或る老爺が見たもの
一.
その老爺はとある日、書架楼で何とも言えないものを見た。
――老爺の趣味は街の書店巡りか、書架楼に出向いて読書をすることである。その日も書架楼に行く予定であった。老爺は出かける前に、自分の妻に念の為声を掛ける。すると、
「またですか、あたしは行きませんよ。ただでさえ家事やらご近所付き合いやらで忙しいってのに」
と、にべもなく断った。妻の言う〝忙しい〟とは、近所の奥方たちとの井戸端会議のことである。九分九厘、自分の悪口で盛り上がるのだろう、ということは口に出さずそっと胸に仕舞っておく。どこか楽しそうな妻を放っておいて、老爺はさっさと書架楼へと向かった。
老爺の家からも書架楼が見える。大通りから離れた場所に先祖代々住んでいるが、書架楼は老爺が物心つく頃には既にあった。幼い時分には不思議で面白い塔だと思っていたが、成長するにつれてあの建造物が奇妙なものに思えてきた。――とことん木造に拘っ高い塔。その内部には本だけが詰め込まれている。縦に長い図書館など、よく考えてみなくても異様である。しかも、個人が建てたものであり、つまりは私営の図書館なのだ。ここまで本への執念を感じさせる建物はないだろう。当然、老爺も初めてその事実を知ったときは不気味に思ったが、元々読書が好きであり、友人に勧められて思い切って行ってみると、見事にハマってしまった。妻を一度無理矢理連れて行ったことがあるが、その妻は尋常ではない本の量に圧迫感を覚え、一時期は書架楼の名を出すだけで拒否反応が出るようになっていた。出掛ける度に一応声を掛けてみるが、それ以来一度も〝是〟の返事は貰ったことがない。本好きな老爺にとって妻の気持ちはよく分からず、書架楼に行かないのは勿体ない、人生損をしている、と常々思っているのであった。
書架楼の前にある大通りは、花見の客で賑わっている。大通りの外れにある川沿いには、千本の桜が植わっており、それを目当てにする人々と、その人々を何とか店に呼び込む為に大通りの商店は華やかな仕様にしている。弁当や菓子の良い香りが、老爺の心を弾ませた。書架楼の帰りに、妻に何か土産を買って行ってやろう、と考えながら書架楼へと一歩ずつ近づいて行った。
書架楼の足元には、千本桜よりは控えめだが、美しく淡い春色の桜が咲き乱れている。ここには桜だけでなく、楓や銀杏など様々な種類の樹木が植えられており、季節ごとの木々の彩りを楽しむことが出来る。書架楼の周囲にある庭園には、本を目当てに来る者だけでなく、花見に来る客も多い。この楼閣の主――つまり館長は庭園と館内の飲食を禁止しているので、桜の下で下品などんちゃん騒ぎをしている輩はいないが、人が多い分落ち着かない。花見で賑わう人々を横目に、老爺は書架楼の中へと入って行った。
*
昇降機を使い、老爺は6階へやって来た。特に目的などはなく、何となく今日はこの階に行ってみよう、という勘に任せただけである。6階は千差万別な主題の大衆小説を中心に扱っている本が多い。この階ならば、自分好みの小説をいくらでも見つけられそうだ、と老爺はわくわくしながら本棚の前に立つ。
この図書館の面白いところは、文豪や名が売れ始めてきた作家の著書だけでなく、名が知られていない作家の卵の自費出版や、その作家の卵たちが集まって作った同人誌も置いてあるところである。名が有ろうが無かろうが、本として成立しているものならば何でも置くのがここの館長の方針らしい。若い作家を育てる、と聞こえは良いが、わりと無節操な気もする。老爺の気分は新進気鋭の作家より、名が広く知れ渡っている文豪の著作であった。古今東西の文豪の著作が揃っているが、今日は我が国の文豪の本を読もうと決めた。選び出すのにも時間がかかるが、それもまたこの図書館での楽しみ方の一つである。老爺は題名で気になった本を二冊選んで、読書用の机についた。
表紙を開いて、一頁、二頁と読み進める。物語の世界に没頭しそうになる直前、老爺は人の気配を近くに感じた。顔を上げて周囲を見回すと、一人の若い娘が、本棚と本棚の間をうろうろしているのである。最初は自分と同じく客の一人だろうと思っていたが、何度か観察していると、どこかおかしいことに気が付いた。――若い娘は、本と本の隙間まで何故かゆっくりと近付き、そして何故か何もない隙間に手を突っ込んでいるのだ。表情まではしっかりと読み取れないが、何か驚きと焦りが見えるような気がする。それにしても、その若い娘の不可解な行動に、老爺は〝あの娘を野放しにしていて良いのか〟という不安が生まれてくる。これはこの図書館の職員に報せた方が良いのではないか、と考えたところで、この図書館の職員を思い出す。
この図書館は膨大な量の本にも拘らず、表立って仕事をしているのは男女二人だけである。男の方は優男だが、片眼鏡に派手な洋装、その上に着流しを合わせた格好をしている。女の方はボサボサの長い髪に、地味な顔立ちに全くそぐわない見事な羽織を身に付けた格好である。一目見ただけで忘れられないその珍妙な二人が、この書架楼を回しているのだ。ちなみに館長の姿は、約十五年間通っている老爺でさえも見たことがなかった。女の方は司書であり、本を借りるときと返すとき世話になっているが、そつなく業務をこなしているので、見た目に反してしっかりしているのだろう。だが、かといって気軽に声を掛けるのも躊躇われた。
老爺が若い娘について職員に報告すべきか迷っていると、当の若い娘は肩を落としながら、6階の出口へと向かい、階段のある方に行ってしまった。そのまま気にせず読書を続けようかとも思ったが、逆に気になってしまう。――老爺は読みかけの頁に栞を挟んで、若い娘を追ってみることにした。
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