第13話 京都決戦・潜入!法垂窟

木刀を握りしめたまま、ぼくはとにかく走った。走ることで、自分が侍さんを殺した一条兼定の子孫だという事実を忘れることができるかもしれないという淡い期待もあった。


しかし、それはただの現実逃避だった。走るだけで嫌な現実を忘れることができるなら、日本中は誰もが走っているだろう。



「勇!ええ加減にせんか!!」

今まで聞いたことがないほどの大きな声が、ぼくの耳元にこだました。


「一度止まるんじゃ。取り乱すでない」


「だって、だって!でもぼくは一条家の子孫だから、侍さんを殺した血筋で…」


「だってもヘチマもない!」侍さんは再度、一喝した。


「勇。ゆっくりと息を吸い込んで、大きく吐き出すのじゃ」


ぼくは侍さんに言われるがまま、深呼吸を繰り返した。さきほどまで灰色に染まっていた世界に光が差し込んだかのように、ほんの少しだけ心が落ち着いてくる。


「良いか。よく聞け。

儂は兼定様のこともお前のことも、恨んでおらん。儂が殺されたのは、自分自身に責任があったからじゃ。だからお主は、つまらん罪意識を持つな」


「…」


「とにかく、今は、勇がすべきことをするのじゃ。置き去りにした雪の元へ…」


「そ、そうだね」

ぼくはやっと我に返った。

一人で走り出してしまったので、雪を置いて行ってしまっていたのだ。

急いで先ほどの路地に戻ったとき、雪の姿はなかった。


地面には八坂神社で一緒に買ったお守りが落ちている。


「ゆ、雪…」

血の気が引いた。焦って彼女の携帯に電話をかけたが、繋がらない。付近を走り回っても彼女の姿は見つからない。


どこへいったのだろうか。もしかして、誰かに攫われたのか。

地理に明るくない京都市内で、携帯電話も繋がらない中、ぼくはどうやって雪を探し出せばいいかわからなかった。



―――――――――――――――――


「ここはどこ?」

目を覚ました雪は、柱に手足を縛られてガムテープで口を塞がれていた。

彼女の周りでは、数人のスーツ姿の男が待機している。


男たちの中でもひときわ威圧感を放っている男は、誰かと電話をしているようだ。


「2000万円だ。今日中に、今から指定する口座に2000万円を振り込め。さもないと娘の命はない」


「…」

電話越しの声は、雪には聞こえない。


この時の電話の相手は雪の母だった。しかし彼女は混乱のせいで、犯人への明確な回答を出せないでいた。いくら雪の父が市長とはいえ、2000万円という大金はすぐに出せない。さらに、父はこのとき、大事な会議に参加しており、当分の間、連絡がつかなかった。


混乱する雪の母に対して、男はさらなる要求を伝える。

「これも大事なことだが、絶対に警察には言うな。お前らがこの場所を突きとめて、警察が押し込んできたとき、娘の命は…」


雪は必至で手足をばたつかせて、必死に叫び声をあげる。その様子に気付いた男は雪に近づき、口元のガムテープをはずした。


べりッという音とともに、彼女の口元に痛みが走る。しかし痛みはお構いなしに雪は叫んだ。

「あなたたち長元組でしょ!?なぜこんなことするの?」


「察しのいい山内家のお嬢さんなら、見当はついてるんだろ?」

男は質問に対して質問を返した。


「目的は身代金さ。今、お頭がお前の家に電話をかけている。

本当はこんな遠い京都まで来て誘拐するつもりはなかったんだよ。だが以前、あの小僧に邪魔されてから、お前の家の周囲は警戒が厳重になったからなあ。

時期を伺っていたら、ちょうど京都への修学旅行があったみたいだからよ。お嬢ちゃん、俺たちの情報網を舐めない方がいいぜ?」


「どうやって私たちのあとをつけていたの?」


「簡単なことさ。ある人物の情報提供通りに動いただけだ。まずは変装して、お前らの学校が中村を出発するときから尾行してきたのさ。浮かれ切っている生徒たちも、先生たちも誰も俺たちには気付かねえ。


だが、厄介だったのは、あの小僧だ。あいつがずっとお嬢ちゃんのそばにいるから誘拐するタイミングがなかったんだ。連れ去るのはたやすいが、周囲に通報されると厄介だからな。だから、お前が一人になる時を待ってたんだよ。

そうしたらあの小僧が、お嬢ちゃんを置いて一人で走っていったから、俺たちとしては千載一遇のチャンスを生かして攫ったわけだ。

あの間抜けな小僧、今頃慌てているだろうぜ…」


「…」雪は何も言えなかった。自由だ、修学旅行が楽しみだ、浮かれていた自分の浅はかさを悔いても時間は戻らない。ある人物が誰なのかは雪には見当もつかない。


「そんなことより、あの小僧もひどいよな。一人で走り去っていくんだから。もしかしてお嬢ちゃん、見捨てられたんじゃねえのか?」


「そんなことない!勇くんは…きっと助けにきてくれる!」


「あの小僧にこの場所がわかるとは思えねえし、わかったとしてもお頭には勝てねえよ」


雪の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。



―――――――――――――――――



着信音が鳴り響いた。着信の相手は、雪の家の執事・ジイだ。


「もしもし、勇です」


「勇さんですね。あなたは今、お嬢様と一緒にいますか?」


一瞬言葉を失ったが、正直に話さなくてはならない。

「い、いえ。はぐれてしまって…」


「やはりそうだったのですね。実は、さきほど、ある男から電話がありまして…お嬢様は、誘拐されてしまい、犯人は身代金を要求してきているのです。

さらに犯人は、この一件を警察に言えば、お嬢様の命はない、と…」


「そんな大変なことになっているんですね…す、すみません。ぼくが一緒にいながら…」


「謝っても仕方がありません!起きたことはもうどうにもできないのです。問題は、今、何ができるか、です」


「今何ができるか…けど、警察には連絡できないんですよね。そうなると、事情の知っているぼくらが助けに行くしかないけど、場所がわからないし…」


「いいえ、お嬢様の居場所はわかります」

電話越しのジイは、自信を持った口調でそう言った。


―――――――――――――――――


ひんやりした板間、木造の天井。どうやらその場所は、どこかのお堂のようだった。


男は誘拐犯のグループとは思えないほど優しい声で、雪に語りかける。

「お嬢ちゃん、安心しなよ。あんたを殺す気はさらさらねえよ。ただ俺たちは、まとまった金が必要なんだ。それまでおとなしくしといてくれ」


「…暴力団排除条例が制定されてから、あなたたちの財政状況も苦しいらしいものね」


「そうだ。さらに裏取引で資金を提供してくれていた警察が梯子をはずしやがってなあ。だからこうするしかないんだ」


「私にそこまで話していいの?」


「ああ。別に問題はない」


怯え切って声が出なくなってもおかしくないような状況でも、雪の発言は止まらない。

「だいたい、お金が欲しいなら、わざわざ私を誘拐しなくても、ほかにいくらでも方法はあるんじゃないの?オレオレ詐欺で高齢者から奪ったり…」


「俺たちはなあ。どうせ奪うにしても、金が余ってるところから奪いたいんだ。それに、山内家。お前の家系には因縁があるんだ。俺たち長元組は、`下士`の出身だからよ」


「そうだったわ。あなたたちは、いまだに江戸時代の身分制度を根に持ってるのよね」


「…」男はこの言葉には何も答えなかった。


その後、開き直ったように雪に告げる。

「まあ、おとなしくしてろ。お前のお父さんのことだから、すぐにお金を振り込んでくれるさ。そうしたらお前も開放してやるよ」


「要求したのは2000万円よね?そんな大金…」


「あるはずだ。次回の選挙資金として相当貯めているはずだ」


雪には、どうすることもできなかった。手足を縛られて携帯を持つこともできない状態では、彼女の父に、長元組の考えや今の状況を伝える手段もない。



―――――――――――――――――


「雪の居場所がわかるの?」

ぼくはジイに尋ねた。


「ええ。お嬢様のiPhoneには、追跡アプリの`iPhoneを探す`が入っているのです。

Web上のiCloudからそれを利用して、位置を特定しました。彼女の携帯のご契約者はお父様ですから同一アカウントにお嬢様のアカウント情報も紐付けられているのです。


本当は、修学旅行にもボディーガードを派遣するつもりだったのですが、それはお嬢様から止められまして…」


「なるほど…」

ぼくは文明の力と、ボディーガード派遣の話に驚いた。

「で、雪が今いる場所はどこなんですか?」


「はい。今、ショートメッセージで位置情報を送ります」


ジイから送られてきた位置情報が示す場所は、「法垂窟(ほうたるのいわや)」だった。


地図を見ると、ここは八坂神社の東の奥に位置している。


「ここに雪がいるんですね?」


「そうです。しかし場所がわかっても救出手段が…今から、私たちの手の者ものを救出に向かわせることはできますが、高知から京都は非常に遠いので…

さらに、今はお父様がご不在なので、明確な判断を出せる人がおらず…」


ぼくは悩んだ。こういうときにはどうすればいいのだろうか。

しかし、雪の家の判断をじっと待っていることはできなかった。すぐ近くに雪がいるならば、助けにいくという選択肢をとらないわけにはいかない。


「今すぐ、ぼくが助けに行きます。雪は、今こうしている間にも危険な目に遭っているかもしれないので…雪のお父様と連絡がつくまでに、ぼくが雪を無事救出できれば、身代金を払う前に問題は解決します」


「え?勇くんが助けに行くんですか…!?」ジイは不安そうな声をあげるが、その声色は妙に落ち着いている。むしろこの展開を読んでいるかのようだ。


「大丈夫です。たぶん、すぐに助けにいけるのはぼくしかいません…そしてぼくは武器を持っています。さらに、今、京都には、もう一人強力な助っ人がいますから…」



ジイはぼくの言葉から覚悟を感じ取ったようだった。


「…わかりました。では、お嬢様の救出は勇くんにお任せしますが、くれぐれも無理しないようにしてください。

お嬢様の命と、あなたの命に比べれば、身代金の2000万円は安いものです」


「はい」


「では、私たちは学校への連絡を行います。お嬢様が誘拐されたことが大事になって、警察に知られないように、少し根回しを…」


「そうですね。犯人側は、警察が動き出せば、雪の命はないと言っていますし…」



ぼくはジイとの電話を終えた後、ある人物に電話をかけた。


電話を終えたジイは、「さてさて、面白くなってきましたね...」と呟いた。



―――――――――――――――――


待ち合わせ場所の長楽寺にやってきたトシは、眉間に皺をよせていた。

「幸運だと思えよ、勇。たまたま同じ京都で修学旅行に来ているんだからな。

まあ俺たちは隣の中学校だし、先生同士の仲が良かったんだろう」


ぼくは、トシに事情を説明し、ともに雪を救出することを依頼したのだ。ぼくとトシは別々の中学校に所属していたが、同じ日付に京都の修学旅行に行っていたのが幸いだった。


トシは強い口調で、ぼくに話しかける。


「勇、勘違いするなよ。決してお前を助けるわけじゃないからな。本当は、こんなことになった元凶であるお前を殴り飛ばしてやりてえんだ。しかし今は、雪を救い出すことが先決だ」


「そうだね…」


「それと勇。お前も木刀を買っていたようだな。剣士の卵である以上、京都に来たら、木刀の一本くらい買っておかねーとな」


彼はそう言って、木刀を天に振りかざした。


「トシ、聞いてくれ。雪が捕らえられている場所は、ここから5分ほど先の法垂窟だ。今すぐ向かうつもりけど、気持ちの準備はいい?敵の数も、武器もわからないけれど…やるしかないんだ」


「俺は、敵は5人だと思う」

トシはそう言った。きっと理由はない。彼の特有のカンだ。綿密な付近の偵察を行っておらずとも、トシはその場の雰囲気を感じ取ることができるようだ。


「しかし、たった二人で雪を救出できるもんなのかねえ」

自信家のトシにしては珍しく弱音を吐いている。


「大丈夫も何も、警察に言えない以上、ぼくらが助けるしかないじゃないか。それに、二人じゃないよ。侍さんとケンモツさんもいる。ぼくらは、四人だ」


「そうだな...」トシは何も言わなかった。


「侍さん、ぼくは一条家の血筋を引いているけど、雪を守るために力を貸してほしい…」


「当たり前じゃ。雪を守りたい気持ちは一緒だろ」



そのとき、トシはカバンから鉢金を取り出してぼくに手渡した。

「ほれよ」


そこには誠の文字が描かれていた。これは新選組がつけていたものと同じだ。


「俺は新選組が大好きなんだ、初めて読んだ本が、司馬遼太郎先生の`燃えよ剣`だったからな。さらに名前もトシ。土方歳三に憧れるのは当たり前だ。

俺たちは今から、雪を助けに行くために、討ち入りに行くんだ」


そう話す彼の横顔は、土方歳三の魂が乗り移っているようだった。150年の時を超え、勇とトシが池田事件に挑もうとしているのかもしれない。


そしてぼくらは、決戦の地、法垂窟へ向かう。満月は、沖天にあった。決闘には都合のいい月夜だ。幸い、天に雲がない。



―――――――――――――――――


法垂窟は、知恩院の大鐘楼から東山へ抜ける途中に位置していた。法然が夢の中で中国浄土宗の祖と仰ぐ善導大師から念仏の教えを受け、初めて専修念仏の教えを説いた場所といわれている。


窟の前には、青蓮院の飛び地であるお堂があった。雪は、このお堂に捕らえられている。


お堂の奥では、雪が手足を縛られて囚われていた。そのすぐ前では、スーツ姿の男が目を閉じて座禅を組んでいる。来るべき決戦に向けて、精神を集中させているようだ。


「きたか…」彼は気配を感じて、そう呟いた。



―――――――――――――――――


「ジイの情報では、あのお堂に雪がいるらしい」


窟の前に立つお堂から少し離れた場所で、2人は作戦会議をしていた。雪を攫った連中を一網打尽に倒して、雪を救出する。目的はシンプルだ。


昔から喧嘩が得意だったトシは、ぼくに作戦の説明をする。

「2人でお堂に向かって、正面突破を行うのは危険だろうな。今はどこにも敵の姿は見当たらないが、お堂内だけでなく、外にも敵が備えているかもしれねえ。だからここは、キツツキ戦法だ」


キツツキ戦法とは、川中島の戦いで、武田信玄の軍師、山本勘助が採用したものだ。啄木鳥がエサを捕るときに、 木の反対側をつついて虫をびっくりさせて穴から這い出させ、出てきたところを捕らえるという習性に目を付けた陽動作戦である。


「俺が敵の注意を引き寄せて、お堂の外に何人かをおびき寄せるから、勇はその隙に雪のところへ行け」


トシはそう言って、体を地面に寄せた。そして、自分の服を土になすりつけて、泥をつけている。


「なにしているの?」


「まあ気にするな。とにかくよく聞け。いいか勇。俺たちは普通の剣道少年じゃねえ。初めは自分の意志で戦って、危うくなったら憑依してもらえばいい」


「そうだね。きっと勝てる、いや、勝つしかないんだ」


そしてぼくらは、ほんの数秒だけ見つめ合った。

「行くぞ」

「ああ」


お堂の前に飛び出した。そして、大きく息を吸い込んで、こう叫んだ。


「た、大変だあ!熊がでたぞお!!」


お堂の中に控えていたであろうスーツの男たちは、熊が出たという言葉に反応を示した。


「なんだと!?」「なんだ?」「なに?」と、言いながら、3人の男たちが現れる。


「おい、ボウズ。熊が出ただって!?」


「ああそうさ。ついさっき、ここに熊がいたんだ…あのツキノワグマは凶暴だよ。俺は京都に修学旅行に来たんだけど、まさか熊に襲われそうになるとは…」

トシは冷や汗をかきながら、男たちにそう説明した。トシの服は、何度も転んだかのように泥だらけになっており、熊に襲われたという話に信憑性を持たせていた。


「お前は修学旅行生か。道理で木刀を持っているはずだぜ。俺も昔は、買ったなあ」男は、トシが木刀を持っていることにも不信感を抱いていない。


「で、熊はどこだ?」別の男がトシにたずねる。


「すぐそこの森に入っていったよ。たぶんまだこの辺をうろついていると思う。きっと、このお堂は熊の縄張りなんだ。だからこのお堂から退散するか、先手を打って熊を退治した方がいいかもな。そうしないと、お堂の中の人たちは、熊に襲われちまうぜ?」

トシは男たちにそう訴えた。


「熊が集団でお堂を襲ってきたらまずいな。よし先に撃退しておくか」男はそう言う。


最近、本来臆病であるはずのクマがどんどん山から町へと近づいている「クマ出没」のニュースが相次いでいた。熊に突然襲われ、死傷者が出ていたこともあったので、男たちは熊を恐れているようだった。


「よし。ボウズ。その熊が入っていった場所に案内してくれ。一緒に撃退してくれたらお小遣いあげるからよ」


「おっけー、わかったよ。案内するぜ」


トシはそう言って、3人の男たちを引き連れて森の奥へと入っていった。



―――――――――――――――――


トシが3人の男たちと森の奥に入っていった隙に、ぼくはそっとお堂に近づいた。


中に何人残っているかどうかわからないが、手薄になっていることには間違いない。



「勇、警戒せえよ」


「わかってる」


すり足で廊下を歩き、本堂に近づいた。そして、襖を開けて中に入ったとき、一人の男に出くわした。


目の前に現れたその男は右手に木刀を持っている。見覚えのあるその顔は、雪の家の周囲をうろついていた男のうちの1人だった。


「この小僧、また来やがったか。俺たちの邪魔をしやがって…」

眉間に皺を寄せた男は、拳銃ではなく、木刀を持っていた。しかしまだ構えもせず、刀を右手にだらりと垂れ下げている。


こいつを倒さないと、雪を助けることはできない。ぼくは覚悟を決めた。今こそ、今日までの稽古の成果を発揮する時だ。そして、「侍さん、この相手は、ぼく一人でやらせてくれ」とつぶやき、剣先を中段にとめた。


「さあ、こいよ」という相手の声を聞く間もなく、ぼくは一歩、踏み出し、突きを放った。


男は軽やかな足取りでそれをかわす。

それにつれて、ぼくは左足をひき、相手の開いた胴の右上段に剣先を舞い上げた。


男は垂らしていた木刀を引き上げ、打ち込んだ刀を受けた。一瞬、刃がなる。


その直後、男は右横面に切り込んできた。それをつばもとで受けるが、衝撃で手首が痺れる。そして少し距離をとり、呼吸を整える。


奥の部屋では雪とお頭が、隣の部屋の騒動を訝しがっていた。

「どうやらお嬢さんを助けに来たやつがいるようだ」「もしかして、勇くん?」


しかし男は動かなかった。ニヤついたまま座っている。


しびれた手首を見つめるぼくに、侍さんは心配した顔で言った。

「勇、儂が代わろうか。やはり真剣勝負の場はまだお主には早い…」


「いや。大丈夫。たぶん、敵はまだ他にいるだろうし、この人はぼくの力だけで倒す」


ぼくは責任を感じていた。自分のせいで雪が攫われてしまい、身代金2000万円が要求されている。それを雪の家に払わせるわけにはいかない。自分の失態は自分の行動で取り返したかった。


「何をブツブツ言っているんだ?こっちからいくぜ」

男はそう言うと、距離を詰め、激しく打ち込んできた。ぼくは持ちこたえてはいるものの、じりじりと押され、ついに壁際に追い込まれた。


「これで終わりだ!」

男はそう叫んで、剣を頭上に掲げ、面を繰り出そうとした。

「今だ!」

その瞬間、ぼくはすっと力を抜いた。そして、木刀を地面へ吸い込ませるように相手のすねをはらったのだ。


不意な脛打ちにバランスを崩した男の隙を、見逃すわけにはいかない。

渾身の力で真正面から叩き切った。


ドタッという音を立てて、男は倒れる。


しかし、あくまでも中学生の力だ。

この男が意識を取り戻す前に、雪を救出しなくては…


息も絶え絶えの勝利だったが、ぼくは休む間もなく奥の部屋へと歩みを進めた。

きっとそこに、雪がいるはずだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る