第9話 憑依の刻 -弓の刀-

その日の放課後、雪はいつにもまして上機嫌だった。


この日、雪は習い事がないようだったので、ぼくらは夕方まで時間をつぶした。

町に一つしかないマクドナルドで、雪と侍さんと3人で話をする。

侍さんの声は、ぼくしか聞こえないから通訳をしなければならなかったけれど。



時刻が18時を回って太陽が沈んだころ、ぼくらは互いの家に帰ることにした。

「じゃあ、勇くん。うちをよろしくね」


「こちらこそ、うちをよろしく。」


うちをよろしく、違和感のある会話だけれど、それ以外の表現が見当たらない。



ぼくは、何度見ても豪邸である雪の家に着き、堂々とした歩みで家に足を踏み入れた。


「勇くん、いらっしゃい。今日はよろしくね。」雪のお母さんは優しい笑顔で出迎えてくれた。


先週と同じように、家族で食卓を囲む。なんでもないことなのだが、ぼくにとっては特別なことだ。


いつも母さんと2人きりか1人で夕飯を食べているので、みんなで食べる夕食の温かみに改めて気づくことができた。


夕食をいただいたあとはお風呂をすませ、2階にある雪の部屋に入った。


―――――――――――――――――


一方その頃、雪も勇の家に向かっていた。習い事の先生も自宅にやってくる雪にとっては、自分の家以外に向かうことはとても珍しいことだったのだ。


上機嫌な彼女は、1001のバイオリンの一節を口ずさんでいた。


「夜の金網を、くぐり抜けぇ~!

今しか見る事が出来ないものや~

ハックルベリーに会いに行く~

台無しにした昨日は帳消しだ~!」


彼女にとって、この夜は最も自由になれる時間だった。

学校では、生徒会役員としての模範を求められ、家では政治家の娘としての気品を求められる。


夜は人生の先が見えない状態の象徴であるが、周囲から守られすぎて生きてきた雪にとっては、多少目の前が見えなくなるくらいの方が心地よかったのだ。



ほどなく、雪は勇の家に到着した。


築30年のくたびれたアパートの二階、それが勇の家だ。


「いらっしゃい」と、出迎えた勇の母に対して、雪は、「久しぶりですね。」と、はにかんだ。


幼稚園の頃はよく、お互いの家を行き来してた雪と勇だったが、勇の父が行方をくらましてから両家の交流は途絶えていた。


それから約9年の時が流れている。しかし、9年の歳月を埋めるのに時間はかからなかった。ほんの最初の一言でスイッチが入った彼女たちの時間と距離はあっという間に縮んでいった。



―――――――――――――――――


雪の部屋に入るとグランドピアノが目に入った。

そこには一枚のノートが置かれていた。


開かれたノートには丁寧に力強く刻まれた文字があったが、先週訪れたときとは違う内容が書かれている。



夜の扉を開けて行こう

支配者達はイビキをかいてる


何度でも夏の匂いを嗅ごう

危ない橋を渡って来たんだ



この曲もブルーハーツだ。「支配者達はイビキをかいてる」という意味はよくわからなかったが、強烈な表現が印象に残る。


雪はブルーハーツが本当に好きなようだが、ブルーハーツといえば自由を求めるその姿勢が有名だ。


自由、か。ぼくは不意に、侍さんに尋ねてみた。

「侍さんは殿様に仕えていたら、自分の自由なんてなかったんじゃないの?」


質問に対して、侍さんは少し首を傾げながら答えた。

「自由など考えたことがなかったのう。儂にとっては、主君の兼定様を支えることしか頭になかった。」


「そうなんだ。侍さんが生きていたのは戦国時代だものね。自由が欲しいとか、そんなことを言ってる場合じゃないか。」


「あの時代は戦乱の時代であったし、必死で領国を守らないと自分の家族を守れなかった。もしかすると、現代はそのような危機感がないから、贅沢になっておるのじゃないかのう?」


「…え?」

ぼくはハッとした。侍さんは、何気ない口調ではあるが、とても大切なことを言っているのかもしれない。


「毎日、3食のご飯を食べることができて、家族が安心して暮らすことができる。そんな時代は儂にとっては極楽浄土なのじゃ。今は、命を奪われる危険などないじゃろう?

しかし、あの時代は違った。いつ隣国の領主が攻めてくるかわからない。生きるか死ぬか、常に生死と隣り合わせだったのじゃよ。」


侍さんが話していることは決して特異なことではなかった。戦国時代が戦乱の時代で生死と隣り合わせというのは、学校の授業で何度も習っていたことだ。


しかし侍さんから聞くのと、授業で聞くのとは雲泥の差だった。侍さんから戦国時代の話を聞くと、現代がいかに幸福か、ということを切実に感じることができるのだ。


もしかすると、ぼくは歴史を学んでいる風に見えて、実際は学んでいなかったのではないだろうか。戦国時代をどこか他人事のように、そんな時代があったのか、と聞き流していたのではないか。

`試験にでるから…`という理由で、文字を丸暗記していただけではないのか。


ぼくはそのあとも侍さんと話をした。侍さんが経験した戦国時代の話は、携帯アプリのゲームよりもよっぽどおもしろかった。



ほどなく侍さんは、「儂は、眠くなってきたからもう寝るぞ。」と言って目をつむった。


時間はまだ早いけれど、ぼくも侍さんにつられるように、ベッドに横になることにした。頭を包むマシュマロのように柔らかい枕は、雪の匂いがした。


なぜだろう、胸が高鳴る。


心臓の音が、脳内に響き渡ったそのとき、自分の身の毛がよだつのが分かった。


そのとき、夜の扉が…



―――――――――――――――――


勇の母が腕によりをかけて作ったクリームシチューを食べながら、二人は会話を続けていた。


「本当に久しぶりね。雪ちゃん、本当に綺麗になったわね。」


「そんなことないですよ。」

自分の親にもめったにみせないほどの屈託のない笑顔を、雪は勇の母に見せる。


「雪ちゃんは、生徒会の役員なんでしょ?うちの勇は…」


彼女たちは世間話に花を咲かせたが、話がひと段落したとき、雪はゆっくりと切り出した。


「お母さん、私が偉そうに言うことではないと思うのですが、ひとつお願いがあるんです。」


「お願い?」



―――――――――――――――――


割れた窓ガラスは、まるで夜の扉のようだった。


殆ど音はない。一瞬のうちに窓ガラスが割れて、そこから二人の男が闇夜に紛れて侵入してきたのだ。



彼らは示し合せたようにベッドに迫り、ベッドに横たわっているぼくの顔を大きな布で包みこみ、体をぐっと持ち上げた。


脊髄反射だろうか。

ぼくは無意識に、男に肘打ちを浴びせた。抱えあげられている以上できることはそれしかない、とっさの判断だった。


肘打ちは男の顔面に直撃したようで、不意を打たれた男はおぼつかない足取りでふらつき、ぼくを抱える手を放した。


どすん、という音と共に、その男とは地面に打ち付けられた。しかし、その一瞬に、もう一人の男がぼくに飛びかかり、仰向けに押し倒してくる。



不運なことは、この騒動の音が1階には届いていなかったことだ。雪の家が広かったことに加えて、雪の父は入浴しており、雪の母は洗い物をしていた。

まさか、2階に侵入者がいるなどとは気づいていなかった。


男は力強くぼくを押し付け、身動きをとれないようにした。そして、「相棒をどつきやがったな、この野郎…」と言って、今にも殴りかかろうとしてきた。


そのとき、右の視界にバイオリンの弓が入り込んだ。ぼくは即座に手を伸ばしてそれを掴み取り、「侍さん!」と叫んだ。



その瞬間、侍さんの魂が食道を通って、体の奥底に入ってくる。

ぼくは薄まっていく意識の中で、バイオリンの弓をもう一度強く握りしめた。


「ごめんね雪、大切な弓を…」



―――――――――――――――――


「お願いっていうのは、勇くんのことで…」


雪は遠慮を示しながらも、丁寧に言葉を紡いだ。

「私がこんなことを偉そうに言うのは間違っているのかもしれませんが、もっと勇くんを構ってあげてもらえませんか。勇くん、とても寂しそうなんです...」


勇の母は、すっと視線を落とす。

「私ね。勇と向き合う自信がないの…

離婚の原因は私にあったから、私のせいで勇とお父さんを離れ離れにさせてしまったと責任を感じていてね。勇はずっと、お父さんと剣道の練習をしていたから、お父さんに懐いていたと思うの。なのに私のせいで…

その罪悪感から、私は勇を避けるようになっていたのかもしれない。」


「お母さんは、罪悪感を背負う必要はないと思いますよ。

勇くんに後ろめたい気持ちがあったとしても、お父さんがいない分、お母さんが勇くんを愛してあげればいいんじゃないですか?

勇くんが求めていることは、お母さんからの愛だと思います。彼はきっと…

お母さんに優しくしてもらいたいんです。」


キッチンから漏れる水滴の音がはっきりと聞こえるほど、沈黙が広がった。長い沈黙の時間を経たあと、勇の母は何度かうなずいてから、雪に言葉を返した。


「ありがとうね。雪ちゃん。私、勇の気持ちに全然気づいていなかったみたい。そうよね。お父さんがいない分、私があの子を大切に、愛してあげないと…」


「ありがとうございます。勇くんも、きっとそれを望んでいると思います。」

雪は艶やかな黒髪とは対照的な、白い歯を見せたあと、さらに言葉を続ける。


「それとですね。もうひとつお話したいことがあるんです。」


「何?遠慮せずに言って?」


「聞きたいことがあるんです...」



―――――――――――――――――


-憑依の刻-


「やっと儂の出番じゃな!」


体を押さえつけられていた少年は、腕に目いっぱいの力を込めて、バイオリンの弓で男の脇腹を突き刺した。


「ぐえぇっ」という聞いたことのない擬態語を発した男は、たまらず飛び上がり、脇腹を抑えてのた打ち回った。


少年はその隙をついてとっさに立ち上がり、「少々短いが、これで戦える…」と呟いき、刀に見立てたバイオリンの弓を上段に構えた。


そのとき、肘打ちを喰らわせていたはずの男が立ち上がり、左方向から殴りかかってきたのだ。少年は、流れるような身のこなしでその拳を避けた。そして、その勢いのままどっと踏み込み、右袈裟に大きくうちおろした。


バイオリンの弓で、左肩から右脇腹を斬られた男は痛みに耐えきれず膝をがくりと落とす。少年はその隙を見逃さず、剣先、いや、弓の先を男の首元に突き刺した。


「思ったより手応えがないのう...さて、降参するか?」


14歳とは思えないその迫力に面を喰らっていた男は、溜息交じりに吐き捨てた。

「…降参、だ。」



―――――――――――――――――


勇の母は、雪に問いかけた。

「聞きたいことって何?」


「勇くんの、いや、お母さんの苗字についてです。」


「…」

入道雲が積乱雲に変わったかのように、勇の母の表情が曇った。


「勇くんのお母さんは、離婚してすぐに苗字を旧姓に戻しましたよね。

そしてその旧姓は、天久…


私、その天久という苗字がしっくりこなかったんです。

お母さんは昔から高知県に住んでいると言っていたのですけれど、高知県に天久という苗字の人はほとんどいないんです。辞書で調べてもその苗字は沖縄県か岩手県出身の人が多くて…」


「雪ちゃんは、何が言いたいの…?」


「高知県出身っていうのは、嘘なんですよね?」


「…」

勇の母は何も言わなかった。


「かといって沖縄出身というわけでもなさそうですし。

となると、その天久という苗字は…何か意図があって、その苗字を使用しているのですか...」



長い沈黙のあと、勇の母は口を開いた。



―――――――――――――――――


意識が戻ると、目の前の男は怯えと怒りを込めた目つきでぼくを見つめていた。

横にいるもう一人の男も、脇腹を抱え込んでうずくまっているところを見ると、どうやら侍さんはこの窮地を脱してくれたようだ。


そしてぼくは、男に質問を投げかける。


「お前たちはなぜこんなことをするんだ?」


よくみると悪そうな顔をしておらず、普通のおじさん、普通のおじさんとは、のような顔をしていた男は投げやり気味に言った。


「それはこちらの台詞だぜ。市長のか弱い娘さんを誘拐するつもりが、ベッドの中にいたのは生意気なガキだ。さらにそいつがバイオリンの弓で暴れ出すだなんて想定外だぜ…」


脇腹を抑えていた男も、ゆっくりと立ち上がる。

「こんなやつを誘拐したって意味がねえ。さっさと、逃げるぞ…」と吐き捨てる。


雪を誘拐するつもりだったこの二人を逃がしてはいけないと思いつつも、憑依の解けた状態で、彼らを確保する自信はなかった。1階にいる雪の両親を呼びにいくこともできたが、今は目の前の彼らに質問をぶつけたかった。


「なぜ、雪を誘拐しようとしたんだ?」


男は笑みを浮かべる。

「はっはっは。お前はバカか?身代金目的の誘拐に決まってるだろ。俺たちは、山内家の血筋の気にくわねえし、金持ちも気に食わねえのさ。

最近のおかしい世の中じゃこれくらいのことをしねえと...こっちもやってられねえんだよ。」


「おかしい…?」


「ああ、おかしいさ。政治家は、国を、地方を食い物にしているじゃねえか。

強行採決で国民を困らせる数々の法案を通し、逆進性の性質を持つ消費税の増税を繰り返す。

政治家や資産家など、富むものはますます富み、貧しいものはどんどん貧しくなる。

あいつらは俺たちみたいな社会の下層のことなんざ、これっぽっちも考えてねえ。

弱者に厳しすぎるこの国で、俺たちに残された手は…」


ぼくは、男の言葉に何も言い返すことができなかった。



そのとき、遠くから叫び声が聞こえた。「勇くん。何かあったのか!大きな音が…」

そして、ドッドッドと階段を駆け上がる音が聞こえる。


「やっべぇ!退散だ。娘がいねえのに長居しても仕方がねえ!」


男はそう言って立ち上がり、自らが割った窓ガラスに向けて駆けだし、そこから外に向かって飛び出した。脇腹を抑えていた男も、歯を食いしばって立ち上がり、先ほどの男と同じように、窓ガラスから外に向けて飛び出した。


あまりに早い逃げ足に、ぼくはどうすることもできなかった。

いや、できなかったのではなくて、何もしなかったのかもしれない。ぼくには、彼らが本当に悪い人だとは思えなかったのだ。


「勇、戦っていて思ったのじゃが、奴らは決して本当の悪ではないのかもしれぬ。どちらかといえば、正当防衛だ。勇を傷つけようとする気持ちが感じられなかったのじゃ。」


「そうか…」




一方、1階に飛び降りた男たちは、痺れる足に鞭を打って走り出していた。


「こんちくしょー!支配者ズラして、イビキをかいてるんじゃねえよ!」


その叫びは、月に向けて放っているかのようだった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る