奔放な本
一.
上を見ても本、下を見ても本、左右を何度見ても本。身体を一回転させても全部本。書痴や本の虫にとっては極楽浄土の体現かもしれないが、そうでない人間には息が詰まりそうな監獄だろう。――それは書物の殿堂〝書架楼〟のことである。書架楼とはこの街にある大図書館の通称であり、建物の外観も木造の天高くそびえ立つ楼閣である。こんなことを言うと正気を疑われるかもしれないが、この書架楼は昇降機がある一階と屋上以外、15階と地下にある書庫全てに本棚が詰まっているのである。街の人でさえも一種の恐怖を感じるこの図書館に、私は司書として働くこととなったのである。
桜咲き乱れる春。書架楼の足元にある街は、花見で浮足立つ人々で賑わいを見せていた。通りの店先は、春に合せて砂糖菓子も桃色、萌黄色、若草色など可愛らしく華やかな色合いになっており、甘い匂いと相俟って購買意欲をそそられる。しかし、今の私は初出勤の途中であり、じっくり品定めをする余裕はない。買いたい、見たい気持ちをぐっと抑えて、店と買い物を楽しむ客を横目にしながらその傍を通り抜けるのであった。
正午を過ぎた頃に書架楼の門前まで来ると、満開の桜の樹――それも一株や二株ではなく、数十株の桜が視界の隅から隅まで広がっている。以前ここに来たのは去年の暮れ、それも一度きりであったので、針葉樹の緑と枯れ木しか目にしなかった為に首位はあまり印象に残っていなかった。しかし、春になるとこうも一変するのか、と思わず足を止めて暫し見入ってしまった。
花見もそこそこに、杉の大門をくぐり、書架楼の中へと入る。一階には本当に、上階に行くための昇降機の扉と階段しかない。書架楼の内部を知らない人にとっては、妙な感じがしてそのまま出て行ってしまうかもしれない。全く人を呼ぶ気がない造りなのに、私も含めてこの建造物、正確に言うならば、この中にある膨大な数と種類の本に惹かれて入って行くのは面白い。上階に昇るボタンを押すと、ガコン、という音が大きく響いた。鬼灯提灯が灯る昇降機に乗ると、指定された5階のボタンを押す。歯車たちが動き出し、連続して奏でる規則正しい駆動音は、私の好きな日常の音の一つである。その音色と共に僅かな浮遊感を体感している内に、5階に到着する。扉が開くと、すぐに背の高い本棚が視界の殆どを占めてしまった。この光景は今ので二度目だが、本の虫でも圧倒されてしまう。
「あ、いらっしゃい! 新人司書さん」
柔和で少しだけ抜けているような女性の声が、私のすぐ近くから聞こえて来た。左隣を見てみると、本の貸し出し受付の台に、小柄な声の主はいた。私は慌てて女性の方に向き直る。
「お久し振りです、西園寺さん。改めまして、本日からここで働かせていただくことになりました
私は少し早口になりながらも挨拶を終えると深く頭を下げた。
「文子で良いよー。いやあ、それにしてもこんなけったいな図書館に、若い人が司書として来てくれるとは思わなかったよー。それも、こんな可愛い女の子が!」
文子さんはケラケラと笑った。真正面に、それも嘘など全く感じさせない褒め言葉に、私は照れも入って上手く返せず、苦笑を浮かべることしか出来なかった。しかし、そう言う文子さんは、私など足元にも及ばない器量良しなのだ。だが、文子さんの格好が、その良さを打ち消してしまっている。
腰まである長い栗色の髪は好き放題にあちこちにハネており、それをたくさんのピンで留めて抵抗しているが、結局間に合っていない。大きな黒い瞳は、黒縁の壜底眼鏡に太い眉がそれを隠してしまっている。そして服装はというと、開襟シャツに袴という所謂書生さん風の格好である。それだけならば気にも留めはしないが、文子さんが羽織っている優美な着物がどうしても目立ってしまっているのだ。羽織は桃の花模様の西陣織であり、この羽織だけで数年間はご飯に困らないように見える。更に驚いたことには、前回会ったときとは豪華さはそのままに、柄が違うのである。前に初めてお会いしたときは年の瀬であったので、寒椿の柄であった。埃っぽい場所でも仕事をするのに、前回仕事の様子を拝見したときは汚れなど全く気にしていないようであった。もしかすると文子さんは名のある家の御令嬢なのかもしれないが、果たして御令嬢がわざわざ働いたりするだろうか。そして何より、文子さんには絶対に言えないのだが〝良いところの身分〟という雰囲気はあまり感じられない。悪い人ではない、というのは確信しているが、どうにも掴めない性格をしている人である。
「ふーむ、今、私のことについて考えてたね? それも悪い方向に」
ほんの数秒間の思考を見透かされた私は吃驚してしまった。すると、文子さんはにやりと笑う。
「お、当たったかな? まあ、奇人変人と思われるのは分かってるよー」
「い、いえ! そんなことは…西園寺…文子さんは優しい人だと思いまして…」
「あはは、ありがとう。琴緒ちゃんは素直な子だから、それは嘘じゃないね」
「いえ…」
あたふたする私を見ている文子さんは、大変楽しそうである。ふと、文子さんは「あ」と唐突に声を発した。
「そういや草吉さんに、琴緒ちゃんが来たこと伝えなきゃ。館長…は後でもいいか」
「えっ、良いんですか!? 館長さんはここの責任者で…」
「あの人はねえ、神出鬼没だから今ここにいるのかどうか分かんないんだよねー。その草吉さんは確実にここに居るからねえ。今呼んでくるから、んーと、この椅子にでも座って寛いでてねー」
文子さんはそう言いながら、受付台にある椅子を引き摺って来た。私が戸惑っている内に、文子さんは軽やかな足取りで昇降機に乗り込み、下の階へ行ってしまった。私はぽかんとしたまま、勧められた椅子には座らず突っ立っていた。
――文子さんの言う〝草吉さん〟とはここで働くもう一人の職員の男性である。働いているとは言っても、私や文子さんのように司書としてではない。この書架楼はただの図書館ではなく、古書の売買も行っているのである。その売買の収益が書架楼の主な収入源となっている。そもそも書架楼は個人で建てた、つまりは私営の施設なのである。文子さんから聞いたところによると、館長さんのご先祖様が趣味で建てたものだという。あまりの壮大さに嘘だろう、とは思ったが、文子さんや草吉さんの姿を見ると実際それが真実だということははっきりと分かった。閑話休題。草吉さんはその売買の担当であり、古書の査定が出来る人なのである。本の整理や管理をする司書の文子さん、収入源となる本の査定を行う草吉さん――感傷はまあ置いておくとして、書架楼はこの二人がいて成り立っているのである。書架楼の存在を知りつつも事情をよく分かっていなかった私は、司書としてあっさりと採用されたその日に内部の実態を知り、酷く驚いたのであった。
結局文子さんから勧められた椅子に座ることなく、文子さんは草吉さんを連れて来た。
「こんにちは吾妻さん。今日からここで一緒に働く八橋草吉です。改めてよろしくお願いしますね」
「吾妻琴緒です。こちらこそよろしくお願いいたします」
またもや私は緊張しながら自己紹介をした。草吉さんは一言で言うならば〝淑やかな雰囲気を纏う美青年〟である。切れ長の朱色の瞳に、整った鼻と唇。艶のある美しい黒髪を後ろで一つに束ね、思わず見惚れてしまう麗しさである。しかし、その服装は文子さんに負けず劣らず強烈であった。右目にはモノクルを着け、開襟シャツに、クラバットを瑪瑙のネクタイピンで留めている。そこに藍染めの着流しに、黒地に鶴の紋様の羽織を身に着けている。――柔らかな声や物腰とは裏腹に、かなり派手な召し物である。この二人を見てからは、私の服装(ブラウスに、茶色のオーバーオールスカート、若草色のカーディガン)など、随分と大人しく見えてしまう。否、恐らくこの二人だけが奇抜なのだ。館長は草吉さんの実の御父上なのだが、ごく普通の着物姿であった。どうしてそんな服装にしているのか二人に訊いてみたい気持ちは山々だが、その勇気は全くなかった。
「ねえ草吉さん、館長は?」
文子さんは呑気な様子で草吉さんに尋ねた。
「館長はお昼を摂る為に外に出ていると思いますよ。確証はありませんけど」
「やっぱり。本当に自由だなあ。探しに行かなくて正解だったねー」
〝本当にその通りだ〟と私は心の中で首肯した。館長だけでなく目の前の二人も十分に自由だと思うが、これでずっと書架楼がもっているのが不思議である。
「館長には一度お会いしたんですよね?」
草吉さんは私に話を振った。
「はい。面接をしたときに一度だけ…」
「そうですか。まあ、しかるべきときには然るべき場所に居る人なのですが、普段はこんな感じで居場所が掴めないので。何かあれば僕か文子さんに訊いてください」
「はい、分かりました」
「司書の仕事は文子さんが指導、ということで良いんですよね?」
「うん、女同士だと話しやすいしねえ。これで職員同士の自己紹介も済んだことだし、早速仕事の説明をしていこうかな、って」
「分かりました。僕は大体二階か地下の書庫に居ますので、古書の査定に来たお客様が迷っていたら案内してあげてください」
草吉さんの言葉に私はまた返事をすると、草吉さんは柔和な笑みを浮かべた。
「それじゃあ、今から司書のお仕事を始めようかー。草吉さんも、わざわざありがとう」
「え、もう挨拶は終わりですか? まあ…お話なら今後いつでもできますから」
あっさりとした文子さんに対して、草吉さんは苦笑した。
「そうそう。それじゃあ行こうか、琴緒ちゃん」
「あっ、はい!」
「いってらっしゃい、頑張って下さいね」
私は草吉さんの応援を受け、また深く頭を下げた。その間に文子さんは悠々と本棚の方へと歩いて行く。私は慌てて文子さんについて行った。
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