第5話 「故郷の空にて」⑤

「――と、まあ。大体、そんなとこかな」

 流石に唇の筋肉が疲れてしまったのだろう、言葉の奔流をそこで区切ったレナは、眼前の紅茶を口に運んで静かに含み、ふぅ、と細く長い息を吐き出した。

 ハルカとカイトは揃って目を白黒させつつ、そんな彼女にねぎらいの言葉をかける。

「ご、ご苦労様、姉さん……」

「お疲れ様です……。と言うか、よくもそれだけあの時の話し合いをきっちりと覚えていたね。俺、あの時は頭に血が上っていたから、

詳しい部分は正直全然」

「ん――まあ、私からすれば、あんな異常極まる一幕、忘れる方が難しいさ。第一私だけじゃなく、フォートにしたって大分覚えていたろ?」

 話を振られたフォートの反応は、小さく肩を竦める苦笑のみ。君ほどじゃ無いさ、という台詞が、言葉は無くとも柔らかなその表情にしっかり表れている。

 レーヴェス家での出来事より数時間、ラムーニアの街はすっかり夏の宵闇に彩られていた。

 今現在、カイト達四人はベルンスト家の食卓で夕食後の紅茶を味わっていた折であり、同じ場にはジンクとフレア、また当然ながらベルンスト家の者達も揃い、長方形のテーブルにて各々の顔を付き合わせていた。

 表面上こそは和やかながら、どこか張り詰めた雰囲気の食事が過ぎた後、事の次第を口にし始めたのはレナである。彼女の口から紡がれる説明は、その一々が細部にまで行き渡り、加えてフォートからの的確な場面補足も手伝えば、そこに生まれるのは臨場感すら伴う確固とした再現。

 有無を言わさず、聞き手を納得させるだけの力を持っていた。

「成る程、と言うべきか。道理で、先程までの夕食に影が漂っていたわけだ」

「ジンクさん、フレア――お二方も、しっかりナルティアルに目を付けられていたわけね。漠然とした予感はあったけど……ここまで手が早いとは、流石に」

「お二方『も』――? お母さん、それって」

 言葉に込められた意味を感じ取り、不安の面持ちを伴って母親――ローラ・ベルンストに尋ねるハルカ。次女の眼差しを受けた彼女は長髪の下の首を小さく縦に振り、その返答を穏やかな声音に乗せた。

「ここ数日、私とダインの所にも、続けざまにナルティアルの者が交渉目的で訪れていたわ。貴方達には後々言うつもりだったのだけど――つい先日には、お爺様の枕元にすらね」

「ローラの言葉に重なるが、もしかしたら大陸諸地域の各FG、果てはレーヴェスとその細君にまで手を伸ばすかもしれない……そう危惧した途端にこれだ。いささか予測を見誤ってしまったよ」

 年を取ったかな、と、ベルンスト家現当主――ダイン・ベルンストは、苦笑の皺を口髭豊かな顔面に刻む。

 もっとも、五十代半ばに届こうかと言う彼の年齢は、平均的ながらもしっかり伸びた背筋や引き締まった筋肉から容易に想像出来るものではないが。

 「あいつら――おじさんとおばさんの家だけじゃなく、うちにまでずかずか入り込んで来ていたわけか。あたしの事やハルカの事、フォートの事まで知られていたのも、そう考えたら当然か」

 「だけど……一体何なの、あれ? おじ様達の作ったシプセルスは頭ごなしで馬鹿にするし、カイトを散々煽って勝負なんか吹っかけるし、挙句の果てにはあんな脅迫めいた事まで……。どう考えても、無茶苦茶だよ」

 語尾に重なる、ドン、という鈍い音は、わなわなと震えるハルカの握りこぶしがテーブルを叩いた為だった。

 声音の調子と言い、その顔に作られた表情と言い、彼女の内より湧き出ている困惑と怒りがいかに激しいか如実に感じ取れる。声を荒げてこそいないが、それは恐らく、怒りの度合いを困惑のそれが上回り、彼女自身が自らの激情をコントロール出来ていない結果に過ぎないのだろう。

「こんな、こんなのが、ナルティアルのやり方なの――? あんな人達が、今までずっと、シーフィアスやリンコドンや、リガレクスを作って――」

 感情のままに吐き散らされるハルカの言葉だったが、「リガレクス」の名前が出た途端その流れはふつりと途切れる。

 いつしか数対もの視線が彼女に揃って向けられていたが、そこには明らかにハルカの心情を憂慮し、理解する色が混じっていた。

「ご、御免なさい。取り乱してしまいました」

 慌てて頭を下げ、丁寧口調で謝罪をするハルカ。直接身体や視線を向けたわけでは無いにしろ、その言葉は明らかに、同席する彼女の祖父――ヴォルト・ベルンストへと向けられたものだった。

 齢八十を重ね、身体の節々に小さな故障が見られはするものの、白髪と白眉の下に設けられた瞳には、衰えを知らぬ鋭い光が宿っている。

 その口を開けばラティオール各王族の耳にまで届く、とまで言われる影響力の強さ、そして何より骨ばった老躯より滲み出る独特の威圧感は、例え血の繋がった近しい者にとってさえ、畏怖の対象となり得るものだった。

 そんな男の口がゆっくりと開かれ、

「……なぁに……気に病むでないよ、ハルカ。寧ろ、わざわざ気を回して自制をしてくれたその気遣いをこそ、わしはうれしく思う。ナルティアルとて、そのような娘っ子ばかり雇って巨大な形を成しているわけではあるまい」

 ――しわがれた声は、優しく柔らかい響きを紡ぎ出していた。

 充満している空気の緊張が緩み、ほぅ、という溜め息が幾重にも連なって吐き出される。恐らくその中には、食卓の周囲で彫像よろしく控えている、使用人達のものも混ざり込んでいるのだろう。

 響きの柔らかさは保ったまま、しかし声の調子を少し落として、ヴォルトは次の言葉を紡ぐ。

「わしの所へやって来たナルティアルの手の者、ダイン達を訪れた連中、そしてレーヴェス君を引き込もうとした存在……ふむ。連中、どうも様々な方面で、それこそ数多の手法を試しているように見受けられるな。ある意味では、これもまだ準備段階と言えるか」

 首を傾げる一同の心情を、「それって、一体?」とレナの合いの手が代弁する。

「ラティオール大陸という巨大な土壌を用いて、自分たちが切り込もうとしている分野で千差万別のアプローチを試し、方々の出方を探る。効果があれば良し、芳しくなければそれもまた収穫――異なった人脈や力を使い、有効である方法へと変えるまで。……レーヴェス君、少し気になったのだが、こちらに電話して来た時刻と、その時の状況を覚えているかね?」

「え? ええ、あの時は、彼女……ルメイ氏との話し合いが始まって十数分ほど経っていました。察するに、その後も話が長くなりそうだったので、席を立って電話を……で、マーナフさんが出て、カイトが」

「お義父さん、それは――まさか」

 話を振られたジンクが状況を整理し、回想をしていく中、ダインが放った声には驚愕の色が混じっていた。

「……ダイン? 私が何か、変な事を口にしたか?」

「いや――仮にも、の考えでしかないが。……もし、フーレ・ルメイという女性が、その電話の内容に聞き耳を立てていたとしたら――カイト君らが君たち夫婦の心配をして、様子を見に来る事を……彼女が予想していた、とは考えられないだろうか?」

 そしてシプセルスを話題に引っ張り出し、己が飛雲機との勝負を吹っかける。

 勝てば提示した条件はそのまま通り、たとえ負けたとしても手元には貴重な実践のデータとアプローチの結果が残り、生じるメリットはデメリットに大きく上回る事となる――時折たどたどしく、けれども一息でダインの口から告げられた内容は、全員を瞠目させて余りある代物だった。

「勿論、仮定の域を出る話ではないし、即断するのも危険だが……実際、ナルティアルの者らが行っている交渉の手口は、お世辞にも少ないとは言えない種類だと耳に入れている。来訪の兆しが無ければ無いで、また違う形での話術を駆使していたのだろうな」

「ち、あいつ――あの時、涼しい顔でべらべらとやたらまくし立てていたけど……可能な限りの無茶をまかり通そうって腹なのかい」

「そうなると。この食卓においてそんなベルンストの一同が顔を合わせているって事も、この嫌な空気も……彼女が立てた予測のうちの一つに、入っているかもしれないね。こうして今、僕らが話している事さえも……」

 レナとフォートの沈んだ声音は、この時、ハルカの中に湧いていた怒りに氷点下の悪寒を叩き込んでいた。

 彼女の瞳の中にある震えは、もはや怒りを根こそぎ呑み込む不安と困惑、そして恐怖を表出させてしまっている。

「……どう、なるのかな、これから」

 誰にとも無く問われた彼女の言葉は、寄る辺無き不安を形にして小さくか細い。もっともこの時、広間は静寂が基盤となっていた為、全員の耳にそれはしっかり届いていたのだが。

「――ふむ。このまま煩悶し、立ち止まっているだけでは、万事が連中の思い通りだろうな。手の広さとそれを展開させる速度を考えるに、他のFGに対しても既に行動は成された……退路は断たれている、と考えるべきであろう」

 そんな中において生み出されたヴォルトの言葉は、ハルカに対しての返答に他ならぬ内容のもの。また同時に、全員へと投げかける宣告の響きを帯びていた。

「この状況を良しとせぬのであれば――確たる意志を持って、こちらから一歩踏み出していくしかあるまい。時期がたてば異なる動きも見えて来ようが、生憎と悠長に待っていられる状況でも無いしな」

「例えそれが、ナルティアル側の思惑にはまっていたとしても――ですか、お父様?」

「うむ。だが、良いように四肢を縛られ、操られる事は誰にとっても本意であるまい。それに、向こうとしてもこの動きには少なからぬリスクを伴っている筈。わしは、連中の用意したのは『舞台』だと考えておる。故に、そこで力を示し、巧みな立ち回りを見せれば――」

「付け入る隙も、抗う手段も見えて来る――?」

「良い様に丸め込まれて、鬱積した気炎を吐きたい連中を焚きつける事だって可能かもしれない。……その先導を私たちが買って出よ

う、とおっしゃるのですか」

 ローラの問いかけを挟んで織り成された、ヴォルトの考案と意思表明。

 語尾を受け、それぞれの胸中を吐露したジンクとダインに頷きを返した後、猛禽を思わせる瞳がある一点でぴたりと据えられた。

「――ときに。先程から、一言も喋っておらぬな」

「――――」

 視線を交錯させる為に、カイトは背筋を改めて首を回した。ゆっくりと、ぎこちなくも思える動作を経て、彼の瞳はヴォルトのそれに正対してゆく。

 少年の中で揺らめく光は小さくも凛と瞬き、あたかもそれは、彼が話を振られる時期を待っていたかのようだった。

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