track3 深藍

  母はそれ以来、精神的にまいってしまって、精神科への入院を繰り返した。その間、僕は親戚の何軒かにお世話になって暮らしていた。我が家ではない家に流れるのは、他愛もない無機質な生活音。楽器の音など一切なく、鼻歌を口遊むことも許されない気がして、迷惑をかけないように極力口を噤んでいた。


 母の症状が落ち着くまでのその時間は、自分の罪を自覚するには充分だった。




 あまりにも静かすぎる環境は、不快な音ばかりを僕に聞かせた。貧乏揺すりの音。次の引き取り先を相談する電話の声。母の泣き声、寝ても醒めても耳の奥に響くあの日あの時の父の声。誰かといる時はなるべく良い子でいようと意識しているから明るく振る舞えているけれど、一人薄暗い部屋の中にいると嫌でもそれらは混ざり合って僕の耳に居座り、塞いだ気持ちにさせた。


 膝を抱いてうずくまり、父の声だけに耳を澄ます。


「蒼斗!」


 いつだって柔く優しい響きを湛えていたその声は、はりつめて色濃く影に滲んでいく。


 溢れそうな涙を必死で堪えて、歌声を押し殺して。気が狂いそうなほどの寂しさに襲われながら目の前の真夜中の暗闇を見つめ続けていた。暗がりに見える微かな青が音もなく揺らめく。その有様が父の声と重なって、僕をどんどん深く暗い世界へと誘っていくように思えた。生まれてしまった澱んだ思考からもう逃れられない。木霊する声が何度も呼びかける。


「蒼斗!」


 父が最後に口にしたのは僕の名前だった。

 僕を助けたから、僕のせいで父は死んでしまったのだ。


 半年後、母の症状はだんだんと落ち着いてきて、父の生前と同じような生活が送れるようになった。家の中に流れるゆるやかなピアノの旋律。けれど、その頃にはもう僕は舞台の上で感じた幸福も鮮やかな景色も、歌う喜びも忘れてしまって、母が奏でるピアノの音を静かに聴いていることしかしなくなった。


 そんな僕を心配してか父の追悼コンサートが開かれることになった。また歌う機会を設ければ元気になってくれるだろうと母は考え、僕を父のコンサートに誘ってくれたプロデューサーさんに頼んで取り計らってくれたらしい。練習しなきゃね、と母は笑ったが、僕は曖昧に笑うことしかできなかった。それからもどうしても人前で歌う気になれず、母の外出時を見計らってこっそりと練習をした。



 久しぶりに父の歌を口遊むと、とたんに呼吸が楽になった。歌詞を紡ぎながら吐く息、合間にもたらされる息継ぎ。全てのタイミングが心地好く僕の身体を満たす。深海から海面の光を目指して泳いでいくような、闇を抜けて眩しいほど明るい場所へと昇っていく爽快な浮遊感。気持ちが高揚して、胸の奥が熱くなる。


 やっぱり僕は、歌うことが好きだ。好きなんだ。


 もしかしたら母が思っているように、もう一度舞台に立って歌えば父の声が聴こえる夜から抜け出せるかもしれない。朧げになってしまったあの幸福も蘇らせることができるかも。希望を胸に募らせながら僕は一人、歌に身を委ねた。


 そして、コンサート当日が来た。久しぶりの舞台に緊張し、興奮しているのもあって僕は前日から少し熱っぽかった。母はひどく心配して本番直前まで楽屋で僕を休ませ、舞台袖に来ても辛かったらやめていいんだからねと声をかけてきた。けれど、僕には希望があったから、少し鼓動が乱れて苦しくても明るく振る舞った。


 期待と不安が入り混じったまま、舞台に上がる。観客席に向き直ると、一気に身体の震えが増した。青みがかった暗闇が狂いそうだった夜の感情を想起させ、不安が押し寄せてくる。けれど、ゆっくりと深呼吸をして、なんとか気持ちを落ち着かせた。


 大丈夫。歌い出せばきっと忘れられる。僕は暗いところから抜け出せる。


 ピアノの前に座っている母を振り向き、頷きながら微笑んでみせた。軽やかにピアノの旋律が流れ始める。タイミングを見計らって一瞬の音の静寂に一音を発した瞬間、歌声は轟音に掻き消された。


 海鳴りが割れるような音だった。


 気が付けば目の前にはあの日の光景が青く立ち塞がっていた。青は徐々に僕さえも侵食していく。ただただ恐怖で身動きが取れず、景色が暗くなっていく。希望は、音もなく青い追憶に飲み込まれた。


 その日を境に、僕は人前で歌えなくなった。


 歌おうとすれば、青の世界に誘われ、あの日の記憶を鮮明に見せつけられる。一度そこに引き込まれると抜け出すことはできず、青に意識を飲み込まれるまで悪夢は終わらない。僕の場合、それがフラッシュバックらしく、その状態の時、呼吸困難と動悸の症状が起こる。症状としてはたいしたことないのだが、強いショックや症状が長引くと命に関わると医師に苦言を呈された。


 事実、一番最初に症状が起きたあの時、心臓発作を起こしかけて死の淵を彷徨っていたと後から聞かされた。僕が病院で目を覚ますと、母は父が死んだ日のように泣いていた。私を一人にしないで、と。





 そこから僕の人生には二つの選択肢が存在している。


 寿命を縮めてでも音楽に情熱を捧げるか

 音楽を諦めて生き長らえるか


 後者を選ぶのが当然だろう。だけど、僕は未だに音楽と命の狭間で宙ぶらりんの状態を続けている。だって、音楽を失ったら生きていけない。


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