第10話 恐怖に打ち勝て
雪の両親から通報を受けた警察の対応は、不気味なほど淡泊だったらしい。
男たちは庭から侵入し、梯子を雪の部屋の窓にかけて部屋の中に入った。どの部屋が雪の部屋かを特定するために、最近この辺をうろつきまわっていた。というところを突きとめた以外に、具体的な行動はなかった。
また、雪の両親はぼくの母さんにもこの一件を連絡してくれた。そして、今回の宿泊は中止になり、お互いの家に帰宅することにした。雪一人で夜道を歩くのは危険だということで、ぼくの母さんと一緒に雪の家に戻ることになったようだ。
事件の後、雪の両親は、ぼくに頭を深く下げて謝った。
「このようなことに勇くんを巻き込んで本当に悪かった。」と。
しかしぼくは、この日に入れ替わっておいて本当に正解だったと思っていた。
雪が部屋にいた場合、きっと誘拐されていただろう。
雪と母さんが戻ってくるまでの間、雪の両親は今後の対策について話をしていたので、ぼくは客室にこもって侍さんと話をした。
「よかったのう。勇。男たちを撃退することができて。」
「なんか釈然としないんだよね。ぼくが何かをしたわけじゃないし、侍さんのおかげじゃないか。」
「なら勇が戦うか?」
「いや、ぼくは、男に押し倒されたときにもう戦意を喪失してしまったんだ。自分で戦う勇気なんてでないよ…」
侍さんは、唸るような声をだす。
「のう、勇。儂の力に頼らなくとも勝てるように、お主自身も強くなってはみないか?
前にも話したが、儂が勇の体に憑依するときは、勇自身を開放しているとはいえ、体には大きな負荷がかかっておる。
何度も儂が憑依をすることは避けたいことじゃし、この力は諸刃の剣なのじゃ。」
「ぼく自身が強くなる…か。そうだよね。」
5歳の頃に剣道の事故にあって以来避け続けていた、強くなる、ということに向き合わなければならないときがきたのかもしれない。
雪に危険が迫っていることは間違いがなく、どうやら警察もあてになりそうになかった。
―――――――――――――――――
雪と母さんが帰ってきたとき、雪は今にも泣き出しそうな顔でぼくに謝った。
「ごめんね、私のせいで大変なことに巻き込んじゃって…」
「雪が謝ることじゃないし、君が無事でよかった。また学校で話そうよ。」
「本当にごめんね…」
「気にしないでいいって」
その後、ぼくは母さんと二人で、自宅への帰路についた。こうやって二人で話すのは本当に久しぶりだ。
「勇…恐ろしい目にあったんだよね。大丈夫?けがはなかった?」
母さんはぼくを心配して声をかける。
「大丈夫だったよ。それよりね。母さんに話があるんだ。」
「なに?」
このときの母さんの様子はいつもと違っていた。ぼくが何を言い出しても、それを受け入れようとする寛容さが感じられた。
「ぼくは、もう一度剣道を始めたいんだ」
そう言ったあとに、「やっぱりなんでもない。さっきの言葉は忘れて」と、前言を撤回した。
剣道を始めるには、多額のお金がかかることを思い出したのだ。
「どうして、遠慮するの?」
「だってね。剣道を始めるには多額のお金がかかるんだ。道着、袴、防具一式…
母さんに負担をかけてしまうし…」
「お金のことは勇が気にすることじゃないわ。だから気にしなくていいのよ」
「でも…
あ、そうだ。さっき怖い目にあったから、強くなりたい、剣道を始めたいと思ったんだ!
今、冷静になって考えてみると、やっぱり剣道をしたくはないよ。
だからさっきの話は忘れてよ。ごめんね、変なこと言って…」
パシッ…
そのとき、頬に鈍い痛みが走った。
母さんはうっすらと涙を浮かべている。
「私があなたとじっくりとコミュニケーションをとってこなかったせいかもしれないけど、あなたは自分の感情を表してこなかったわよね。
だから私はね、さっきのあなたの言葉が嬉しかったのよ?
あなたが自分の口で、意思を伝えてくれたことが。
だから、お金のことなんて心配しないで。
正直に答えて?
勇は、どうしたいの?」
母さんは歩みを止めて、ぼくの目をじっと見つめた。母さんは真剣に、ぼくの本心からの返答を求めているようだ。
「…もう一度、剣道を始めて、強くなりたい。自分を鍛えたい。
昔はただ父さんにやらされていたけど、今は違う。これは、ぼく自身の意思だ」
母さんはその言葉を聞いて、にっこりと笑った。
「正直に話してくれてありがとう。だから剣道を始めていいのよ。
道具のことは気にしないで。多少の蓄えはあるから、買い揃えることはできるわ」
「…ありがとう」
このとき、初めて母さんと心が通いあった気がした。今までは、お互いに遠慮し合いあっていたのかもしれない。
「それとね。母さんにもう一つ話したいことがあるんだ。父さんのことについて、もう少し教えてほしい」
「教えるといってもねえ。離婚してからもう10年近く会っていないし。
ただひとつ言えることは、私と離婚する直前の父さんは、少し様子がおかしかったの。
たまに性格が豹変することがあってね?まるで、ジキルとハイドのような、二重人格者の一面を感じたわ…
まあいいわ。父さんのことはもう忘れましょうよ。
これからは私も勇としっかりと向き合うから、私たち二人で生きていきましょう」
その後、ぼくらは自宅についた。そしてシャワーを浴びた後、倒れるように眠りについた。
―――――――――――――――――
その後の休日に、ぼくは母さんから道具を買ってもらった。
学校の剣道部に入ることもできたが、2年生の2月から部活動に入るのは遅いと思い、小・中学生を中心に活動している道場の少年部に入門しようと考えたのだ。
あくる日ぼくは、入門予定者として練習を見学することになった。
道場の隅で体育座りをして、籠手、胴、面、各々が技を繰り出す風景を、じっと見つめていたとき、ぼくの前に、面をつけた1人の少年がやってきた。
「座って見学しているだけじゃ退屈だろう?少し打ってみるか?」
彼はそう言って、ぼくに面と竹刀を手渡した。
道場師範も「そうだな。ぜひ勇くんも実践してみるといい」と、後押しをしたので、ぼくは面をつけて、竹刀を握った。
「さあ、俺に向けて、竹刀を振ってこいよ」
少年はそう言って打ち込みを待っていた。しかし、ぼくの体は上手く動かない。
「どうした?これは稽古だ。遠慮せずに打ち込んでこい。」
やっとのことで、竹刀を振りかぶって面を打ちこんだが、その勢いは弱弱しいものだった。
「どうした?もっと、思い切って振ってこいよ。弱虫のイセミ??」
そのとき、かつてバカにされていた名前を言われて、ぼくはイラっときた。
体に力が漲り、竹刀を大きく振りかぶる…
しかし、その瞬間、竹刀は手から離れ、地面に落ちてしまった。
なぜなのかはわからないが、ぼくの意思とは裏腹に、体は竹刀を振ることを拒んでいるかのようだった。
「なんだお前。昔剣道をやっていたんじゃないのか?こんな状態で道場に入って稽古ができるのか?」
少年は厳しい言葉を吐き捨てたが、全く彼の言うとおりだった。今のぼくは、相手に向かって、竹刀を思い切って振ることができないのだから。約9年のブランク以上に、精神面での致命的な欠点だ…
結局、再度隅っこに座って練習を見学し、その日の練習見学は終わった。
―――――――――――――――――
道場見学からの帰り道、ぼくは侍さんに弱音を吐いた。
「だめだ。ぼくはやっぱり、侍さんがいないと戦えないよ。
自分ひとりの意思では、剣を思い切って振ることができないんだ」
「先ほどの勇をみていて思ったのじゃが、お前は剣を恐れているようじゃの。過去に何かあったのか?」
侍さんは、ぼくのことを見透かしているようなので、過去のトラウマを話すことにした。
5歳の時、あの道場で稽古に励んでいたときに、相手の突きで、目を怪我してしまったこと。
それ以来、竹刀を思い切って振れなくなり、剣道から遠ざかっていたこと。
それらを聞いた侍さんは、同情するようにつぶやいた。
「そうか。そんなことがあったのか」
「あれ以降、なぜか…」
そのとき、ぼくはスマホを取り出して、ある言葉を検索した。
夢中でスマホを見ているぼくに、侍さんは呆れるように諭した。
「またその機械か。何かを調べるようとしているのなら書物で調べんか?
そんな画面上ですぐに手に入るものでは、自分の頭に残らないぞ?」
「いや、今回に限っては、スマホが教えてくれたよ。
たぶん、ぼくはイップスだ」
「イップスとは、なんじゃ?」
ぼくは、スマホの画面上に示された解説文を読んだ。
「精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りの動きや意識が出来なくなる症状のことである。
つまり、幼い頃の事故が原因で、このイップスという症状になってしまっているようなんだ。だから、竹刀を思いっきり振ることができない…」
「なるほどのう。その小さな機械も役立つことがあるのじゃな。
で、そのイップスとやらを治す方法も、そこに書いておらんのか?」
「書いているよ。
治療法は、最初は原因を発見して失敗した場面を直視することから始まる。無意識に身体が拒否反応しているので小さい部分から徐々に成功体験させて自信を体感させる行為がある、だって」
「ん?しかし、勇は別に失敗したわけではないだろう?幼い頃の事故のトラウマが体を硬直させているのであって…」
「たしかにそうなんだよね。
あ、こんなことも書かれているよ。
イップスに明確な治療法は無く、克服出来るかはその人次第である。最終的に克服出来たとしてもイップス発症から数年・数十年経過しているケースも珍しくない、だってさ。」
「なるほど。結局、具体的な治療法はないということじゃな。さらに勇のその症状がイップスだと確定したわけでもない」
「そうだね。けど、ぼくの精神的弱さが、原因なのは間違いないと思う。剣道に対する恐れ、それを克服しないと…」
「精神的な弱さか。なら儂に考えがあるぞ。
とりあえず、じっくりと剣道に対する恐怖を克服していこうではないか。儂も力を貸すぞ。一緒にがんばろう」
「うん、ありがとう」
ぼくは一人じゃない、そう思えたことがとても頼もしかった。けど、幼い頃は違った。父さんは竹刀が振れないぼくに失望し、一緒にがんばろうとは言ってくれなかったのだから。
―――――――――――――――――
道場への入門は、少し待ってもらうことにした。道場の師範にも、母さんにも、その旨と理由を伝えたが、理解を示してもらえることができた。
ぼくは道場に入る前に、剣道に対する恐怖を克服しなくちゃならない。
そして強くなって、迫りくる魔の手から雪を守るんだ。
胸の鼓動は、高鳴っていた。きっとぼくならできる、侍さんもそばにいるのだから。
3学期も終盤に差し掛かったある日の放課後、足早に下校しようとしていたぼくに、雪は声をかけた。
「勇くん!そんなに急いでなにか予定があるの?」
「今日から毎日、トレーニングをすることにしたんだ。筋トレや、ランニング、素振りとかね」
「なんだかすごい張り切ってるね、トレーニング頑張って!」
「ありがとう」
雪の激励は、ぼくに勇気をくれた。あの笑顔を守るために、ぼくは強くならなければならない。雪の両親や警察に任せるのではなくて、ぼく自身の手で…
―――――――――――――――――
家に帰りジャージに着替えたあと、一本の竹刀を持って、近くの公園に向かった。
到着すると、侍さんはトレーニングの趣旨を話し始める。
「では今日から稽古を始める!
心技体、という言葉があるじゃろう。心技体とは、心、技術、体の全てバランスが整ったとき、最大限の力が発揮できるという教訓のことじゃ。
はっきり言って今の勇にはそのすべてが足らん!だからこそ、日々の鍛錬が必要なのじゃ」
「はい!」ぼくは勢いよく返事をした。公園のそばを歩いていた主婦が、突然の叫び声に驚いていた。
「ではまず、勇が自分で考えた基礎的な体力作りのメニューを実践しようか」
侍さんの声を皮切りに、ぼくは公園のベンチの上で筋力トレーニングを始めた。
まずは腕立て伏せだ。上半身、特に肩から胸周りを鍛えて、打突力を上げる。
次に、腹筋、背筋を行い、体の体幹を鍛え、リストカールで手首、スクワット・カーフレイズで下半身を強化した。
これら一通りの筋力トレーニングを終えたら、今度は素振りを行うために、ぼくが幼い頃に父と素振りをしていた一條神社に移動する。
「よいか勇。10代の若い頃は、身体を作り、技を身体に覚えこませる時期にあたる。そのためには反復練習が効果的なのじゃ」
ぼくは侍さんの指導を受けながら、素振りを始める。
まずは正面素振り。いずれ、左右面素振り、跳躍素振り、踏み込み素振り、手首返し素振りなど、派生練習を行う必要もあるが、まずは基本的な正面素振りをマスターしようと思ったのだ。
1時間ほど、必死に竹刀を振ったあと、最後にランニングを行い、一日のトレーニングは終了となる。
これらのメニューを1か月ほど続けた。恐怖を克服する前に、まずは基礎を固めることにしたのだ。
―――――――――――――――――
順調にトレーニングを続けていたある日、ランニングしていた際に、侍さんはぼくにこう言った。
「もしかすると勇は、恐怖ということを難しく考えすぎているのかもしれんな」
「どういうこと?」
「恐怖は悪いものではないということじゃ。」
「けど、恐怖のせいでぼくは竹刀を思い切って振れないんだよ?」
「それは表面的なことじゃ。もっと物事の根幹を考えてみよう。
勇は、何のために剣道をしようと考えたのじゃ?」
「それは、強くなって雪を守るため…」
「強くなって、実際どうする?」
「強くなったら相手を倒さなくちゃならない」
「そうじゃろうな。しかし、相手を倒すということは、相手に痛みを与える、傷つけるということなのじゃ。肉体的な痛みだけでなく、精神的な痛みも。
剣道だけでなく、あらゆる武道はこういった側面を持っておるのじゃが、勇はそれを本当に理解しておるか?」
「ううん。理解していなかったかもしれない。ぼくはただ自分が強くなることだけを考えていたよ。相手に与える痛みまでは考えが及んでいなかったのかもしれない」
「剣の恐ろしさをしっかり理解し、剣で人を傷つける側にも伴う恐怖を乗り越えたとき、お主は心身ともに強くなれるのかもしれんのう。
そういった意味では、恐怖は必ずしも悪いことではない。
以前、雪の家の周辺で襲われたときのことを覚えておるか?」
「うん、覚えているよ。あのときのぼくは、慢心していたよね」
「そうじゃ。もしもあのとき、慢心よりも恐怖の感情が大きかったら…
おそらくお主は、深入りを避けて、危険な目にあうこともなかったじゃろう」
「たしかにそうだね」
「そう考えると、ある程度の恐怖は必要なのじゃ。未熟さや弱さがあり、恐れを抱くからこそ、頭を使い、生き残るために工夫をするのじゃから」
「なるほどね。
ちなみに侍さんも、合戦に出た時は恐怖を感じたの?」
「もちろんじゃよ」
「侍さんは強いのに?」
「強さは関係ない。儂より強い者など、いくらでもおるしなあ。
それに、恐怖心があるからこそ、自分を鍛え上げて、強くなろうと思えるのじゃ」
侍さんと話していると、視野が広がって、勉強になることが多い。いつまで一緒に過ごせるかどうかはわからないけれど、彼の考えを吸収していこうと思った。
―――――――――――――――――
その日は、いつもとはコースを変えてランニングをしていた。
侍さんは、「勇、あそこへ行こう」と声をあげる。その目線の先には、バッティングセンターがあった。
「かつて憑依していた頃に行ったことがあるのじゃが、あれはたしかバッティングセンターじゃろう?良い考えが浮かんだのじゃ」
ぼくは侍さんの言葉に従って、バッティングセンターを訪れて、お金を入れて打席に立った。
「そうじゃない。飛んでくるボールに向かって、正面に構えるのじゃ」
「え?」
侍さんの言っている意味が理解できない間に、ボールが飛んできた。ドンっという音を立てて下に落ちる。
「勇。正面に構えて、剣道の振りでボールを捉えるのじゃ。それが恐怖心を払いのける練習になるはずじゃ」
「え?そ、そんな…」
「ええからやってみい!」
侍さんの勢いに押されて、渋々とホームベースの真上に立った。そして、バットを頭上に構える。しかしぼくの手は、プルプルと震えていた。
シュッと投げ込まれたボールに対して、ぼくは垂直にバットを振り下ろした。
もちろん、バットは空を切り、ボールは腹部に命中する。
ドン。
「い、いってえ…こんなの当たるはずがないよ」
「これは荒療治ではあるが、痛みを感じたくないなら、ボールを捉えればいいのじゃ」
まさに巨人の星の世界観を髣髴とさせるようなスパルタ特訓だった。
何度、バットを振っても、ボールは当たらない。そもそも垂直に振れば、その分当たる確率は低くなる。体にアザが増え、痛みを感じたせいもあり、ぼくは弱音を吐いた。
「もう嫌だ。こんなことをやっても意味がないじゃないか」
「おお、諦めて逃げるのか?何が勇じゃ。弱虫小僧が」
侍さんは珍しくぼくを罵った。
「なんだと?」
「何度でも言ってやろう。弱虫め。
この程度のこともできんようで、大切な人を守る強さが手に入るなど、甘すぎるのじゃ。勇は、雪を守りたいんじゃろう?」
「もちろん。わかったよ。もう少し続けるよ…」
ぼくは覚悟を決めた。男たるもの、一度始めた練習を途中で投げ出すのは格好が悪い。財布の中のお金が空になるまで、挑戦することにした。
このときのぼくは、恐怖よりもボールに集中することができ始めていた。
侍さんは、誰にも聞こえない声で呟く。「そうじゃ。ボールに集中するのじゃ。そうやって、侍脳に近づけ」
その後も、懸命にバットを振り続けた。竹刀を振るように、垂直に。
そのとき、おじさんの声がした。
「君、何をしているんだい?危ないじゃないか!?」
どうやらバッティングセンターの経営者のようだ。
「そんな打ち方は危ないから、やめなよ」
しかし、ぼくは引き下がらなかった。
「お願いします。ぼくの自由にやらせてください」
「けどねえ。本当はそういう行為は禁止なんだよ。格闘家のミノワマンはホームベース上に立ちボールを避ける特訓を行ったみたいだけど…」
「お願いします…」
おじさんはぼくの並々ならぬ覚悟を感じたのだろうか。「仕方ないなあ。君だけ特別だからね。それと、ケガをしてもうちは責任とらないよ」と言ってくれた。
ぼくは再び、お金を入れた。持ち金を考えると、これが最後になるかもしれない。
シュ。シュッ。投げ込まれるボールに対して、ぼくは何度もバットを振り下ろす。バットが空を切って体に当たっても、決して弱音は吐かない。
「勇!飛んでくるものをボールだと思うな!
それは相手が繰り出してくる太刀筋じゃ。
やらなければ、お前がやられるのじゃ。その覚悟を持て!」
侍さんのその言葉を聞いて、ぼくの目つきは変わった。
そして目の前から放たれたボールに向かって、無心でバットを振り下ろした。
真芯でボールを捉えた感覚が、両腕に伝わる。
カン
という音とともに、ボールは地面に叩きつけられ、真上に跳ね上がった。ちょうどそのボールは、最後の1球だった。
「やった!やったよ!!」
「やればできるじゃないか!勇!」
ぼくらはまるで甲子園で優勝したかのように喜んだ。決して凄いことではない。これができたからと言って、大きな成長につながったわけではない。
しかし、恐怖に怯えていたぼくが、真正面から放たれるボールを捉えることができた成功体験は、大きな自信になった。
これがバットではなく竹刀に変わっても、思いっきり振ることができるような気がした。
―――――――――――――――――
「ヘンテコな素振りをしてたなあ」
満足感に包まれてバッティングセンターから出たとき、そんな声をかけられた。その聞き覚えのある声の主は、一か月前の道場でぼくに話かけてきた少年だった。
「俺のことを覚えているよな、勇?
5歳のころのあの一件は忘れちゃいねえはずだ」
一か月前は面をしていたので、顔がわからなかったが、今ならわかる。彼の名前はトシ。
5歳の頃、ぼくが剣道を恐れるきっかけになった事件の相手で、今は隣町の中学校に所属している中学2年生だ。
何より驚いたのは、彼の顔の横に、うっすらと侍が浮かんでいることだった。
その侍に気付いた侍さんは、「お前は、ケンモツじゃないか!」と叫んでいた。
侍さんのことが見えている節のあるトシは、冷静に言葉を返す。
「ケンモツが見えるのか。この間、道場で会ったときには、面をしていたせいで見えなかったからな。
この俺、羽生利史も、お前と同じだ。
ヒョーイザムライなんだよ」
「ヒ、ヒョーイザムライ?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます