思い出の絵本

前編

 ――世界中の本を集めた書架楼に、無い本など存在しない――

少なくとも書架楼で司書として働く前はそう思っていた。しかし、世界には“絶対”など存在しないということを、私はこの出来事を経て痛感したのだった。


                     ―或る秋の日の琴緒の日記より―



                ◆



 初出勤の日以来、怪書には出会っていない。最近の私は専ら書架と本の位置を覚えたり、本の貸し出しの受付の練習をしたりと、実に司書らしいことをやっている。指導係は勿論、先輩司書の文子さんである。文子さんは丁寧に優しく教えてくれる。

だが、そこで思い知ったのは、文子さんの記憶力の凄まじさであった。地下の書庫から屋上を除いた最上階である十五階までの書架について、全て把握しているのである。それは、文子さんが説明するときにすらすらどんな本があるのか題名まで言えたり、利用者が誤った場所に戻しておいたのを、すぐに見抜いて元に戻したり、事もなげなくこなしていることから分かった。かくいう私はというと、文子さんの説明をメモに書き留めるので精一杯である。更にいえばそのメモも、ちゃんと取れているのかすら怪しいのだ。そんな私の様子を見兼ねてか文子さんは、

「大丈夫? ちょっと今の説明分かりにくかったかな?」

 と、時々心配そうに声を掛けて来る。文子さんの言い方に全く嫌味がないので、その分余計に自分の飲み込みの悪さが申し訳なくなってしまう。そんな日々が一週間ほど続いた頃には、

“私って、司書に向いてないのかな”などと強く思うようになっていた。 

 そんなある日、重い気分で仕事をしていると、ふと草吉さんがひょっこりと顔を出した。足音を一切立てずに(私が鈍過ぎるせいかもしれないが)現れたので、驚いて妙な声を一瞬上げてしまった。

「すみません、驚かせてしまったようですね」

 私のその反応を見た草吉さんは苦笑した。

「い、いえ、私が小心者なだけで…。草吉さんがここにいらっしゃるのは珍しいですね」

「そうですか? 実は日頃から結構館内をうろついたりしているんですけど、中々会わないものですねえ。でも今は偶然、吾妻さんに出会ったわけではないんですよ」

「え?」

 私はそこで小さく首を傾げた。そしてその直後に、私は草吉さんが自分に会いに来た理由を何となく察した。

「あの…私、何か大きなミスを…?」

 草吉さんが何かを言う前に、先に私は恐る恐る草吉さんに尋ねた。すると、草吉さんはまたもや苦笑する。

「いえ、吾妻さんは頑張っていますよ。むしろ、頑張り過ぎていないか心配で、会いに来たんです」

「私が頑張り過ぎ…? いえ、そんなことは…」

 私がそう返すと、草吉さんは小さく首を横に振った。

「何だか覗き見をしているようで申し訳ないとは思ったのですが、やっぱり言っておこうと思いまして。…吾妻さん最近顔色が良くないようですが、どうしたんですか?」

「えっ…その…」

「大丈夫です。文子さんには言いませんから。それに今、文子さんは地下の書庫にいますので」

 草吉さんは柔らかく微笑む。だが、さらりと私に気を遣って、文子さんが近くにいないタイミングで話しかけて来たのだ。根回しがしっかりされていることに少しだけ恐怖を覚えなくもなかった。

「少しの間、二人で話しませんか? 部下の悩みや不安を聞くのも、上司の務めですから」

 草吉さんにそこまで言われて、私は断るわけにはいかなかった。小さく承諾の返事をすると、草吉さんは「ここにはお客様がいらっしゃるので」と言って場所を変える提案をし、昇降機を使って屋上へ向かった。



 屋上には人っ子一人おらず、澄んだ秋空が視界の半分以上を占めてた。街を一望できる、手摺りのある場所まで移動すると、先を歩いていた草吉さんは私の方に向き直った。

「丁度、誰もいませんね」

 “いかにも話し易い”という風に草吉さんは言った。私としては話し難いことこの上ないが、観念して、最近自分が感じていることをぽつぽつと話し始めた。その間草吉さんは真剣な表情のまま、時折相槌を打っていた。そんな草吉さんに安心感を覚えた私は、いつの間にか心の中に有ったモヤモヤを全て吐き出してしまっていた。

「…そうでしたか。確かに、文子さんの記憶力は恐ろしいほどですからね。初めての仕事でいきなり凄い人の指導を受けると、自信がなくなってしまうのは痛いほどよく分かります」

「草吉さんも…ですか?」

 意外な言葉が彼の口から出たことに私は驚いた。

「ええ。父が文子さんを司書として雇い、僕が彼女の指導に当たったのですが…。彼女は立った三日間でこの書架楼にある本の位置を全て覚えてしまったんですよ」

「ええっ!?」

 私はつい、蒼天の頂にまで届きそうな程の声量で叫んでしまった。――文子さんのあの記憶力は、これまでの司書の経験から培われてきたものだと勝手に思い込んでいたが、まさか天賦の才であったことに驚き、当惑してしまった。

「僕も本当に驚きましたよ。僕は幼い頃から書架楼によく居ましたが、未だに全ての階の棚を覚えきれていないんですから」

 草吉さんは自虐するように笑った。

「ですから、吾妻さんが上手く仕事が出来ないのではなく、文子さんが人間離れしているだけなんです。先程も言いましたが、吾妻さんは十分頑張っていますよ。…しかし、そうは言われてもすぐに立ち直れるものではありませんよね。文子さんは自身の能力に自覚がないので、あくまでも悪気はないんです。ですが、それとなく今回のことは婉曲的に伝えておきますよ」

「あ…ありがとうございます!」

 草吉さんの気遣いに、私の胸のつかえは一気に取れた。そして、少しだけ自分に対する自信も持つことが出来たのであった。


                 ◆


 翌日、やや緊張しながらも書架楼に出勤すると、2階に上がるなり文子さんが現れたので私は心臓が止まるかと思った。

「お、おはようございます文子さん」

「おはよう! って、その前にごめんね! 琴緒ちゃんが困ってることに気付けなくて!」

「あ…いえ、もう大丈夫ですので!」

 目の前で深く頭を下げる文子さんを見て、草吉さんがそれとなく私の悩みについて文子さんに報告したことがよく分かった。それにしても、どんな風に、どのように言ったのかは気になる謝り方でもある。

「今度からはもっと気軽に何でも聞いてね? 私も後輩って初めての存在だから…お互い手探り状態だけど、一緒に頑張ろう!」

「はい、私の方こそよろしくお願いします」

 まるで勤務初日のような挨拶をしていると、文子さんの背後から草吉さんがいつものように笑顔でやって来た。私は慌てて挨拶をすると、文子さんも草吉さんに気が付いた。

「おはようございますお二人とも。その様子ですと、不安事は解消されたようですね」

「うん。琴緒ちゃんは気遣いの出来る子だから私も察することが出来なくってさ…。草吉さんも気付いたことがあったらどんどん私に言ってよね」

「承知しました。吾妻さんも、気になることがあれば僕か文子さんに訊いて下さいね」

「分かりました。…すみません、私がもっと積極的に質問をしていれば、お二人の気を揉ませることもなかったのに…」

 私が改めて謝罪すると、二人は同時に苦笑した。

「琴緒ちゃんはこの仕事を始めたばかりなんだから、分からないことが多いのは仕方がないよ。だから、もっと私たちを頼ってね。それじゃあ、琴緒ちゃんの悩みは解決、ってことで」

 文子さんの言葉に私は頷き、各々今日の仕事を始めるのであった。

 


                 ◆



 今日私が午前中にする業務は、本棚の見回りと整理であった。この業務は何度かやったことがあるので、文子さんの指導はもうない。ただ、この業務はかなり大変な内容である。というのも、その大変さの九割はこの図書館の本の数と種類の膨大さが原因である。

 文子さんから書架楼の書籍目録を渡されたが、分冊版であるにもかかわらず、百科事典並の分厚さがあるのだ。台車がなければもっと労力を要するであろう。この厚さにもう驚くことはなくなったが、大変な仕事に変わりはない。私は地道な作業が得意なので特段苦には思わないが、それでも骨は折れる業務である。

 2階の本棚から一冊ずつ、本が正しい場所にあるか、貸し出し状況と一致しているかどうかなどを中心に確認していく。我ながらこの仕事は確実にこなしているのではないか、と多少自惚れつつも集中していたせいか“その声”にはすぐに気が付かなかった。

「あの、すみません……」

「うわっ!?」

 私は手に持っている鈍器のような目録を落としそうになった。後ろを振り向くと、齢三十程に見える女性が立っている。女性の方も当然ながら、驚いた顔をしていた。

「ごっ、ごめんなさい、いきなり大声を出してしまって…」

「いいえ、こちらこそお仕事中にすみません……」

 私の方が悪いのに、女性の方が私よりも申し訳なさそうに頭を下げた。

「いえ! お客様に気付かなかった私が悪いので! あの、どうかしましたか?」

 私の方も謝罪をして改めて用件を訊くと、女性は顔を上げた。女性は私よりも小柄な人で、波打つ髪をお団子にし、紅葉柄の銘仙を身に着けている。控えめな雰囲気を纏っており、私に対して緊張しているような表情を見せていた。

「ええと、司書さんに探していただきたい本がありまして」

「分かりました。本の題名を教えていただけますか?」

「生まれたばかりの娘に読み聞かせたい絵本なんですけど…『かっぱの川ながれ』という題名で…」

「『かっぱの川ながれ』…えーっと……」

 私は丁度手元にある目録をめくる。児童書の項目を開き、目次からか行を見つけ、更に探していく。しかし、河童の文字が入った題名の本は数冊あるが、『かっぱの川ながれ』という題名の本はなかった。

「すみません、もう少し探してみますので…。お時間がまだ掛かりますが、よろしいですか?」

「大丈夫です。お手数おかけしてすみません……」

 女性はまた申し訳なさそうにそう言った。その様子に、こちらも早く探さねば、と気が急いてしまう。

 ――目録の分冊分すべてを探してみたが、一冊もその題名の絵本が見つからなかった。女性に対して申し訳ない気持ちよりも先に、驚きが先に出て来た。絶版の本でさえ扱っている書架楼に、無い本が存在するのだ。その衝撃のせいか、私の耳にはすぐに女性の声が入って来なかった。

「あのー……」

「あっ、はい! ええとですね…探してみたんですけど『かっぱの川ながれ』という本は見つかりませんでした」

「えっ…この書架楼でも…ですか……?」

 女性の方も私の発言に驚いて目を丸くした。女性の方も同じ考えでいたらしい。

「お時間を取らせてしまって本当に申し訳ないのですが、この目録のどこにも載っていなくて…」

「そう…ですか……」

 女性は明らかに落胆した表情を見せた。それを目にした私は、酷く良心が痛んでくる。そして同時に、私の中に疑問が浮かんできた。――本当に、この書架楼にその絵本は無いのか? と。私の探し方が足りないだけで、本当はちゃんと存在しているのではないか? と。

 そこでふと脳裏をよぎったのは、文子さんの顔であった。私ははっとして女性の方を見ると、女性はしょんぼりとした様子で踵を返していた。

「待って下さい!」

女性は私の声に再び驚いた顔で振り返った。

「あっ、すみませんつい大声を…。あの、私は書架楼の司書になってから日が浅いので、ここにある書物を把握しきれていなくて…。でも、私の上司なら、お探しの絵本を見つけてくれるかもしれません」

 私がそう言うと、離れかけていた女性は戻って来た。

「ほ、本当ですか…? すみません、よろしくお願いします……」

 女性はまた頭を下げる。しかし今度は少しだけ、声に喜色が混じっていた。

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