第1話 「雲取人の少年」④:ハルカ・ベルンスト

「ぁ――」

 格納庫の入り口側から聞こえてきた、小さな驚きの声。カイトが振り向いたその先には、ハルカの姿があった。

 彼女はこちらへと近付きつつ、話しかけてくる。

「シプセルスが……。ひょっとして、明日から乗るの?」

「うん。レナ姉が、説教と拳骨の後『悠長に訓練している時間も無いし、前倒しで明日から予定を一つ繰り上げる』ってさ。まったく、あんなにも凄みを効かせなくたって良いだろうに」

 苦笑と溜め息交じりの返答。だが、眼前の少年がただ脅されたからと言って簡単に自分を曲げる人間で無い事を、幼馴染でもある少女は人一倍理解している。

「この生活を始めてからずっとしごかれてきて、多少は感覚が身に染みついている筈だし。後は、自分の力と心をきちんと制御できるかだ」

「一気に難しくなる、って事だよね。大丈夫?」

「心配するな……って言いたいところだけど、正直、自分でも分からない。もしも、なまじ速度を出した時に身体がこいつを受け付けてくれなかったら、って考えると、物凄く恐いよ」

 だが、そう呟く少年の手は、既にシプセルスを覆っていた布を離し、拳を強く握り締める形のまま。その視線もまた、ただただ眼前の機体を見つめて、決して反らそうとしない。

そんな姿勢を保ちつつ「ハルカこそ、こんな夜更けにどうしてここへ?」と問いかけるカイト。

「私は、その。どうにも寝付けなくて、外の空気を吸おうと出てみたら、カイトが格納庫へ入って行くのが見えて、ね。実は、今日のフライトで義兄さんに怒られた事、ずっとひきずっていたままだったんだ」

「フォートさんに?」

 少なからず意外、という顔で、彼女に向き直るカイト。

「うん。今朝のあのニアミス、実は隣にいた義兄さんの方が先に気付いて、知らせてくれたんだ。下手をすれば、カイト、洒落で済まされなかった」

 ごめんなさい、とハルカは頭を下げ、言葉を続けていく。

「あの二機が後ろから来てる事、それぞれが通って行くコースと速度の予想……私、明らかに読みを誤ってた。飛雲機の性能や感覚を未だ掴みきれずにいて、その結果、カイトを危険に晒した。こうやってパートナーになってから、半年も経っていて……今更そんなの、きちんと分かっているべき事、だったのに」

「いや――そんな」

 喉まで出掛かっている筈の言葉は、しかし、いざ口にした途端安易な慰めでしかなくなって、余計に彼女を傷付けかねない。カイトの口が噤まれると同時に、嫌な沈黙が場にのし掛かってくる。

 知らなかった。気に病んでいるのは自分だけだと、上達していないのは自分一人きりだと思っていた。彼女はただ順調にナビとして腕を上げ続け、一人置いて行かれていると何時しか思い込んでいた。

 いくら焦りに追い立てられていたからと言って、彼女の事を……特に、ナビとしての状況について、自分はろくに考えようともしていなかった。

「ハルカ……」

「姉さんも義兄さんも、口癖みたいに言ってるよね。『クラウダーとナビは、お互いを心から信じられる、確とした絆を持っていないといけない』って。これじゃあ私たち、全然……まだまだ、だね」

 顔の俯き加減に比例するかのように、声のトーンは沈んでゆく。そんなハルカにかけるべき言葉を見つけられず、カイトの脳裏は瞬く間に、無様にばらけた文字の山に占拠されてしまう。

「…………」

 自分は今、この少女に対して何をすべきなのだろうか。一体、何をしてあげられるのだろうか。

 飛雲機を駆って空を飛び、腕を上げ、雲の中からハルカ達の祖母の遺品を見つけ出す。……けれど、その前に、それ以前に、やるべき事は。パートナーである彼女に対して、自分が出来る事は――

「あ――えっと。御免ね、変な事言っちゃって。明日から難しくなる事だし、気合入れ直して行こうね。じゃ、お休みなさい」

 適当に笑って場を濁し、きびすを返そうとするハルカ。

 瞬間、

「――っ!」

 ほとんど塞がっていた喉の隙間から、感情に押し出されるがままに、一つの言葉が滑り出ていた。耳朶を打たれた少女の足が、身体が、ぴたりと止まる。

その瞳は、驚きに見開かれていた。

「えっと……今の、って」

 言った彼自身すら驚くような言葉だったが、撤回はしない。もう一度胸中で可能な限り整理し、心を決めて口にする。

「一緒に飛ぼう……って、言ったんだ。こいつなら……シプセルスなら、それが出来る。ひょっとしたらそれで、何か新しいことが掴めるかもしれない。……だから!」

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