬるり、とタイルを這い登り、浴室を出る。

 長い廊下を進む。

 古い、大きな館だ。

 中庭にひとが見えた。空いている引き戸の隙間から滑り出て、縁側から下りようとする。床の軋む音で、そのひとはおれに気づく。汚れるよ、といって抱え上げてくれる。おれから滴る液体が彼のシャツを濡らす。

 縁側にそっと横たえられる。

 微かに風があって、木々が鳴っている。

 目が覚めたんだねと、そのひとは言う。

「落ち着いて聞いてほしい。きみは鬼に体を奪われてしまった。でも、生きてはいる。きみの努力次第では、体を取り戻すこともできると思う。今はつらいだろうけれど、気をしっかり持ってほしい」

 そのひとは秋生と名乗った。

 台本の科白を確認するような、平坦な話し方だった。

 ――からだを、うばう。

 思わず呟く。

 嘔吐や排泄を連想させるような、とても不快な声が出る。

 秋生は表情を変えることなく肯く。

「もともと鬼には体がない。だから、ぼくたちから奪う」

 食べるのではないのか。

 どうでもいいことだが。

 体を奪うという表現は、おれには理解しがたい。体を奪うとは、おれとおれの体を別々に分離できるという発想に基づいている。

 おれとは体のことだ。

 体を奪われておれが生きているなんてありえない。

 今のおれは、心とか精神とか、あるいは幽霊と呼ばれる類のものなのか。ついさっき、おれはこの醜い肉塊がおれの体だと思わなかったか。

 ――もとに、もどるのか?

「戻る。とにかく鬼を探すんだ。ぼくもできる限り力を貸す」

 ――きみはなにものなんだ。

「呪術師と呼ばれる類のものかな。きみのように、鬼に身体を奪われる人がたまにいる。ぼくは鬼を追いながら、そういうひとたちが体を取り戻すための手伝いをしてる」

 ――おにたいじ?

「まあ、そうだね。鬼は死なない。けれど鬼も体がなければ何もできない。ふつう、鬼に体を奪われた人は死ぬ。鬼はその人になり代わって、社会へ紛れていく。退治され、逃れた先でまた体を奪う。ぼくたちはずっとそれを追い続ける」

 おれは生き残ったのだ。

 しかし、もとの体でないことは、もはやおれでないことのように思える。生き残ったということは、以前のおれが生きていることではない。

 こんな体では、もう学校には行けない。春歌にも会えない。

 ――おには、まだ、いる?

「いる。しばらくはきみの姿のままで普通に生活してると思う。じきに、きみは失踪したということにでもして、いなくなるつもりだろう」

 おれの姿をした鬼。

 おれの家で生活する鬼。

 今ごろは家に帰りついたころだろうか。玄関で両親にただいまといい、台所で夕飯を食べ、おれの部屋で眠る。

 今のおれの方が、よっぽど鬼と呼ばれるにふさわしい。

――いやだ。

「わかってる。この街から出られはしないよ」

 秋生は柔らかに微笑む。

 笑うんだ、と少し意外に思う。

「さて。鬼を追うには、きみはもっと動けなくちゃいけない」

 秋生はそう言うと、一度浴室から出て、どこからか桐の箱を持ってくる。

 中には木製の仮面が入っている。簡単な顔の凹凸だけがあり、塗装はされていない。

 何にも似ていない。

 強いていえば、髑髏に見える。

 秋生はそれをおれの体に押しつける。今のおれには顔も何もないから、体に押しつけたとしか表現できない。

 体中に鈍い痛みが走る。

 視界が明滅する。

 体のあちこちが膨張していく感覚がある。

「ただ鬼を探すことだけ、憶えていて」

 秋生の声が遠ざかる。

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