第8話 イカロスの翼と身分差
4人の男たちに囲まれた絶体絶命の状況の中、遠くから誰かの声が聞こえた。
「おい!お前ら何してんだ」
その声を聞いた4人の男たちは、少し気を緩めてその男に話しかけた。
「あ」
「お頭じゃねえっすか。」
「お頭はゆっくり休んでいてくださいって言ったのに。」
「そうっすよ。」
この場に歩み寄ってきたお頭と呼ばれるその男は、怒気をはらんだ声を出す。
「バカ。てめえらの帰りが遅いから心配したんだろうが。
昨日もヘマしやがるし…お前らは風貌に似合わずおっちょこちょいだからな。」
「へい。ありがとうございます!」
「褒めてねえよ...本当はお前らだけで…」
男は呆れたように吐き捨てたが、その声はどこか聞き覚えがあるものだった。
ここで、ぼくを囲んでいた男の一人がお頭に訴えた。
「ところでお頭。こいつをみてください。昨日、俺たちの邪魔をしてきた小僧が今日も邪魔をしてきているんですよ。」
「小僧だと?」
そう言って、お頭と呼ばれるその男は、ゆっくりとしゃがみこんでぼくの顔を確認した。
男はサングラスと黒いマスクで顔を包んでいたので、表情を読み取ることができなかった。
男はごくりとツバを飲んだ。
その瞬間、ほんの少しだけ男の雰囲気が変わったような気がした。
黒のスーツに身を纏った鋭利な輪郭が少し丸みを帯びたかのようだった。
「とどめは刺すな。こいつは見逃してやれ。」
お頭の発言に対して、子分と思われる男たちは驚きを隠せない。
「え?」
「けど、昨日も邪魔をされていますし、昨晩の目的を果たせなかったのもこのガキのせいで…」
「てめえら。俺の言うことが聞けねえのか?」
「…はい」
部下たちは俯いて黙るしかなかった。
どうやらこの男はカリスマ性がある人物らしい。
ぼくは危機を回避できたことに、ほっと胸をなでおろした。
その安心を悟ったのか、お頭は釘を差すように語りかけてくる。
「今日のところは見逃してやるだけだ。だが、これ以上、俺たちに関わるなよ。」
関わるなと言われても、そういうわけにはいかない。恐怖を胸にしまい、声を絞り出す。
「別にあなたたちと、関わりたいわけじゃない。あなたたちが、雪の家の前をうろついているから…」
「忠告しておく。山内雪とその家族には関わるな。これはガキが関わっていい問題じゃねえ。これ以上関わると、ただでは済まないぞ。」
昔のぼくならここで、頷いてしまっていたかもしれない。しかし、今は違う。
「山内雪は、ぼくの大切な友達だ。彼女が危険な状況に陥ろうとしているのなら、ほっておくわけにはいかない…」
お頭は、ぼくが反論してくることに面を食らったようだった。数秒の沈黙が続いたのち、彼はこう切り出した。
「ギリシャ神話に出てくる人物の、`イカロス`って知っているか?」
「知らない。」
「じゃあ、覚えておけ。
イカロスは父のダイダロスから、蝋(ロウ)で固めた翼を与えられ、自由自在に飛翔する能力を得た。
父のダイダロスは、翼を与える時に、イカロスにこう忠告した。
`必ず中空を飛べ。低すぎると海の水しぶきで羽が重くなる。高く飛ぶと、太陽の熱でロウが溶ける。まあ、私についてくれば安心だ`
イカロスは、飛び始めた。はじめは父のダイダロスについていくことが精一杯だったが、しばらくすると空を飛んでいることが楽しくなってきた。そして、いつのまにか父を見失い、空高く飛んだ。」
「高く飛ぶと、ロウが溶けるんじゃないの?」
「ああ、そうだ。
太陽に近づいた結果、イカロスの翼はロウがとけて羽がバラバラになった。そして、イカロスは、海に真っ逆さまに落ちた。」
「イカロスはどうなったの?」
「死んださ。弱いくせに、勝手なことをすればそうなる。自分の力を過信し、父の言いつけを守らなかったからな。
父のダイダロスは、近くの島にイカロスの遺体を埋め、その島をイカリアと名付けた。ギリシャ領でエーゲ海にあるイカリア島は、この逸話を元にして名付けられているそうだ。」
「…」
お頭はなぜ、イカロスの話をぼくにするのだろうか。
人間の傲慢さが自らの破滅を導くという戒めの意味なのか、
それともお頭と呼ばれる男は…
お頭は立ち上がり、「撤収だ。」と呟いた。
そして、4人の男たちとともに、ぞろぞろと引き上げていく。
ぼくは倒れたまま、頭をほんの少し上げて、彼らの後ろ姿を見送ることしかできなかった。
お頭の後ろ姿にうっすらと、幽霊のような影が浮かんでいたのは幻影だろうか。
―――――――――――――――――
不思議と昨晩ほどの痛みは感じなかった。
手加減してくれていたのだろうか。
ぼくはゆっくりと立ち上がった。
今、雪の家に戻っても、彼女の家に騒ぎを持ち込むだけなので、自宅への帰路につくことにした。
男たちは雪の家に何かをしたわけではない。幸い彼らは帰ったようだし、明日、雪に話すことにしよう。
さらに、今は、自分自身でも気持ちの整理がついていなかった。
イカロスの逸話、声の面影、もしかしたら、あの男は父かもしれない。
もし父だとしたら、雪の家の周りを徘徊していた怪しい集団のお頭が...
いや、考えたくなかった。ぼくは目を背けることにした。
侍さんは、長い沈黙を破ってぼくに語りかけた。
「勇。助かってよかったのう。
しかし、さっきも言っただろう?儂は万能ではない。勇、お前自身も強くならないといけないぞ。精神的にも、体力的にも。」
「うん。わかってる…
それと、質問があるんだけどさ。侍さんはどうしてぼくに憑依したの?」
「どうしてって、儂が封印されておった札を剥がしたからじゃ。
勇があの札を剥がしたことによって、儂はお前にとりついた。」
「どうして封印されたの?」
「儂を恐れた奴らが封印の札をはったのじゃ。
儂はかつて二度封印されておるが、二度ともそのような理由じゃな。」
侍さんはそれ以上詳しいことを教えてくれなかった。
亡くなったあとに成仏できずに彷徨って、何かがあって二度、人間に憑依した、ということしかぼくにはわからない。
家に帰ると、珍しく母さんが帰ってきていた。
「勇、遅かったじゃないの。」と、ぼくを出迎えてくれる。今日は珍しく仕事が早く終わったようだ。
昨晩のことやさっきのこと、ぼくにとって今まで体験したことがなかった出来事がたくさんあった。それらのことは本当に怖かったし、今も母さんに抱きついて泣き出したかったけれど、涙をこらえて平静さを保った。
そして久しぶりに雪の家に行って、夕飯をご馳走になったことを話して、雪と入れ替わってお泊り会をしたい、ということも伝えた。予想に反して、母さんは快く承諾してくれた。
その後、ぼくはモヤモヤした気持ちを吹っ切るために、母さんに質問をぶつけた。
「ねえ母さん。今、父さんはどこで何をしているの?」
母さんは、じっと天井を見つめる。そして憂いの表情を浮かべながら心なく答えた。
「私にはわからないわ。もう長年会っていないもの…」
この時、母さんに言っていればよかったのかもしれない。父さんかもしれない人物に出会ったことを。
―――――――――――――――――
次の日の昼休み、ぼくは廊下で雪を見つけたので、彼女に話しかけた。
「雪、今日の放課後、ちょっと時間ある?」
「ごめん。今日はバイオリン教室の日なんだ。」
「そっか、じゃあいいよ。」ぼくはそう言って、自分のクラスに戻ろうとする。
「じゃあ、今から一緒にお昼ご飯食べようよ。」
「え?」
「じゃあ、お弁当を持って、屋上集合ね。待ってるから来てね!」
ぼくの承諾も確認せずに、雪は自分のクラスに戻った。
雪一人を屋上に行かせるわけにはいかないので、ぼくも自分のクラスに戻って弁当を持った後、屋上へ向かった。
屋上に上がる扉の前で、雪は待っていた。
「勇くん、遅かったわね。あと、誰かに尾行されてない?」
「大丈夫。後ろからは誰も来てないよ。」
「それはよかった。ジブリの映画であったのよ。クラスメイトが後ろからつけてくるんじゃないかなってちょっと心配になって。誰か来ていたら、ちょっと恥ずかしいからね。」
雪はそう言って微笑んだ。ぼくは少し緊張してしまったのか、何も答えることができなかった。侍さんも横で微笑んでいる。「よかったのう勇。今日は、一人で昼食ではないのう。」
「じゃあ、入ろうか。」彼女はそう言って扉を開ける。どうやら施錠していないようだ。
「この学校、警備が薄いからね。」と口走る彼女は、まるで女スパイだ。
ドアを開けると、フェンスに覆われたコンクリート床の世界が広がっていた。真上には空が広がっており、開放的な気分になる。2年間学校に通っているが、屋上に上がるのは初めてだ。
ぼくらは、扉の前の段差に二人並んで座る。
そして弁当を開けて、ぼくは昨晩の出来事、誰かが雪の家の周りを徘徊していたことを話した。
雪を心配させてはいけないので、ぼくが怪しい男たちに暴力を振るわれたことは伝えなかった。
雪は、眉間に皺を寄せる。
「やっぱりそうか。最近、家の周辺の様子がおかしいのよ。」
「おかしい?」
「そう。私も最近それには気づいていたの。けど、お父さんもお母さんも詳しく教えてくれなかったからさ。私はこの間、ジイを問い詰めて聞き出したの。」
問い詰めて。彼女は可愛い顔をして、物騒なことを言う。
「するとね、ジイが私に色々と教えてくれたんだ。
最近、私の家の周りを徘徊しているのは、この四万十市を拠点とする暴力団、長元組よ。」
「暴力団?」
ぼくには、暴力団という存在が具体的にイメージできなかった。
「暴力団はね。不動産収入や用心棒代、違法行為など、暴力的な一面を見せながら商売をすることで収入を得ていたみたいなの。
けど、数年前に全国で暴力団排除条例が制定され始めてから、流れが変わったわ。
この条例では、市民や企業に対して、暴力団とあらゆる契約を結ばないよう求めたの。」
「その条例は良いことじゃないか。つまり、市民や企業は、暴力団と関わらなくてよくなったんだよね?」
雪は顔色を曇らせた。
「話はそんな単純ではないのよ。
地域によっては、暴力団が絶対悪、というわけではないみたいなの。長元組もそうだけど、昔は、暴力団も市民や地元の企業と上手くやっていたんだけどね。あの法案ができてから、収入源が断たれて、多くの暴力団が解散に追い込まれているの。」
ぼくはまだ理解できなかった。
「暴力団が解散することの何が問題なのさ?」
「勇くん。暴力団に所属している人は、あくまで個人事業主ではあるけれど、その母体となる組織は自分の会社みたいなものなの。条例で締め付けられて、暴力団が解散したら、そこで働いていた人たちは、一斉に職を失うのよ?
解散後の組員は定職にもつけず、犯罪に手を染める人もいるそうよ。
長元組も最近、懐事情が厳しくて焦っているみたいなの。
条例で経済的・社会的に暴力団を追い詰めればいいわけではないと思うんだ。
窮鼠猫をかむっていうでしょ?」
彼女は美味しそうにお弁当を食べながら、難しい説明をしてくれている。
「なるほど。実情がなんとなくわかってきたよ。
もちろん、ぼくらの住む四万十市も暴力団条例は制定されているんだよね?」
「そうよ。
平成23年に`四万十市暴力団排除条例`
平成24年に`四万十市の事業等における暴力団の排除に関する規則`
が制定されている。
長元組は、条例の撤廃を求めて、市長である私のお父さんに、水面下で圧力をかけてきているみたい。昨日勇くんがみかけたのも、彼らだと思うわ。
「雪は詳しいんだね。」ぼくは感嘆の声を上げる。
「ジイから聞き出したり、自分でも調べたり、お父さんたちの話を盗み聞きしたから、結構詳しくなっちゃった。
それともうひとつ厄介なことがあってね。歴史問題も尾を引いていて、今の市長である私のお父さんは、長宗我部系の人から恨まれているの。」
「そうか。雪は、山内家の末裔だものね。」
「そして、暴力団・長元組は、元郷士の人々が集まってできた組織だから、山内家のことを恨んでいるそうなのよ。」
「郷士って、なんだっけ?」
雪は無知なぼくにも、丁寧に教えてくれる。
「郷士を説明する前に、四万十市の歴史について話すね。
元々、この四万十市中村の地は、土佐一条家が治めていた。
その後、一条家を滅ぼした長宗我部家が統治した。
長宗我部家は、関ヶ原の戦いで西軍についた結果、改易されて、私のご先祖様である山内一豊様が土佐一国を治めることになったの。」
「ぼく、山内一豊が主役の大河ドラマ`功名が辻`を見ていたから知っているよ。
山内家が土佐に入ってきたとき、長宗我部家の残党は抵抗したんだよね?」
「そうなのよ。
土佐にやってきた山内家の人々は土佐に縁のなかった人ばかり。だから長宗我部家の旧臣たちとそりが合わずに、何度も流血沙汰が起こったわ。
山内家は、その後も土佐の支配に苦労したそうなの。
だから山内家は譜代の家臣と長宗我部家臣の一部を上士として、残りの土佐にいた地侍を郷士として、身分差別を行った。
長宗我部家の旧臣たちは郷士と呼ばれて、生粋の山内家臣たちよりも、低い扱いをされてきたの。」
「そんな身分格差があったんだ。そういえば、坂本龍馬は郷士だったよね。」
「そうよ。坂本龍馬は郷士だったから、身分の関係で高知城に登れなかったらしいの。
そして、上士と郷士の対立は、幕末まで尾を引いた。いや、今もまだごく一部で残っているみたい…」
元郷士の暴力団が、藩主であった山内家のことを未だに恨んでいる。
今から400年前の身分差別が現代にも影を落としていることは、とても悲しいことだった。
雪は卵焼きを口に入れながら、言葉を続ける。
「人はみんな、不安なのよ。だから身分格差を作って、自分より下の存在を作って安心しようとするんじゃないかな。
江戸時代だってそうじゃない。士農工商という身分の下に、さらに`えたひにん`という職業階級を作ったの。
えたひにんの漢字は、`穢多`や`非人`よ?
穢れが多い…人に非ず…
そんな言い方、ひどいよ、ひどすぎる。
その仕事内容は忌み嫌われるものだったのかもしれない。けど、その仕事をしてくれる人々がいないとそれはそれで困るわけじゃない。
なのに、そういった職業をしている人を差別するなんて…」
雪は、とても苦しそうだった。言葉を吐き出すたびに、目にうっすら涙を浮かべている。
「雪、無理しなくていいよ。」
「うん、大丈夫。私は自分の考えをちゃんと伝えたいの。勇くんならきっとわかってくれると思っているし...
私はね、職業に貴賎はないと思うの。
もちろん、騙すこと、傷つけることはだめだけど、一生懸命働いている人を差別するのは絶対に間違っている。
上士や郷士と身分を分けるのもおかしいよ…
私の考え、間違っているのかな?」
「ううん。間違ってないと思うよ。」
間違ってはいないと言ったものの、ぼくはそれ以上何を言えばいいのかがわからなかった。身分格差、暴力団。
なにより、雪のお父さんに圧力をかけている暴力団の頭が、自分のお父さんかもしれないのだから。
そのとき、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
二人は慌てて弁当を片付けて、自分たちの教室へと駆け戻った。
―――――――――――――――――
それから一週間が経った。
日程調整の末、今日があの日になっている。
そう。ぼくが雪の家に泊まり、雪がぼくの家に泊まる日だ。
烏が大空を飛び回る様子は、ぼくに嫌な予感を抱かせた。
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