第7話 距離感なんだよ、人生は
「お願いってのはね。
今度、私と入れ替わってほしいんだ。」
雪の突拍子のない発言に、ぼくは目をぱちぱちとさせた。まるで野山を駆け回るリスのように。
「それは、大ヒット映画みたいに中身ごと入れ替わるってやつ?」
「そんなの絶対嫌だよ!
そうじゃなくて。1日だけ、お互いの家を入れ替えるんだよ。」
「い、一緒に寝るなんてそんなことできないよ…!」
ぼくは雪と一緒に寝る妄想をして、顔を赤らめた。
雪はそんなぼくの蕩けた顔を見て、目を細める。
「勇くん、勘違いしてない?私たちが一緒に寝るわけじゃないよ。
入れ替わるっていうのは、私が勇くんの家に泊まって、勇くんが私の家に泊まるってこと!私は自分の家じゃなくて、誰か他の人の家に泊まりたいの。
私はただ、たまには自分の家を離れたいんだよ…」
「なんてこった。」心の中の叫びが、つい声に出てしまった。勝手に雪と一緒に寝る妄想していたことを心から恥じるしかなかった。
「ふふふ。」雪はくすくすと笑って言葉を続ける。
「勇くんがそんなに感情を露わにする姿、本当に久しぶりに見たよ。なんかほっとする。
侍さんと同居してから、勇くんは本当に感情表現が得意になったんだね。」
「そんなことより、家を入れ替えるのは嫌だよ。お互いの部屋に入って寝るなんて…
そもそも、そんなことはぼくに頼むべきじゃないよ!
雪は、ぼく以外にもたくさんの友達がいるし、女の子の友達に頼めばいいじゃないか。
「勇くんは、わかってないなあ。
女の子の友達は、`あの子は政治家の娘だ`って、私のことを一目置いているの。
良い意味でも悪い意味でも。
もちろん表面上は仲が良いとは思っているけど、みんな心のどこかで私のことを雲の上の存在だと感じているの。なんていうのかな、つながり自体は希薄なの。
だから、私の家にはあまり来たがらないし、私が彼女たちの家に遊びに行くこともないの。私は部活動に所属しているわけでもないし、いつも足早に帰宅して、習い事ばかりしているし。」
雪が淡々と自分の人間関係を分析していることに、驚きを隠せなかった。
彼女は友達が多い、漠然とそう思っていたぼくは、彼女の本当の人間関係を全くわかっていなかった。
「けど私だけじゃないよ。誰だってそうだと思う。
人との距離を近づけすぎようとすると、その分、障害もしんどいこともあると思うの。
自分が傷つかないように、周りを傷つけないように、みんな、微妙な距離感を保って人間関係を構築しているんだよ。きっと。
女の子の友達たちは、私との距離を必要以上に詰めようとしないの。
`政治家の娘に媚びている`って思うのが嫌な子もいるし。
みんな私のことを、生徒会の役員とか政治家の娘というフィルターを通してみているみたい。
でも私はね。いろんな背景やしがらみを抜きにした、`山内雪`という一人の存在でみてほしいんだけど…うまくいかないよね」
雪の思わぬ心境の吐露は考えさせられるものがあった。
好きな本の中で、`いいか、距離感なんだよ、人生は。`という台詞があったのだけれど、それを思い出す。人間関係ほど、距離感を求められるものはない。
ぼくは人との付き合いが下手だけれども、周囲と良好な関係を構築している雪も思い悩んでいるなんて知らなかった。
しかし、その思いをうまく伝えられない。
「距離感なんだよね、人生って。雪も大変だね。」という気の利かない言葉しか言えなかった。
「ありがと。勇くん。」先ほどまで物憂げな表情を浮かべていた雪は、意識的に顔つきを笑顔にしたようだ。
「勇くんがどう思っているかはわからないけどね、私は勇くんが一番仲良い子だと思っているんだ。だって、私はいつも君に声をかけるでしょ?君は饒舌じゃないからあまりたくさん話してくれないけど…
家も近所だし、幼稚園の頃からの付き合いだから、お互いの親にも面識があるし。
私のお母さんも、勇くんのことを気に入っているんだよ?」
雪の口からこぼれ出る数々の誉め言葉は、ぼくにとってはキャパシティオーバーだ。突然千本ノックを打たれたような気分になる。
学校一の優等生で美女の彼女にこんなに褒められるなんて、これは夢ではないだろうか。
「雪の気持ちはわかったけど、入れ替わるのはやっぱり嫌だよ。」
「なんで?こんなに頼んでるのに…」雪は目を潤ませた。それが演技なのか、本当の懇願なのかはわからない。
横では侍さんが、「なぜ断るのじゃ!」と喚いている。
「だって、恥ずかしいじゃないか…
雪の部屋でぼくが寝て、ぼくの部屋で雪が寝る、なんて…」
ぼくは顔を赤らめながらつぶやいた。
「なんで恥ずかしいの?あ、わかった!わかったよ!!」
わかった、と繰り返すときは、たいていわかっていないものだ。嫌な予感は的中した。
「勇くんは、自分の部屋にいやらしい本が大量にあるんでしょう?」雪は目を細めてニヤニヤした。
「な、ないよ!」
「大丈夫。思春期だものね。うん、仕方ない。私は気にしないし、軽蔑しないよ!」
「だから違うって言ってるじゃないか!」
「私たちは幼馴染の仲だから、いやらしい本くらいで壊れる関係じゃない!」
雪の叫び声を聞いて、運転席のジイは、ぷぷっと吹き出した。どうやらずっと笑いをこらえていたようだ。
そしてぼくは、半ば投げやりに答えてしまう。
「わかったよ、わかった!入れ替わろう。それでいいだろ!
ぼくの部屋には、何もやましいものなんてないんだ!」
「よかった。じゃあ、よろしくね。」雪はにっこりと笑った。
しばし、静寂の時間が訪れた。心なしか、運転席のジイは、うれしそうな顔をしている。ジイは、雪の苦悩を知っていたのだろうか。
侍さんも何も言わずに、にこにこしている。今から訪れる雪の家に思いを馳せているのだろう。
そんなとき、雪はふと、ぼくの耳元でささやいた。
「勇くん、ごめんね。そして、ありがとう。」
「なんで謝るの?」
「意図的にからかったんだ。ああやって、からかわないと、勇くんは了承してくれないと思って。ごめんなさい。
それとね。私、やましい本があるなんて思ってないから。」
「怒ってないよ。ぼくもさっき神社で、雪を不愉快な気持ちにさせたし、お互い様だよ。」
「ふふふ。勇くんは本当に優しいんだね。
あと、日程どうしようか。
私の家はいつでも大丈夫だけど、勇くんのお母さんは忙しいよね。
またお母さんにこの件を話して、日程を調整してから教えてね。」
「わかったよ。」
雪は繊細なのに気が強くて。けどこうやってすぐにフォローしてくれる。嵐のようでもあり、そよ風の扇風機のようでもあった。
余談だが、後日、ぼくは1冊だけ大事に保管していたやましい本を、泣く泣く焼却処分することになる。思春期、バンザイ。
―――――――――――――――――
時間の流れというものは不思議だ。
過ごしている間の感情、喜怒哀楽によって体感時間が変わる。
雪と話していたこの時間は、あっという間のものだったが、それも「到着しましたよ」というジイの声で終わりを告げた。
高級車から降りて雪の家の前に立つ。久しぶりの眺めだ。最後に訪れたのは小学校低学年の頃だっただろうか。
コメディ映画・ホームアローンに登場するような、大豪邸とまではいかないまでも、西洋風の作りの大きな邸宅は見ているだけでほれぼれする。
「侍さん、雪の家では、少し静かにしていてね。雪のご両親の前で、独り言の多い変なやつだと思われたくないから。」
侍さんにも先に説明しておくと、「わかった。」と理解してくれた。
先に扉の前まで進んでいた雪は、「さあ、遠慮せずに入って。」と、ぼくを導いた。
遠慮をしていたわけではなく、ただ豪邸に見とれていたのだけれど、庶民感覚をさらけだすと少し格好悪い。ぼくは堂々とした歩みで、雪の家に足を踏み入れた。
「久しぶりね。勇くん、いらっしゃい。」
出迎えてくれたのは、雪のお母さんだった。
艶やかな黒髪と気品のある目鼻立ちは、雪にそっくりだったが、人生経験の深さからか、人を包み込む柔和な雰囲気が漂っている。
「本当に久しぶりだね。私を覚えているかな?」
次に声をかけてくれたのは、雪のお父さんだった。
選挙ポスターでの凛々しい表情の印象が強かったが、柔らかな笑顔に驚かされた。威厳と柔らかさを兼ね備えた雰囲気は、ぼくの父とは大きく異なっていた。
久しぶりに雪の両親と出会って、雪が心底羨ましくなった。こんな温かみのある家族に囲まれているなんて。
「晩御飯まで、少し時間があるから、私の部屋で休んでいようよ。」
雪はそう言って、ぼくを部屋に案内した。
真ん中に赤い絨毯が引かれた階段を登り、二階に上がる。
ぼくの部屋の3倍はある広い部屋は、落ち着いた`ワインレッド色`で覆われていた。
部屋の端には、大きなグランドピアノが置かれている。
「この部屋は私にとっての`安全地帯`なの。お母さんにもお父さんにも、入ってきてほしくないけれど、勇くんは特別だよ。」
ぼくは雪からのありがたい言葉よりも、ピアノの横に置かれたケースと、バイオリン弓に目を奪われていた。
「あの箱は、何?」
「バイオリンだよ。
バイオリンは奥が深い楽器でね。
音色は本体、弓の素材や状態、あらゆる要素が絡み合って綺麗な音色を奏でられるかどうかが決まるの。」
雪は箱を開けて、バイオリンを取り出した。弓を手に取り、今にも演奏を始めるかのように演奏の構えをとったが、すぐに手を下ろした。
「弾いてよ?」ぼくは声をかける。
「嫌だ。演奏は、恥ずかしいの。」
雪はバイオリンをしまいながらつぶやく。
「じゃあ、いつか弾いてね。」
「うん…いつかね。」
二人は一瞬だけ、見つめ合った。
世界から音が消える感覚に陥る。
しかし、妙に恥ずかしくなってすぐに目線をはずした。
ピアノ、バイオリン、弓…
部屋の楽器隊は、二人に祝福の音色を届けたかったようだけど、それは叶わなかった。
―――――――――――――――――
目線を外した先には、グランドピアノがあった。
そこには、一枚のノートが置かれていた。
丁寧に、力強く刻まれた文字。
ヒマラヤほどの消しゴムひとつ
楽しい事をたくさんしたい
ミサイルほどのペンを片手に
おもしろい事をたくさんしたい
今しか見る事が出来ないものや
ハックルベリーに会いに行く
台無しにした昨日は帳消しだ
揺篭から墓場まで
馬鹿野郎がついて回る
1000のバイオリンが響く
道なき道をブッ飛ばす
―――――――――――――――――
「これ、1000のバイオリンだよね?」
ノートを読んだぼくは、雪に尋ねた。
「私のイメージでは、1001のバイオリンだよ。
ロックバージョンが`1000のバイオリン`で、オーケストラバージョンが`1001のバイオリン`になってるんだ。`1001のバイオリン`は、バイオリンの疾走感が素晴らしいんだよ!」
雪は興奮気味に熱く語っていた。
「意外だなあ。てっきり、雪はイケメンの男性アイドルが好きだと思ってた。
「イケメンアイドルも好きだけどね。
ブルーハーツが大好きなんだ。
ギターの真島昌利が作詞作曲した「1000のバイオリン」。
それを、甲本さんが魂を吹き込む。
甲本ヒロトさんの歌って、まっすぐなんだよね。それと、自由っていうか。」
自由。雪はこの言葉にこだわっているように思えた。
ぼくの家と入れ替わりたいと言ったのも、自由を求める姿勢だ。
「自由、か。さっきも話していたけど、雪は自由に憧れているよね?」
「そうだよ。私は、自由に生きたい。
大人や両親から定められたレールじゃなくて、自分の道を歩みたい。」
「ぼくは、自由が何なのか、よくわからないんだ。
自分がどうなりたいのか、どうしたいのか、確固たる気持ちがないのかもしれない。
自由になるより、人に愛されたいという気持ちが強いのかもしれない。」
「私と勇くんは、家庭環境が真逆だからね。
私も偉そうには言えないけど、自由っていうのは、想像力だと思うよ。
特に、`1000のバイオリン`っていう曲は、想像力のフル活用した曲なんだ。
消しゴムをヒマラヤ山脈に、ペンをミサイルに。
なんてことない日常の文房具も、想像次第でなんにでもなるの。
楽しい事も、おもしろい事も、まずは想像することから始まるんじゃないかなあ。
そして、心躍るほうへ…」
「心躍るほう、か。想像力豊かな方が、毎日楽しいのかもしれないなあ。」
「けど、勇くんも想像できているんじゃないかな。
だから、侍さんが見えるんだよ。
私も想像力を最大限働かせて、侍さんを見ようと思ってるんだけどなあ。」
雪はそう言って、目を凝らしている。
「そうだ、雪。侍さんのことだけど、誰にも言わないでほしいんだ。」
「わかっているよ。誰にも言わないから安心して。」
この`わかった`、は安心できる`わかった`だ。ぼくはそう確信した。
―――――――――――――――――
たわいもない話をしたあと、ぼくらはリビングに戻った。`しばし歓談ください`とアナウンスされたわけではないのだけれど、大きなテーブルに並べられた豪華な料理を前にすると、パーティに出席しているかのようだった。
ジイは雪を送迎後に帰宅したので、夕食は山内家の3人とぼく、4人でとった。
雪のお母さんの手料理に舌鼓を打ちながらの楽しい食事時間はあっという間にすぎた。
時刻は21時を回っていたので、ぼくはそろそろ帰路につくことにした。
「今日はご馳走様でした。本当にお世話になりました。そろそろ帰りますね。」
「送っていこうか。」
雪のお父さんは優しく声をかけてくれる。
「いえ、一人で大丈夫ですよ。」
政治家の先生に送ってもらうなんて、気が引けるので、もちろん断った。
「でも心配だね。最近、うちの周りは物騒だから…」
雪は物憂げな表情を浮かべる。
しかしぼくは、「お気になさらないでください。」と断りをいれ、一人で帰路についた。
―――――――――――――――――
初めて入った雪の部屋、その感触を思い出して、放心気分で歩いていた。
「勇。気を入れて歩かんか!」
日曜の朝のニュース番組のように喝を入れてくるのは侍さんだったが、その言葉も右から左に流れていく。
ドン!
そんな上の空気分でふらふらと歩いていたら、前から歩いてきた二人の男たち肩をぶつけてしまったのだ。
「なんだよてめえ」
黒いスーツに身を包んだ男たちは、勇にドスを聞いた声をかける。
「す、すみません!」
ぼくはそう言って、すぐに駆けだした。
こういうときは逃げるに限る。ハンガリーのことわざにもあるように、逃げるという行為は決して恥ではない。
幸いにも男たちは追ってこなかったのだが、ぼくは嫌な予感に気づいた。
こんな時間にスーツ姿の強面の男たちが歩いているのは、明らかに不審だ。
さらに彼らは、ぼくが歩いてきた方向、つまり雪の家の方面に向かっていた。
ぼくは踵を返して、もう一度、雪の家の方角に歩みを進める。
「勇、なぜ引き返す?」侍さんはぼくに問いかける。
「あいつら怪しいよ。少し様子を見るために戻ることにする。」
「やつらからは禍々しい気配を感じるぞ。注意せえ。」
「わかってる。わかってる。」
ぼくはそう答えたが、全くわかっていなかった。
いざとなれば侍さんが憑依してくれて助けてくれると思っていたこともあり、気持ちが大きくなっていたのだ。
しかしたいていの場合、わかったと繰り返すときは...いや、やめておこう。
ぼくは、まるで探偵にでもなった気分で、彼らの尾行を始めた。
彼らと距離をとりながら、ゆっくりとついていく。
5分ほど尾行して気づいたことは、彼らは雪の家の周りを何周も歩いていたということだ。
しかし、雪の家に侵入する気配はない。何か問題行動を起こしているのなら、警察を呼ぶことも考えるのだが、彼らはただ、家の周りを歩いているだけだった。
嫌な予感が大きくなる。何をしでかすつもりだ。
ぼくはやつらの顔を確認するために、さらに距離を詰めようとした。
しかし侍さんはそれを制止する。
「勇、やめておけ。これ以上近づくのは危険じゃ。」
「大丈夫、何もしないよ。様子をみるだけだ。」
取り返しのつかない事態を招くときは、慢心が原因のことが多い。
慢心にさえ気づいていない段階では、少し未来の危機を想像できるはずもなかった。
「おい、坊主。てめえ、さっきから何してるんだ。」
尾行していたはずの男たちは、はるか前方にいるはずにもかかわらず、真後ろからドスのきいた声がした。
振り返ると、真っ黒なスーツに身を包んだ二人の男がぼくを見下ろしていたのだ。
彼らは前方の二人の仲間だった。
つまりぼくは、やつらを尾行していたつもりだったが、別動隊に尾行されていたのだ。
「何してんだって聞いてんだ。」
「いや、別に何も…」
「何もしてねえわけねえだろ!」
そんな押し問答をしているうちに、前方を歩いていた二人もこちらにやってきた。
ぼくはこのとき、前後を4人の男たちに囲まれてしまったのだ。
さらに不幸は重なる。
やってきた男たちの中に、身に覚えのある男がいたのだ。
ただれた皮膚に包まれた卑しい表情、とてつもなく小物臭が漂うその男は、昨晩遭遇した男と同一人物だった。
彼はぼくに気付くなり、声をあげる。
「こいつは、昨日俺たちの邪魔をしたやつだ。
こいつだけは許さねえ。やっちまえ!」
相変わらず、どこかで聞いたような三流のワルの台詞を吐き出す男だ。
しかしぼくは一人ではなかった。
強力な仲間がいるのだから。
「侍さん。出番だよ!早くぼくに憑依して、こいつらをやっつけてよ!」
しかし、侍さんの返答は寂しいものだった。
「無理じゃ。」
「な、なんでだよ!?」
「武器がないじゃろ?
儂が憑依して、お主の潜在能力を引き出しても、丸腰でこやつら数人を打ち倒すことは不可能じゃ。」
たしかにそうだ。本来のぼくは運動神経がよくない。武器を手に取って侍さんの剣術が使えれば、勝ち目はあるが、コンクリートの道路に木の棒などの武器は落ちているはずがない。
「じゃあ、どうするのさ?大声で助けを呼ぶの?!」
「降伏せえ。頭を伏せて、命乞いするしかないじゃろ。だから儂はあんなに深入りはするなと注意したのに…」
もちろん侍さんの姿は男たちには見えていない。彼らは、奇妙な目でぼくを見つめていた。
「さっきから、何を一人でブツクサ言ってんだよ」
後ろから大きな手のひらが、ぐわっとぼくの口を塞いできた。
こうなると、声を出すこともできないどころか、顔も動かすことができない。
物凄い握力の大きな手のひらに覆われ、顔がズキズキと痛み、手足をばたつかせても、逃げることができない。
「こいつ、どうする?」
「暴れられたら厄介だ。とりあえず一発入れておけ。周りのやつらにバレないように、手加減してな。」
「おうよ。」
口を覆っていた手のひらが離れたと思うと、即座に胸倉を掴まれた。
そして、目にもとまらぬ速さで、地鳴りのようなアッパーを鳩尾に打ち込まれる。
ドゴッ、という鈍い音が骨の髄まで染み渡り、その場に倒れ込んだ。
この光景は、昨日と全く同じではないか。
昨晩は、侍さんのおかげで窮地を脱したが、もうそれも期待できない。
自業自得じゃないか。
侍さんの忠告に耳を貸さずに、自らの力を過信して、このざまだ。
距離感なんだよね、人生。
そう言っていた自分自身が、一番距離感を掴めていなかった。
不敵な笑いを浮かべた男は、倒れた勇を見下ろしながらこうつぶやいた。
「昨日は始末し損ねたからな。今日はトドメを刺してやる。」
耳の奥では聞こえてくる恐ろしい声。
今度こそダメかもしれない、と、歯を食いしばった。
十六夜の月夜、ためらいがちな月とは対照的に、男たちは急いでトドメを刺そうとしていた。
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