怪書、再び

前編

 書架楼の周囲にあった鮮やかな紅葉の木々は、すっかり枯れて葉を落としていた。季節は冬に移り、書架楼の足元にある街の人々の服装も厚めになる。人によっては外套を羽織っていた。琴緒も薄手のカーディガンを業務中に羽織るようになったが、書架楼内はそこまで寒くもない。暖かい仕組みを先日文子に訊いてみたところ、

『うーん、たしか地熱で暖かいって言うことを耳にしたことはあるけど、詳しい仕組みまでは知らないのよねー』

 と返って来た為、未だに暖かい理由は謎である。謎といえば、この書架楼自体が謎だらけなのだが、その中でも特に琴緒が謎に思っているのが“怪書”の存在である。その怪書も、最初に出会ったとき以来、遭遇していない。次に遭える日は来るのだろうか、などと考えながら司書としての仕事をこなしていると、遠方に淡い光を放つ背表紙を見つけてしまった。

「ええと…どうしよう……」

 琴緒は独り呟き、周囲を見回す。そこで、今いる階には誰もいないことを思い出した。文子か草吉を呼ぶことも考えたが、呼びに行っている間に怪書はどこかへ消えてしまうかもしれない。琴緒は自分で怪書を捕まえる決意をした。

 螺鈿細工のような栞をスカートのポケットから取り出すと、ゆっくりと怪書との距離を詰めていく。怪書は琴緒が近付いていると知ってか知らずか、静かに光っている。怪書が生き物かどうかは分からないが、出来るだけゆっくり接近して、怪書に存在を悟られないようにする。いよいよ怪書の目の前まで来たところで、琴緒は一度深呼吸をした。なんとか同期を少しだけ落ち着かせて、怪書にまで手を伸ばした。

「……ん?」

 琴緒が手にした怪書は、あっさりと手の中に納まってしまった。前回遭遇した怪書のように、逃げるような素振りを一切見せない。初めて見た行動に、琴緒は戸惑うしかなかった。

「どうしよう……」

 先程と同じ言葉を繰り返す。まさか、ここまであっさりと捕まえることが出来るとは思いも寄らなかった。

 怪書は静かなまま、光を放っている。琴緒はどうすべきかまごつくが、その間も怪書は動こうとしなかった。琴緒は手の中にある怪書をじっと見る。やけに大人しい怪書の中身は何か、という興味が湧き、思い切って表紙をめくってみた。――数十頁しかない怪書は全て真っ白で、怪書の正体に繋がるようなものは何も書かれていなかった。

「これって怪書で良いのかなあ…」

 ふと降ってきた疑問を抱きつつも、琴緒は文子がやっていたように、適当な頁に栞を挟んでみた。すると、光は消えて白いだけの本になる。どうやらこれも怪書で合っていたようだ。

 琴緒はそこで安堵し、怪書が収蔵されている禁書庫へと向かった。



「あっ、草吉さん!」

 禁書庫の手前にある地下の書庫で、琴緒は草吉を見つけた。草吉は琴緒に気が付いて、近くまで来た。

「おや、業務中にここに来るのは珍しいですね。…もしや、その本は…」

 草吉は琴緒が手にしている本を見た。

「そうなんです、怪書を見つけて捕まえたんですけど、やけにあっさりと捕まえることが出来てしまって…」

「あっさりと? ふむ…長年怪書に係ってきましたが、すぐに捕まえられたのは初めて聞く気がしますね。ともかく、禁書庫で詳しく見て見ましょうか」

 草吉はそう言うと、禁書庫へ歩き出し、琴緒もついて行った。



 前回禁書庫に入ったときと変わらず、怪書の棚はまるで万華鏡化ステンドグラスのように美しい様相を呈していた。

「その怪書を見せてもらっても宜しいですか?」

 草吉に頼まれた琴緒は、怪書を渡した。真っ白な怪書をめくる草吉は、特に大きな反応を見せることもなく、最後の頁もめくって本を閉じた。

「ふむ、特に目新しい点は見当たりませんでしたね。怪書を確保したときの状況を教えてください」

「ええとですね、何気なく本棚を見たら、背表紙が光ってまして――」

 琴緒は怪書発見から確保までの流れを、何とか草吉に伝える。琴緒としては伝わっているかどうか不安であったが、話し終わった後の草吉の様子を見ると、伝わってはいるようであった。

「そこまで大人しい怪書がいたんですねえ。まあ、怪書の行動原理は今でも分かっていないので、そんな怪書がいても不思議ではないですが…。とにかく、何事もなく確保出来たのは何よりです。収蔵しておきましょう」

「そうですね、お願いします」

 草吉の言うことは尤もであると思い、琴緒は怪書の後始末を任せることにした。――その後は業務に戻ったが、何も変わったことはなく一日が終わったのであった。



 大人しい怪書を捕まえた翌日、琴緒はいつものように業務に励んでいた。冬に近付いて外の気温が下がるにつれ、客足も遠のいている。休日はそれなりに客入りがあるものの、平日は殆ど人がいない。それでもこの大図書館がやっていけるのは、定期的に複数の業者が買い取りに来てくれる為である、と琴緒は文子から聞いた。業務の内容は多少減ったものの、膨大な量の書籍のお陰か、琴緒の仕事が暇になることはなかった。

 昼食を街ですませた琴緒は、午後からの仕事も頑張ろうと一つ伸びをして、本棚へと向かった。貸し出し状況と本棚の空きが一致しているか確認する作業に入ってから十分も経たない内に、異変に気が付いた。

「……えっ!?」

 思わず琴緒は声を上げてしまった。実に一日ぶりの驚きである。――目を離した隙に、近くにあった一冊の本が、まるで鬼灯提灯のような朱色の光を放っていたのだ。これは十中八九怪書である。しかし、昨日捕まえたばかりの怪書が、次の日も現れることがあるのだろうか。そして、またしても周囲には客も文子もいない。琴緒は今回もまた、一人で怪書と対峙することとなった。

 琴緒は怪書の前に立つ。怪書は特に逃げる気配はなく、単に光を放っているだけである。琴緒は怪書に背表紙に触れるが、何も反応しない。そのままするっと本棚から抜き取ることが出来た。

「うーん……」

 またもやあっさり捕まえることが出来てしまった琴緒は、困惑のあまり唸ってしまった。試しに怪書を開いてみるが、中身は昨日と同じく何も書かれていない。違いといえば、放つ光の色と、こちらの方が昨日のものよりもやや頁数が多いくらいのものである。一応鎮めてみようと琴緒は栞を取り出し、挟んだ瞬間に光は収まって、朱色の装丁と白紙の頁のみの本となった。

「どうしよう…草吉さん書庫にいるかな?」

 独り言を呟きながら、琴緒は地下の書庫へと向かった。

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