後編

 書架楼の一階ごとの面積はさほど広くはないが、本の量が膨大であり尚且つ高い所にまで本が詰まっている。その為に目的の本を探すのは普通の図書館よりも困難である。だが、私の場合は書痴なせいもあるのか、目的の本を探している間に別の面白そうな本を見つけることも楽しみの一つにしているので、苦にはならないのだ。どうやら客は私一人だけらしい。本棚に貼ってある案内を見て、天文学の分類の棚を探し、発見した。

 本棚に近付くと、本の匂いがより濃くなって鼻腔に入って来る。和綴りから洋書、豪華本に絶版したもの。それらの本が混沌として棚に鎮座している。古きものから新しきものまで、時代ごとにまた本の薫りも違うのだ。どちらかといえば私は刷りたての新刊の匂いが好きだが、古書の匂いもまた味わい深いものがある。こんなことを考えていると自分は前世どころか、現世でも実は紙魚なのではないかと錯覚していまいそうになる。本の薫りを堪能するのもそこそこに、本探しに力を入れる。

 目的といっても今回は欲しい本がしっかり決まっておらず、ただ気になる本は片っ端から借りていこうというつもりである。本の背表紙を目でなぞっていると、いくつか面白そうな題名タイトルの本を見つけた。

『アマツミカボシの眼』『銀河そして宇宙の原初』『化け鯨が星となった理由』――天文学そのものから、神話や民間伝承にまで言及している本が、書架楼の法則によって並べられている。多方面からのアプローチも面白そうだ、と私は興味を惹かれたものから手に取って読んでみる。大袈裟な題名の割に語彙力や中身そのものが乏しかったり、言い回しがくどかったりと肩透かしな本もあれば、堅実で理路整然とした内容であったり、突飛な発想ではあるが着眼点が独特の、濃い中身であったりと、本の個性を一冊一冊吟味していく。ふと、本棚全ての本に手を伸ばして読みそうになってしまっていることに気が付き、私はじっくりと読みたいと思った本を5冊選んで本棚を離れた。

「あ、おかえりなさーい」

 受付台に本を持って行くと、文子さんがふわふわとした調子で私を出迎えた。まるで私が小旅行から戻って来たようである。私は何と答えればよいのか戸惑った。

「良かったあ。あと半刻ほどで閉館だったので、そろそろ声を掛けようかと思ってたんですよー」

「そんなに時間が経っていたんですね」

 書架楼の閉館時間は遅い方なので、外はとっぷりと日が暮れてしまっているだろう。

「はい、返却期限はいつも通り本日から一か月後です」

 私とちょっとした雑談をしている間にも、文子さんは手早く貸出しの手続きを終えていた。本当に器用な人である。

「借りる本は決まったようだね」

 背後から急に草吉さんの声がしたので、私は再び驚かされることになった。

「あれ、草吉さんまた来たんですか? ホントに自由ですねえ」

 一方文子さんは平然と草吉さんに話しかける。

「ええ、もう査定に来るお客さんもいないでしょうから。暇だったので屋上まで行ってみたんですよ。今夜は星と月が綺麗でしたよ。あなたも帰りのついでに立ち寄ってみては? 閉館が近いのでゆっくりとはしていられませんが、かといって慌てる時間でもないですから」

「…そうですね。久し振りに行ってみます」

 私はそう言って借りた本を受け取り、空っぽの手提げ袋に仕舞うと草吉さんの勧めに乗って屋上に向かうことにした。

「落ちないように気を付けてくださいねー」

 昇降機へ乗る直前に、文子さんが全く心配していなさそうな口調でそう言うので、私は思わず笑ってしまった。昇降機に乗り込み、私はそこで文子さん、草吉さんと別れた。


                 *


 私がいたのは最上階だったので、屋上へはすぐに着いた。昇降機を降りた途端、秋の夜風が強く私の全身を叩いた。

 屋上は誰もが出入り自由であり、本ではなく展望目的でこの屋上に来る者も多い。今は閉館時間が近い為、誰もいなかった。屋上の周囲には木造の手すりが設置されているが、落下防止としてはどうも心許なさすぎる。しかし、ここから飛び降りて死んだ、という報告は聞いたことがない。そのお蔭で屋上はこうして今も開放されている。

 私は高所に吹く夜風の冷たさを沁みるように感じながらも、手摺りにまで近付き、眼下に広がる街を眺めた。青、紅、黄、白、桃など、鮮やかな色彩の鬼灯提灯が私の足元で燦々としているのを見ると、まるで玉虫色の光の上に立っているような感覚に陥る。そして天上は、草吉さんが言った通りに十六夜の月と、数多の星々がぬばたま色の夜空に煌々と輝いている。今にも天に手が届きそうで背伸びをして見上げてみると、一瞬眩暈がした。私は何とか体勢を立て直して、また街を眺める。

 ――不意に、今私がいるのは白玉楼ではないか、という有り得ぬ想像が浮かんできた。おかしなことに、今の私には何が現で何が夢なのか、はっきりと判断出来ないでいるのだ。もしかしたら、今は実は夢の中なのかもしれない。本は、著者たちの分身であり、魂を込めたものである。書架楼はその著者たちの魂の欠片を集めて、この塔を築き上げた。そんな建物の上にいるせいか、ついそう思ってしまうのだ。

 私の秘かな夢は、この書架楼にある本を全て読了することである。しかし、人がこの世界に在り続ける限り、本もまた生まれ続ける。その本を追っている内に、私はいつか本の世界の中に永久に閉じ込められてしまうかもしれない。だがそれは私にとっての本望であり、理想でもあるのだ。本を追い続け、そうして歳を経て肉体が滅びれば、本物の白玉楼に行くことが出来るだろうか。――それもまたきっと、遠い未来の話である。

 私はそんなことを夢想しながら、書の塔の頂に立って、控えめに地上を照らす十六夜月をしばし眺めていた。



                                 ―了―

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