第5話 「故郷の空にて」⑥

「呆けていたわけでは、あるまい」

「――爺さん」

 ヴォルトの事を恐れも気負いも無く「爺さん」と呼ぶのは、幼少時に身についてしまったカイトの癖である。

 無邪気な好奇心の塊だった頃から既に十余年が経ち、尊敬や畏怖といった気持ちも人並みに育っている少年だが、目の前にいる実祖父も同然の人物が無闇に恐れる存在ではない、と理解している。それゆえの呼称だった。

「お前は、いかように考えておった?」

「俺は――、――飛ぼう、って。飛びたいって、そう思ってた」

 カイト、と少年の名前が数箇所から飛び出す。

 たった三文字でも、その中に含まれている感情の揺らめきは複雑に絡み合い、どれ程のものであるか計り知れない。

「いつの間にか凄く話が大きくなっているし、正直、その事に気圧されてびびっている所もある。だけど――話をずっと聞いている内に、俺、シプセルスで飛びたいって、そう思うようになっていた」

 何故、という疑問の視線は、主として二人の両親やベルンスト夫婦、周囲の使用人たちから投げかけられている。対して「やはり」という呆れ交じりの感情は、レナ達やマーナフ等から向けられる視線に含まれていた。

 子供じみているかもしれないけど、と前置きを挟んで、カイトの言葉は続く。

「シプセルスを馬鹿にしたあいつらが一体どんな飛雲機で雲取り勝負を挑んでくるのか、知りたい。何より、そいつらに勝ちたい。父さんと母さん、そして俺たちの力を二度と馬鹿にするんじゃないって、自分の飛び方で語ってやりたい」

 言葉ではなく、あくまで飛ぶ事による翼の力で己が心を語る――クラウダーの顔と思いを前面に押し出し、カイトは言い放った。

「言うのはたやすいが、リスクは小さくないぞ。自分の為だけでない、誰かの為に行動を起こすのならば、それに比例して責任もまた大きく、重くなる。どれだけ囀(さえず)ろうともお前は年端の行かぬ若造、潰れる事無く想いに応えられるのか?」

 気付けば、ヴォルトの声は低く、重く、老いを微塵も感じさせぬ鋭い覇気がみなぎっていた。

 話す相手を対等なものであると見なし、奥底まで値踏みし、品定めし、丹念に探りを入れる――どれだけ馴染みの深い相手であろうと、その鋭い視線は欠片とて曇らない。

 そのような瞳を、カイトは持ち得ていない。勿論その事は、彼自身として自覚している。

 だからせめてその瞳を逸らさぬよう、真っ直ぐに見つめ返して、

「皆となら、出来る」

 迷いを振り捨て、偽りの無い答えを口にした。

『…………』

 空気が、場の全員が、動きを止める。

 そんな状態が一秒を数え、五秒を刻み、十秒を重ねて。

 ――ほぅ、と吐き出されたヴォルトの息で、ようやく再動を始めていた。

「……ふぅ、む。……まあ、なんとか妥協点くらいは進呈出来るか。せめてそこで一言、『やる』とだけ答えられるようにならんとな」

「うん、それは思った。だけど、クラウダーってのは、一人じゃ飛ぶ事が出来ないから。ハルカってナビパートナーがいて、初めて俺は力を発揮することが出来る」

「――――」

 呟きを形にしつつ、カイトはハルカに向き直る。

 視線を交わした刹那、眼を見開く彼女だったが、ゆっくりと表情をほぐし、少年の顔に微笑みを返して答えていた。

「や、すまないなレーヴェス君。本来、これは親である君らの役割……この老体、いささか出過ぎた真似を晒してしもうたわ」

 すまない、と頭を下げるヴォルトの物腰は、気付けば先程までの覇気を完全に収めたものとなっていた。

「……いえ。例え私たちが話したとしても、きっと同じ結果になっていた事でしょう。それにこの馬鹿息子の事です、下手に話がこじれたら自分一人で勝手に突っ走って、皆さんに多大な迷惑をかけてしまっていたかもしれません」

「父さん……」

 ジンクの遠慮ない危惧に眉根をひそめるカイトだったが、面と向かって否定出来ないのが弱い。

 他方、母は母で隣に座るハルカに頭を下げつつ「あの子が何かヘマでもしたら、遠慮なく怒ってやってね」等と頼んでいたりして、双方共に息子の株を上げようと言う素振りは微塵も存在していなかった。

「まあ――とにかく、私たちは出来る限りの事をするつもりです。こうなれば、一エンジニアとして精一杯の働きをするまでですよ」

 だがそれでも、続けられたジンクの言葉には、陰のある迷いを吹っ切った響きがあった。そんな夫にならい、フレアの首もこくりと縦に振られる。

 両親の顔に灯った輝きの色を目の当たりにして、己が胸の奥芯をじわりと熱くさせるカイト。

「――さて、お前たちはどうする? 連中が手探りをしている段階の今ならば、この機会を利用して何かしら手を打つ事も出来ると思わんかね?」

 ヴォルトは次いで、己が娘と婿養子に話を振る。言葉の内容もさる事ながら、そこに刻まれた老人の笑みは『にやり』という擬音すら聞こえてきそうな代物であり、ダインとローラはそれに苦笑いを返す事で声無き答えを出していた。

「何ですか、もう――じい様、さっきからやる気満々で皆の尻を蹴飛ばしてるじゃ無いですか。つまる所、ナルティアルの連中が気に食わなかったりするので?」

「は、そう邪推するでないわ。――まあ、そうさな。息子や孫らを誰ともしれぬ連中に軽んじられて、つい苦虫を噛み潰したくなる、そんな年寄りのつまらん感傷……とでも、考えておいてくれ」

 冷やかしじみたレナの問いに返って来たのは、未だに底意地の悪さを体現するような笑みから紡がれた、独白めいているヴォルトの呟き。

 それが、子煩悩、孫煩悩と言った感情をこの祖父なりに表した結果なのだろうと、隣席のフォートと共にレナは込み上げて来るおかしさを押し殺す。

「ともあれ――元よりそれほど選択肢の無い話だったが、どうにかこれで、見据える先は決まりそうだの。――精々、恥ずかしくない先陣を切るようにな」

「――――」

 再びカイトに向けられたヴォルトの顔は、口の両端こそ吊り上っているものの、その眼が放つ光に笑みの気配は存在しない。生唾を一つごくりと飲み込み、少年はこくりと首を縦に振っていた。


 ――その翌日、早朝。

 ナルティアル・カンパニー本社の一室にて、ジンクよりの電話を取るフーレの姿があった。

 椅子に深く腰を掛け、眼前の机上にあるメモに素早く筆を走らせる彼女の姿には、電話の向こうから伝えられる内容を予想していたかのような余裕を窺う事が出来る。

「――ええ――私どもとしては、その条件で構いません。――はい――はい。では、勝負の日取りは五日後……と言う事で」

 その後二つ三つと社交辞令を交わし、要件の確認を改めて取り合って、ゆっくりと電話を置くフーレ。メモに視線を巡らせ、的確に整理されたその内容を確かめると、彼女はそれを手に握って席を立つ。

 己が上司の所へと向かい、足を進める。その相貌には今、眼と口の端を鋭く尖らせた微笑の仮面が貼り付けられている。

「…………」

 窓から差し込む夏光の眩さを受け、鉄面皮がごとき笑みはひたすらに硬質な輝きを放つ。

 相手方がどのような手を仕掛けてくるか、それに対していかなる手段を講じるか――尋常ならざる速度で数多の論理を組み上げ、思考をフル回転させ始めたフーレの内面は、その輝きによって完全に外側からの干渉を遮断しはじめていた。



「――シプセルス、離陸許可を確認。発進して下さい」

「了解。いくぞ、シプセルス――テイク、オフ!」

 海天季二十五日、午前九時二十分。

 数多の白雲にわずかな青空の切れ目、と『白晴』の天候であるラムーニア上空に、白と蒼を基調にした一機の飛雲機が踊り行く。

 いつもならばこのまま雲取り場へと突っ込み、マテリアル採取を行うのが日課だが、今日に限っては高度をある程度低めに取って速度を調節し、じっと息を潜めるかのようにして勝負の相手を待っていた。

『――――』

 カイトはシプセルスの席上で、そしてハルカは、ラムーニア市街のクラウダーギルド内にある小部屋で貸与専用のナビコンを前にして、それぞれの口を真一文字に結ぶ。

 以前、かの天才クラウダー夫妻がルーセスの街に来ていた折、ナビパートナーのレドゥア・ラバルクはラップトップ型の最新型ナビコンを持っていたが、生憎と新米二人には高嶺の花の代物。

 些細な勝手の違いはどうあっても出てしまうが、今まで培った経験を生かして順応する他無い。

『…………』

 沈黙は年若き二人のみならず、地上で今しがた息子と飛雲機を送り出したレーヴェス夫妻をも包み込んでいた。

 飛び立っていった機影は既に豆粒程の小ささにまで縮み、雲に塗れて既に見えない。だがそれでも、ジンクとフレアは空の一点にじっと視線を定め、言葉にならぬ想いを、そして願いを馳せる。

 雲取り勝負を受けてから今日を迎えるまでの五日間、カイト達はひたすらにシプセルスを操り続け、久方ぶりに飛ぶ故郷の空へ少しでも順応しようと努めていた。

 クラウダーとしての意地、プライド、託された思いと責任――それに応えようと足掻いたこの日にちは、どれだけ短かろうと決して無駄にはならない筈。

 考えられる限り、出来る事はやった。我が子らの勝利を願い、私たちはここで、その帰りをじっと待ち続ける……!


「……っ!」

 カイト、と耳に馴染んだ少女の叫びは、続く言葉を聴かずともそこに込められた意味が分かる。

 操縦席のキャノピーガラスをすり抜けて感じ取れるくらい、周囲を流れる大気にざわざわと急激な波が立ち始めていた。

「後方12、斜め下から来る! カウント3で脇をかすめるよ!」

 ナビの言葉に呼応して、無意識のうちにカイトは胸中で一、二、三と鼓動を刻んでいた。刹那、何者かの存在を明示してぶわりと空気が膨れ上がり、シプセルスのバランスを僅かに乱し――

「――これが」

 纏わり付く雲を文字通り切り裂いて、姿を現す相手方の飛雲機。


 艶のある漆黒を縫ったボディ、その周囲には眩いイエローのラインが鋭角的な曲線を描いて刻まれている。

 カイトの瞳に入り込んで来たその機体は、瞬く間に彼の心へ鮮烈な印象を刻み付け……「雲を裂く雷」と、事前に教えられた異名を思い返させて行く。

 シプセルスに似た長鼻(ロングノーズ)と、その先端で勢い良く旋回する二門プロペラ。

 前方のエンジンを包むボディは両端に排気口を備え、両側に広がる一対の単葉翼はそれぞれの中心付近がやや複雑な上下湾曲を描き出していた。


「今――見えてる、カイト?」

「ああ。あれが……ナルティアルの『フィラエナ』」

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