track4 ファウンテンブルー

 雨脚が遠ざかっていくように、母の寝息が深い眠りに意識をたゆたわせていた。柔らかいシーツの上で重ねられた手の力が少しばかり緩み始めている。僕はそっと、母の指を一本ずつほどいていく。僕の手が完全に解放されても起きる気配がないところを見ると、先程飲んだ薬がよく効いているようだと胸を撫で下ろした。


 何気なく見つめた母の手から水面を撫でる陽光のように視界に薄く張った水色が消えていく。あとには白く透きとおった肌が露になった。幾分か視界は正常を取り戻しつつあるようだ。少し身体のだるさは感じるものの、それほど辛いものではない。もう一度、母の寝息が安らかであることを確かめてから、僕は寝室を後にした。


 廊下を抜け、その足で地下へと続く螺旋階段を降りる。階下に近づくにつれて、足音が密度を深めて空間に残響を息づかせていた。降りきった先に、薄闇の中、壁に穴が開いていると錯覚してしまいそうなほど塗りこめられた黒い扉が待ち構えている。扉に掛けてある札を『空室』から『使用中』にひっくり返して、僕はいざなわれるように重い扉を開けて中に入った。


 部屋中央に置かれているグランドピアノが、照明のせいか少し青みがかって黒い身体を艶めかせていた。


 右のスペースにはシーケンサーなどの機器が、左のスペースにはギターを始めとする楽器が整然と並んでいる。奥の壁には長方形の覗き窓、そのすぐ横に扉があり、隣のレコーディングルームに繋がっていた。


 この部屋は、普段は作曲家である母の作業場だ。だが、母が使用していない時、たまに僕もこうして曲作りのために使わせてもらっている。ここは地下で防音対策もしてあるため、僕が唯一、安心して歌うことと向き合うことができる場所だった。


 人前で歌うことはできなくても音楽と関わることはできる。道は一つだけと信じ込み、絶望に泣き喚いた幼いあの頃とは違って、僕はもうある程度の現実を受け入れていた。


 現在は音大に通いつつ、同じ大学の友人たちのバンドに楽曲提供をしながら、僕は音楽とのつながりを保っていた。ただ、将来作曲の道に進むかはまだはっきりと決めてはいなくて、友人の力になれればと思うところが、曲を作っている一番の理由だった。実際、彼らのバンド活動を支えることに充実感を覚えていたし、ライブが盛り上がりを見せれば自分のことのように嬉しかった。だが、僕が作った曲を歌ってステージの上で輝く友人たちを見て、どうしたって彼らとは違うということを見せつけられる。僕はもうあの場所には行けない。なのに、心はいつまでも子供の頃に奥底にしまった微かな望みに手を伸ばしたがっていた。


 ピアノの脇をすり抜け、その奥のスペースにあるデスクトップパソコンの起動ボタンを押した。三つある液晶画面の両脇にはスピーカー、手前には普通のキーボードと鍵盤状のキーボードがあって、それらもピアノに倣って身体をかすかに青く光らせている。僕はその前にある椅子に腰かけ、パソコンが起動するのを待った。


 画面の中央では、青い円がゆっくりと回って、懸命に己を働かせようとしている。ぼんやりとその軌道を見つめていると、そこから、ぴちゃり、ぴちゃり。魚が跳ね上がった後みたいに水飛沫がこぼれた。ふいに耳の内側でせせらぎのような音が反響する。


 唇からひとつ、ふたつ、透明な音がこぼれる。


 こぽこぽと、湧き上がるように一小節がゆるやかに確立していく。


 僕は急いでズボンの左ポケットに押し込んでいた譜面を取り出し、ペンを握った。


 刹那、内包された音が一斉に溢れ出した。流れるように五線譜に音符を走らせる。ひとつひとつを取りこぼさないように口遊みながら、水溜まりに波紋をつくるように軽やかに、涼やかに。生み出される音の波が五線譜の上で踊る。暗い奥底から解放されて、輝きを湛えながら歌声が舞い上がっていく。いつのまにか、清らかな音の羅列は譜面いっぱいに満たされていた。


 極力音を立てないようにペンを置く。まだ余韻が消えないうちに、すでに起動が終わったパソコンの打ち込み作業にかかろうとすると、右ポケットで携帯電話が震えた。取り出して見ると、着信は友人の落合からだった。通話ボタンをスワイプし、電話を耳に当てる。


「もしもし」

『あ、俺だけど。お前、今どこにいる?』

「家にいるよ」

『……大丈夫か? なんか元気ない気がするけど』

「ああ……まあ、ちょっと、さっきヘマした」

『じゃあ、無理か……』

「……どうした?」

『あの、さ、お前に会いたいって人がいるんだけど』



 頭のなかではまだ奥底で音が、ちらちらと揺らめいていた。

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BLUE 森山 満穂 @htm753

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