後編
女性――名前を尋ねると、彼女は“水島”という名であることが分かった。水島さんには二階で待っていて貰うことにして、私は文子さんを探しに行った。探しに行く、といっても文子さんの居場所は分かっている。業務の前に文子さんが、
『じゃあ私は午前中、7階で本の貸し出しの仕事をしてるから』
と予め私と草吉さんに伝えていたのだ。早速7階に行くと、貸出台の裏で、安楽椅子に身を預けて読書をしている文子さんがいた。いかにも暇を持て余している、という雰囲気である。私と文子さんは、ほぼ同時に互いの存在に気付いた。
「ん? 琴緒ちゃんどうしたの?」
「お仕事中すみません、実はですね――」
私は文子さんに、絵本のことを話した。すると、文子さんは俄かに思案顔になる。
「目録に無い本かあ。もしかしたら、新刊かもしれないね。それ、半年前のやつだから情報も古いだろうし。分かった、私も児童書専門の書架だけじゃなくて心当たりがあるところから探してみるよ。琴緒ちゃんも手伝ってくれるかな?」
「はい、勿論です!」
私はほっとしながらそう答えた。
「じゃあ、私はまずこの7階から上に向かって調べてみるから、琴緒ちゃんは6階から書庫までをお願いね」
文子さんの指示に私は頷きながら返事をする。その前に、水島さんにはまだ時間がかかることを伝えに行かなければならない。私は一旦2階へ戻り、水島さんに説明した。
「す、すみません…こちらこそお時間を取らせてしまって……」
「いえ、これも私たちの仕事なので。なるべく早く見つけられるようにしますね」
水島さんは何度も軽く頭を下げ、首を痛めないか心配になる程であった。
私は今居る2階から探して、改めて六階に上がることにした2階の児童書の書架を、注意深く見ていく。“かっぱ”という文字と『かっぱの川ながれ』という題名に掠める本はあるが、『かっぱの川ながれ』そのものは無かった。気を取り直して、2階へと向かう。
――6階の関連がありそうな書架を、2階と同じように目を皿のようにして探す。ここにもやはり件の絵本は無かった。それにしても、厚さも色も違う背表紙を延々と見続けていると、皿にはならなくとも目はチカチカしてくる。一旦目を閉じて少し休めたあと、5階に下りた。
◆
書庫まで探し回った結果、私はついぞ『かっぱの川ながれ』を見つけることは出来なかった。疲れた目の瞼を閉じて目頭を指で押さえつつ、文子さんを書庫で待った。私の方はなくとも、文子さんの方には収穫があったのかもしれない。
数十分後、文子さんは書庫にやって来た。ただし、眉間に皺を寄せて腕を組み、少々近寄りがたい雰囲気を纏っている。その雰囲気に気圧されつつも、私は恐る恐る文子さんに近付いた。
「あのー、文子さん?」
「ん? あ、琴緒ちゃん。そっちは見つかった?」
「いえ…ということは、文子さんも?」
「うん、そうなんだよー…」
まさかの返答に、今日何度目か分からない衝撃を私は受けた。私はともかく、文子さんは書架楼全ての本を把握している筈である。
「記憶には自信があるけど、やっぱり私の記憶にもその題名の絵本は無いし、実際探してみても無かったんだよね」
それから少し唸り、文子さんは黙って考え込んでしまった。やはり、本ならば何でも揃う筈の書架楼でも、例外中の例外らしい。ふと、私は先程までの絵本探しを思い出す。あの行動は今までに一度したような気がする――と、ここで次に、初めて怪書を探したときのことが頭に浮かんだ。
「まさか、探している絵本って怪書なのでは…?」
「んー、その可能性は低いかな。水島さんって人はその本をしっかり認識しているし、それに怪書はここでしか発見されないからね」
私の推測は文子さんにあっさり否定された。特に落ち込むことはないが、逆に探している絵本の謎は私の中でますます深まっていく。
「もうこうなったら、水島さんにもっと詳しく聞いてみるしかないね!」
文子さんはまるで一大決心をしたかのように言った。確かに、文子さんもお手上げ状態である以上、更に絵本に関する情報が必要だろう。文子さんは意気揚々と昇降機へと向かった。ふと私はここで、今日の分の業務は大丈夫なのか、と気になってしまった。
文子さんと二人で2階に上がって水島さんの元へ行くと、人数が増えていることにぎょっとしたようであった。
「失礼致します。当館で本をお探しの水島様、ですね? 私は当館司書の西園寺と申します。先程から長く御時間を取らせてしまい、大変申し訳ございません。二人でお探しの絵本を探してはいるのですが、なかなか見つからなくて…。重ね重ね申し訳ないのですが、絵本についてもっと詳しいことをお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
文子さんはかなり丁寧な口調で水島さんに訊いた。水島さんの方はというと、徐々に面食らった表情が消えていき、代わりにまた申し訳なさそうな顔に戻った。
「分かりました…。ええと、何からお話しましょう…?」
「そうですね、作者の名前と、物語の内容を教えてください」
文子さんが柔らかい口調で尋ねると、水島さんはおずおずと話し始めた。
――絵本『かっぱの川ながれ』の作者は文・画ともに“
「……何度もすみませんが、もう一つ質問してもよろしいですか?」
「は、はい……」
「その絵本がいつ出版されたか分かりますか?」
「すみません、私が生まれた頃には既にあったので、正確な日付は分からないんです。私が今28歳なので、少なくともそれくらいだとは思うんですけれど…」
「そうですか、ありがとうございます。…また少しお時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
文子さんの伺いに、水島さんは頷きで返した。
「琴緒ちゃん、ちょっとこっち来てくれる?」
文子さんは小声で私を呼び、私は黙って従った。文子さんと私は入り口の貸出台の側にまで移動する。私を見る文子さんの表情は、また険しいものになっていた。
「…参ったなあ。全部とまではいかなくても、ある程度の量、書架楼の本はさわりの部分まで把握していたつもりだったのに…」
「ど、どうしたんですか?」
突然弱気な声を出す文子さんに、私はぎょっとした。
「今詳しく話を聞いてみたけど、私の記憶の中に、やっぱり『かっぱの川ながれ』がないんだよ。いや、私の記憶が正確じゃないことは分かってるよ? ただ、目録や実際に本棚を探してみても見つからないってことは、この書架楼には無い可能性が高いね」
「えっ!?」
文子さんの言葉に私は反射的に叫び、すぐに口を閉じた。水島さんが吃驚していないか心配である。
「琴緒ちゃんの驚きは分かるよ。書架楼に存在しない本は無い、って巷で言われてるくらいだもんね。流石にそんなことはないし、世界中全ての本がここにある訳でもないし。ただ、国内にある本は殆ど所蔵している筈なんだよ。だから私も驚いてる」
文子さんは苦笑した。きっと、困り果てた末に出た笑いなのだろう。
「あの、今までにこういったことはあったんですか?」
ためしに私は訊いてみた。
「まだ発売されてない新刊がないか訊かれたことは何度もあるけど、探している本が無いってことは今回が初めてだよ」
文子さんの答えに、私はまた驚きの声を上げそうになるのをぐっと堪える。
「うーん、ここは申し訳ないけど…」
「おや、お二人とも此処にいらしたんですか」
文子さんの声を遮ったのは、昇降機から降りて来た草吉さんであった。
「文子さんも吾妻さんも、午前中の業務の場所に居なかったので探したんですよ。まさか、二人一緒にいらっしゃるとは」
「すっ、すみません!」
いつもの表情と口調ではあるものの、草吉さんに職務怠慢を指摘されたと思った私は、すかさず謝った。
「いやー、これには色々事情があって。二人で本を探さざるを得ない状況になっちゃって」
一方文子さんは全く悪びれる様子もなくそう答えたあとに、私たちの事情を説明した。
「ふむ、それは中々に難儀ですね。書架楼は書物の種類と数だけはかなり自信を持っていたのですが…」
草吉さんもそこで苦笑した。やはり草吉さんにとってもかなり珍しいことなのだろう。
「もう少し、その絵本について詳しいことを訊かせて貰えませんか?」
草吉さんの質問に、文子さんは的確且つ手早く答えた。すると、そこで草吉さんは口許に手を当てて考え込む。
「…少々待っていただけますか? 父にその絵本の作者について訊いてみようと思います」
「何か心当たりがあるの?」
「はい。父…館長ならばこのような事態にも遭遇したことがあるかもしれないと思いまして。先程、館長室に入って行ったのを見かけたので、今ならすぐに話を聞くことが出来るかと」
「成る程ねえ。それじゃあ、草吉さんの報告を待ってみようか」
文子さんは私に向けてそう言うと、私は頷いて了承の返事をした。草吉さんは昇降機に乗り、早速地下の一角にある館長室へと向かった。
◆
そう時間が経たない内に、草吉さんは戻って来た。その表情はいつもの柔和なものの中に、晴れやかなものがあるように見える。
「ここには無い絵本の謎が解けましたよ」
草吉さんは嬉しそうに私たちに告げた。やはり、良い報せであった。
「館長、やっぱり知識の量が段違いだなあ。それで、その絵本の謎の真相は?」
「それは水島さんに直接お話することにいたします。お二人もついて来てください」
文子さんに対して勿体ぶるように草吉さんは言うと、次に水島さんがいる場所を尋ねた。
この階にいる水島さんのところへ、今度は三人で向かう。暇を持て余していたのか、本を取り出して読んでいた水島さんは、やって来る人数が増えていることに気付いて、またぎょっとしながら本から顔を上げた。流石の私でも、ぞろぞろと三人も来られたらあんな表情をしてしまうだろう。
「度々申し訳ございません、私は当館で古書の売買を担当しております――」
草吉さんは文子さんと似たような自己紹介をし、自分がなぜ水島さんの前に現れたのかを丁寧に説明した。
「そして、お探しの絵本のことですが…」
説明が終わったところで、草吉さんはいよいよ本題に入る。水島さんだけでなく、私と文子さんも固唾を呑んで次の言葉を待つ。
「残念ながら、当館には存在していません」
草吉さんのその一言に、水島さんは一度大きく目を見開いたあと、肩を落とした。私も同じ気持ちである。だが、草吉さんの話にはまだ続きがあった。
「と申しますのも、実は『かっぱの川ながれ』はこの世に一冊しかなかったのです」
「え……?」
水島さんは再び目を見開いた。
「どうしても私も絵本の行方が気になりまして、今度は作者の丸山紀行さんの方を調べてみたんです。丸山さんは、実家の呉服屋を継ぎながら絵本作家を目指している方でした。残念ながら絵本作家として名を残すことは出来ずに、五年程前にその生涯を終えられたそうです」
「そう…だったのですね。でも、どうして無名の作家さんの絵本が、我が家にあったのでしょう…?」
「丸山さんは子供が生まれた夫婦に、破格の依頼料で絵本製作を請け負っていたそうです。それも、各夫婦の要望を訊いて物語を作っていたので、同じ絵本は二つとして存在しないのです。恐らく水島さんのご家族も、水島さんの為に丸山さんに絵本の製作を依頼されたのでしょうね」
草吉さんの説明で、やっと絵本が見つからない謎が解けた。しかし、だとするならば、水島さんが持っていた絵本はどこへ行ってしまったのだろうか。すると、水島さんは途端に悲しそうな表情になる。
「…そんなに…大切なものだっただなんて…。…『かっぱの川ながれ』は、今でも私の中でずっと残っている物語なんです。母が他の絵本を読み聞かせようとしても、幼い私は『かっぱの川ながれ』を読んで欲しいとせがんでいたそうです。…私の家は父の仕事の都合でよく転勤があって、引っ越しも何度かしたのですけれど、きっとそのときに絵本は紛失してしまったのかもしれません……」
そう言い終えると、水島さんははらはらと泣き出した。草吉さんは懐からさっと格子模様のハンカチを水島さんに差し出し、水島さんは、すみません、と言って受け取った。
「実はですね、丸山紀行さんのことを調べていてもう一つ分かったことがあるのですが」
ハンカチで涙を押さえていた水島さんは、草吉さんを見上げた。
「丸山さんには三人のお子さんがいらっしゃいまして、その中で次男さんが父君の夢の跡を継いで、絵本作家を目指しているようなんです。勿論、御尊父と同じように、絵本の製作も承っていますよ」
草吉さんは再度懐に手を入れると、今度は一枚の紙片を差し出した。
「こちらがその次男さんの御名前と住所です。『かっぱの川ながれ』はもうこの世界には存在してないかもしれませんが…今度は娘さんに、成長したあともずっと心に残り続ける絵本を、贈られてみてはいかがでしょうか?」
「…っ、ありがとう…ございます…!」
水島さんは紙片をそっと手の中に包むと、大粒の涙を零した。私もつられて目頭が熱くなった。
水島さんは落ち着くと、何度も私たちに頭を下げて、晴れやかな顔で書架楼を後にした。
「水島さんの探していた絵本…はありませんでしたけど、真相が分かって良かったですね」
書架楼の入り口の前で、私は文子さんと草吉さんにそう話した。二人とも微笑んで頷いてくれた。
「ほっとしたら一気に力が抜けて、お腹空いちゃったよ。……って、もうお昼とっくに過ぎてるじゃない!」
文子さんは手持ちの懐中時計を見て吃驚した。文子さんの時計を覗き込むと、針は午後一時半を指している。時間を知った途端に、私もお腹が空いて来た。
「お二人とも、このままお昼休憩にしてはいかがですか? 僕がその間に司書代理としていますので」
「良いんですか? 草吉さんもお昼まだですよね?」
「お気になさらず。僕はいつでも休憩を取れるので」
「まあ確かに、草吉さんってご飯の時間が不規則なんだよね。夕方の中途半端な時間に突然おにぎり食べ始めたりするし」
「そ、そうなんですか?」
文子さんの口から、草吉さんの知られざる情報を思わずえてしまった。こう思うと失礼かもしれないが、確かに草吉さんは不何となく摂生な生活を送っているように見える。
「そういうことです。ですので、僕のことは気にせずお昼にしてください」
草吉さんの言葉に、私と文子さんは甘えることにした。食事が出来そうなB店を探しながら文子さんと歩いている最中に、私はふと、絵本を探している間に書架のチェックも同時にやっておけば良いことに気付いてしまったのであった。
◆
数日後、草吉さんの元に一通の手紙が届いた。それは、無事に丸山さんの息子さんに娘さんへの絵本製作の依頼が出来たことと、『かっぱの川ながれ』を一生懸命探してくれた私たちへのお礼の言葉が綴られていた。手紙には、洗濯されて丁寧に畳んである、格子模様のハンカチーフが添えられていた。
―了―
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