書架楼物語

鐘方天音

白玉楼を夢むー或る書生の小咄ー

前編

 群青色と茜色が混ざり合う夕空に聳え立つ銅色あかがねいろの塔が、街から抜きん出てよく見える。塔、というよりは巨大な木の柱に見えるその建物の正体は図書館である。『百軒の書店、千軒の古書店を探しても無い本があるのならば〝書架楼〟へ行け』というのがこの街の人々が幼い頃から身に沁みついている言葉である。私もその教えを知っているので、図書館もとい〝書架楼〟と名付けられた場所へ向かう。そもそも、新刊を求めない限りは、書架楼へと向かえば良いのである。

 秋も深まった街道には屋台が並んでおり、芋や栗を蒸したり焼いたりしている甘い香りが漂っている。それを横目に通り過ぎて苔むした杉の大門をくぐると、そこはもう書架楼の敷地内である。書架楼の周囲には館長の趣味なのかどうかは分からないが、松、梅、桃、桜に加えて海棠や木蓮まで、とにかく樹が多く植わっている。四季折々の花や葉を楽しみたいのか、それとも適当に植え続けた結果こうなったのかは分からないが、とにかく書架楼の足元を彩っているのは確かである。今は楓と銀杏が見頃である。私はそれらの効用を視界の端で流し、書架楼内部へと足を踏み入れた。

 歯車とゼンマイ仕掛けで動く木製の自動扉を抜けると、すぐ目の前に長い階段と昇降機の扉がまず目に入って来る。自分の足で上るか、歯車に頼るか選べと言われているようである。2、3階に用があるのならば階段でも構わないが、何せこの建物は15階もある。健脚でなければ須く昇降機の方を利用するだろう。私も当然、有り難く昇降機をいつも通り使わせて貰うことにする。

 昇降機の中は乳白色の鬼灯提灯が点いており、指定の階を押すボタンはタイプライターの打鍵のようになっている。私は最上階のボタンを押すと、扉はひとりでに閉まり、昇降機は上昇を始めた。ガタン、ゴトン、と規則正しく聞こえる歯車の駆動音はいつ聞いても心地が良い。ただ、内臓全体が脳天から優しく引っ張られるような奇妙な感覚は、いつ来ても慣れないでいる。駆動音を聞き、浮遊感に似たものを感じながら立っている内に、最上階へと辿り着いた。


                 *

 ――昇降機から出てすぐに相見えるのは本、本、本である。図書館なので当然とも言えるのだが、ここは一目で視界に入り切る本の量が違う。目が眩むほど高い天井と照明にギリギリ付かない高さと、何とか通路を作っている程度の幅のある本棚が、この階に入れるだけあるのだ。その天井にはやや埃被った白色の鬼灯提灯がぶら下がり、床は藤色の絨毯が敷かれている。壁はといえば、やはり本棚が密集して並んでおり、本棚自体が壁のようなものである。少しだけ見える隙間からは、壁が元々は木目のある板壁だということが分かる。

 この建造物は地下の書庫に1階から15階まで、このように少しでも隙間があれば本が置かれている状態である。ここまで来ると館長の執念や意地とも思えて来て、本や棚の重みで床が抜けはしないだろうかという心配は逆に無粋な気さえする。それに、私もこの空間はむしろ心地が良い。狭い場所もそうだが、大好きな〝本〟に囲まれているのが好いのだ。紙と洋墨、そして木の薫りが混ざり合った空気も、身体の隅々を食物だけでは満たしてくれないようなものを与えられている気分になる。

 空間の空気を味わうのを切り上げて目当ての本を探そうとしたそのとき、

「あれー、いらっしゃーい」

 柔和で、そしてどこか抜けている婦人の声が私を呼び止めた。私は振り向いて、声を掛けた婦人を見る。昇降機の近くにある受付台で、安楽椅子に腰かけて悠々としている彼女がいた。

「こんにちは、文子ふみこさん」

 私は受付台に近寄ると、そう挨拶をした。彼女―文子さんはまた気が抜けた声で「こんにちはあ」と返した。

文子さんはこの書架楼に勤める司書である。栗色のあちこち跳ねている長い髪をヘアピンで留めているのだが、跳ねている箇所以外にもヘアピンで留めている為、頭部はヘアピン地獄である。服装はというと、開襟シャツの上に羽織袴といういわゆる書生風の格好である。全体的に野暮ったいのだが、羽織だけは見事なものであり、蝋梅をあしらった華美な友禅であった。文子さん自身も瓶底眼鏡に太い眉という同じく野暮ったい雰囲気があるが、顔の造形自体は愛らしく、見目は良い方であるので尚更にその風体が勿体無く感じられる。

「今日は何かを探しに来たの? それとも古本の売買?」

 文子さんの言う『古本の売買』とは文字通りの意味である。この書架楼は通常の図書館とは異なり、古本屋の役目も果たしているのだ。貸し借りは通常の図書館と同様に無償で行われるが、どうしてもずっと手元に置いておきたいと思った本をここで見つけた場合、直接買うことも出来、そして不要になった本は売ることが出来る。そして、希望すれば本の寄付も出来るので、この塔だけで本の流通、読書の享受が完成していると言っても過言ではない。では、街の書店は書架楼に対して難色を示しているのかといえば、どうやら違うらしい。書架楼は、街で書店を営む商人たちですら知らない独自のルートで新書から古書までを入手しているらしい。そして、入荷できなかった本を書店側は書架楼に安値で売って貰えるので、書店側にとって書架楼は仕入れ先の一つになっており、今日まで共存出来ているのである。

「いえ、今回は天文学関係の本を探しに。あ、あとこれ返しますね」

 私は文子さんに用件を伝えると、手提げ袋に入っている借りた本を受付台の上に載せた。重量感のある音が一瞬したあと、文子さんは元々大きい目を更に大きく見開いた。

「えっ、この全集もう全部読んじゃったの!? 三日前に借りたばっかりなのに!?」

「はい。時間を忘れて読んでたら、いつの間にか全て読了してたんですよ」

「君はホントに本の虫だねえ。いや、こういう仕事をしている人間にとっても本にとっても、君のようなヒトは有り難いんだけどね」

 文子さんは苦笑しながら全集を改め、慣れた手付きで揃っていることを確認する。その作業はあっという間に終わり、前週は文子さんのすぐ傍にある返却用の台車の上に置かれた。

「えーっと、もう本のある場所は分かるよね?」

「はい。ここの常連ですから」

「…おや、誰と話しているかと思えばあなたでしたか」

 文子さんと私が話していると、心地の良い低い声が間に入って来た。それまで全く何の気配も無かったので、私は肝を抜かした。

 突然姿を現したのは、古本の査定を専門としている草吉そうきちさんであった。絹のようなつやのある真っ直ぐな長い黒髪を後ろで一つに結わえ、切れ長の朱色の瞳に、筋の通った鼻梁の、中性的な雰囲気を持つ美丈夫である。しかし、その美しい顔立ちにも拘らず、その服装は文子さんと同様に奇天烈なものである。右目にはモノクルを掛け、開襟シャツにクラバットを瑪瑙のネクタイピンで留めている。更にその上には藍染めの着流しに、黒地に鶴の紋様の羽織という〝傾奇者〟としか表現できないものなのだ。私は貧乏な書生なので、貧相な格好がより貧相に見えてしまう。文子さんといい草吉さんといい、この書架楼には傾奇者のような職員が大勢いる。そんな恰好をしているのならば近付いて来ればすぐに分かる筈なのに、私は草吉さんの気配を本人が来る前に察知できたことは一度も無いのである。草吉さんは実は幽霊か忍びの類ではないだろうか。

「こ、こんにちは草吉さん」

 私は少し動揺しつつも草吉さんに挨拶をした。 

「こんにちは。…でももうこんばんは、ですかね。空に十六夜の月が出始めた頃ですよ」

「えっ、もうそんな時間ですか? あ、それより聞いてくださいよ草吉さん! この人、三日間でこんなに分厚い本を10冊全部読んじゃったんですよお!!」

 文子さんは草吉さんに興奮気味に話した。草吉さんは柔らかな笑みを崩すことなく、ただ「ほう」とだけ呟いた。

「あなたはやはりここの職員に向いているんじゃないですか? どうです? 書架楼うちで働くというのは」 

「いえ…私はただ本が好きなだけで、管理とかには向いていない性格ですから。接客もしなければいけませんし、文子さんや草吉さんのようにどこにどんな本があるかなんて、完全には覚えられませんよ」

 私は苦笑しつつ、書架楼への就職を断った。

「ええー、そんなのは慣れですよー。私もここに入ったばかりの頃は…あ、昔からここに通ってたから、場所とかは覚えてた」

 文子さんはさらりと言ってのけたが、昔から通っている私でさえ15階全ての本の場所など覚えられない。文子さんは、常人の域を超えた記憶力を持っている。草吉さんは草吉さんで、査定する本の年代、改訂第何版までのものなのかを一目見ただけで当ててしまうという、超人そのものの能力を持っている。その上、ここの職員の殆どがこの二人と似たような超人的な能力を有しているのだ。そんな中にただ本が好きなだけの私が入って行っても、仕事は勤まらないだろう。建物の構造だけでなく、内部もここは浮世離れしているのだ。

「ああ、そういえばここには本を探しに来たんでしたっけ」

文子さんが思い出したように言うと、私も自分の目的を失念していたことに気が付いた。

「おや、それはお邪魔をいたしました」

「いえ、私も忘れていたので。それでは」

私はそう言って二人に断りを入れると、その場を辞した。そこからは本棚の間を縫うように歩き、天文学の本を探し始めた。

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