track2 浅藍
父は歌手、母は作曲家という音楽一家に僕は生まれた。物心ついた頃にはピアノやギター、家にあるひと通りの楽器は弾けるようになっていて、普通の玩具よりもそれらを弾いて遊んでいることの方が多かった。けれど、どんな楽器を弾くよりも、歌うことが一番好きだった。暇さえあれば歌を口遊んで、日が暮れるまで歌っていたこともある。そんな姿をみた周りの人はよく褒めてくれて、それを聴いて両親も嬉しそうだった。
そんなある日、家に訪問してきた父の知り合いのプロデューサーに目をつけられ、僕は父のコンサートに呼んでもらえることになった。歌うのはもちろん父の曲で、与えられた時間は三分程。
舞台の上に立つと、僕は淡い光の中で、観客は深い暗闇の中。まったく別の世界にいる得体の知れない存在のようで怖かった。でも歌い出すとその不安は一気に吹き飛んで、気持ちは歌声とともに走っていった。
最高の音を、歌声を出し切った後の、一瞬の静けさ、波のように押し寄せる拍手の音。眼前の暗闇には観客たちの目に光が瞬いていて、さっきまで得体の知れなかった景色は穏やかな星空に姿を変えていた。
その全てが僕を包み込んで、胸の奥に炎が灯るような、激しく強いあたたかさに満たされる。それは次第に姿を変えて、ごうごうと燃え盛る火種になった。指先や足の先端はひどく冷えているのに、胸の中だけはこみ上げるほどの熱を帯びて、その炎はくらくらと静かに燃え続ける。その時僕は、心地よい浮遊感に満たされて歌のこと以外何も考えられなくなっていた。
その感覚をいつまでも忘れられなくて、灯った炎が胸から離れなくて、僕は心の底から、もう一度この感覚を、あの感動を味わいたいと強く願った。
それからも時々コンサートに出させてもらうようになり、回を重ねていく内に気持ちは強くなっていった。何度だって何度だってその高揚感に飽きることはなかった。この感覚を一生持ち続けていたい、将来は歌手になりたい、そう思うようになった。
だが、夢は突然絶たれた。
十年前のその日、僕にとって母が作ってくれた曲を披露する初めてのコンサート。になるはずだった。
コールが掛かり、いつもどおり僕は舞台の中央に歩いていった。観客に一度お辞儀をしてから、ピアノの前に座っている父を見る。僕は微笑んで応えてくれた父に、準備はできているという意味で頷いた。すると父の視線は僕から譜面に落ち、大きな両手が鍵盤に置かれて伴奏を奏で始める。淀みのない軽やかなメロディ。スキップするみたいに一小節を跳ねるその音にわくわくする気持ちが込み上げる。もうすぐだ。もう一度父がこちらを振り返れば、それが歌い出しの合図だった。マイクを胸の前に持ってきて、両手で握り直す。あと少しで、お母さんがつくってくれた歌を皆に聴いてもらえる。期待を胸に伴奏に耳を傾けていた時、父が再び僕の方を見る。その瞬間、穏やかだった父の顔が、驚愕に崩れた。音が途切れて、同時に近付いてくる足音が聞こえ始める。困惑する中、音のする方に振り向くと、青いジャンパーを着た男が目と鼻の先にいた。何かを小脇に抱えるように持って、こちらに一目散に迫ってくる。手の中のそれがちかっと光った瞬間、僕は嫌な気配を感じ取って、持っていたマイクを強く握りしめた。
「蒼斗!」
その声が耳に届いた瞬間、後ろ手に庇われ、視界は父の着ていたジャケットの色、淡い藍色でいっぱいになった。そしてほんの一歩、身体が離れた途端。ぐさり、不気味な音がマイクを伝って会場全体に響いた。淡い藍色一色だった眼前に、ぬらりと血に濡れた刃先が現れた。
父の身体をナイフが貫いている。
それは息つく間もなく引き抜かれ、あとには鮮血が噴き出した。顔に飛び散った血飛沫は、生温かった。父は足もとに倒れ、床に広がっていく血。
記憶はそこで途切れている。気が付くと僕は病院のベッドで横になっていて、父は帰らぬ人となっていた。母は遺体の傍らで泣き崩れていた。僕のことなど見向きもせず、ひたすらに父の名前を呼び続けて。
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